君を呼ぶ世界 80
どうやらオレは。
かくれんぼが下手なようだ。
ハム公に続いて、トラ公にまで見付かってしまった。
しかも。相変わらず臨戦体制丸出しだ。まさかじゃないが、オレを本気で餌だとは思っていないよな? 喰う気じゃないよな?
「…………」
さっきの今だから。喰わなくても、喰らいついてくるくらいの事はしそうだと。オレは預けていた背中を壁から起こし、いつでも駆け出せるように腰を落とす。だけど、走る前からもう負けが決まっているのは明らかで。
オレはこんなに草臥れへばっているというのに、こいつは元気も元気。
十数歩先で止まったままの聖獣のそれに気付いた途端、何だかもう遣り合うのが馬鹿らしくなってしまった。眼を逸らしたら喰われるかもと思っていたその警戒も一瞬で消え去り、オレは瞼を落として軽く喉で笑いながら頭を振る。
圧倒的な力でこの獣に圧し掛かられたのを、体が覚えている。抵抗ひとつ出来なかったのを、忘れてはいない。だけど。いや、だからこそ。そんなオレに、さっきよりも悪化した体調でこの獣と向かい合えというのは無理な話だろう。
走って逃げ切る力があるのならば、オレはとっくにもう王城から出ているはずだ。迷って遊んでいたわけではない。
本気で迷子であるオレに何が出来る? 出来る事など、ひとつだろう。
「……言っておくけどなァ、聖獣。オレを食っても、美味くないぞ。腹壊すだけだからな」
だから、やめとけよと。オレは肩の力を抜き、再び壁に身体を預けながら眼を開ける。腰を下ろしお座り状態な獣に、オレは口角を挙げながら言ってみる。
「腹が減ったのなら、お家に帰りな。夕飯の時間じゃないのか? てか、お前何処に住んでるの? 家って、ここか? この城か?」
それは贅沢なことで、何よりだなと。全く羨ましくないが、笑いを消せないままオレは言葉を繋ぐ。
「豪華じゃなくてイイからさ、オレもベッドで寝てぇよ、なあ?」
黄昏に染まっているのは景色ばかりではなく、オレの頭の中もそうであるらしい。というか、現実逃避…?
この虎にとって数メートルの距離なんて一瞬であるのだから、次の瞬間には飛び掛かられて噛み殺されているのかもしれない。そんな未来を少しでも遠ざけるかのように、もうどうでもいいさとどこかで思っているオレがいる。気付いた瞬間恐怖に捕らわれそうで、眼を背けるように、平気を装い獣に話し掛けている。
だけど、相手は神の獣でも、人間ではないのだ。言葉が通じるわけでもないだろう。
「ああ、そうだトラ公。帰る前に、さ。オレに出口を教えろよ?」
バカだろオレ。熱で、可笑しくなったのか。声を掛けてどうするんだよと、口角に上がる笑いは紛れもなく自嘲。
けれど、もし、この光景を誰かが見ていたら。
もしかしたら、聖獣になんて口の利き方だとか言って、また別の罪を着せられるのだろうか。たかが動物相手に、だ。でも、ありえそう。何せ、聖獣さまさまなのだから。
「聖獣さまだって、オレに居て欲しくないでしょ? オレのこと嫌いでしょ? だったら、丁度いいじゃないですか。オレをここから出して下さいよ」
だったら、その、尊き獣の意思を汲み取り、ただの人間は消えてやるかと。慇懃無礼に言葉を改めるが、やはり、ペットに語りかける飼い主バカと変わらない自分への呆れが濃くて、改めた口調は長続きしない。
掛かってこないのならば、何処かへ行って欲しい。言葉はわからずとも、邪険にすれば去っていかないだろうか。
犬だって、シッシッと追い払えば立ち去るのだし。
そんな事を思いながらも、別段本気でもなく。ただ、零れた愚痴を止められないと、オレは言葉を吐き出す。
「第一、さ。もとはと言えば、お前が悪いんだ。勝手にサツキの石を神子の玉だとか何だとか言いやがって。神子の力が残っているのならば、石じゃなくオレ自身にだろうによォ。お前のせいで、サツキの石取られちゃったじゃないか」
ったくよォ、と。
熱からくる以上の熱い溜息を吐いて、ふと、何かに引っかかる。
「…あれ?」
何だ?
なんかおかしくないか?
何に引っかかったんだ?と、眉を寄せたオレの視界の中で、白い物体がゆっくりと動いた。
「……ちょ、」
大人しく座っていた虎が、ゆっくりとオレに近付いてくる。
「ちょっと、ま――ッ!!」
不意打ちだ!と焦りながらも逃げようとしたのだが、踏み出しかけた足が上がる前に、膝が崩れて倒れてしまう。
ずるりと、まるでマンガのように、壁で半身を擦りながら地面に崩れたオレの前に。
聖獣サマ、ご到着。
「…………」
座った事で、間近に迫ったその顔に、一瞬意識が真っ白に染まった。
気付けばオレは、今にも開きそうな口を見つめてただひたすら、心の中で謝っていた。無意識のうちにも、ごめんなさい!と。
ゴメンナサイ、スミマセン、調子に乗って言い過ぎましたッ!!
もう、オレの事は放っておいていいから、お帰りください。てか、マジどこかへ行って! 今更だけど、怖いですッ!!
ひ〜、近すぎッ!!
…って?
「……え?」
下がってくれー!と心で絶叫した瞬間、虎との距離がスッとひらいた。
数歩後退した聖獣が、相変わらずオレをじっと見つめてくるけど。オレとしては、まるで心の叫びを聞きかれたかのような、オレの心境を察しているかのようなその行動に、目が点状態だ。
ふと、先程引っかかったのは、これだと閃く。
こいつ、もしかして、もしかしなくても、オレの言葉がわかるのか…?
「……まさか」
犬や猫と一緒だとは流石にオレだって思っていないけど。それでも、獣だ。動物だ。聖獣といえど、そんな事はないだろうと思う気持ちの方が圧倒的に強くて否定する。ありえないと。
だけど、そう、ありえないけど。オレが操るこの言葉は、神子の力だ。だったら、聖獣と言葉が通じてもおかしくはないのかも…?
「……お前、名前はなんてーの?」
よろけた体勢のまま、意思疎通の確認の為、基本的な質問を向けてみたのだが。
聖獣さまは何も仰いませんでした――って、やっぱり喋れるわけがないか。さっき押し倒してきた時も、吼える事しかしなかったじゃん。うん。何、ファンタジックな思考を発揮しているんだオレ。
いくら異世界とはいえ、喋る獣なんて気味が悪いだろう、と。どこかでホッとし、どこかで残念がりつつも、真剣に考えびびった自分が馬鹿らしくて、オレは返らない答えに笑う。
笑うが、まだ、何か引っかかっている。
「――って! 違うじゃん!」
そうだ、違うだろ、オレ!!
確か、王様は言っていただろ。聖獣が言ったのだと。アレを神子の玉だと、オレを神子ではないと。しかも、リエムも普通にそれを納得していたし!
そう、だったら。
王様は、聖獣が選んだ相手は、聖獣の言葉を解せるのだ。
きっと、あの王様とこの聖獣は会話が成り立つのだ。
だったら、もしかして…。もしかして、だけど。今の様子からしてみると…。
「ありえねぇけど…まさか、だけど…なあ? お前、もしかして、オレの言葉は理解していたりする…?」
お座り!お手!伏せ!なんて単純命令じゃなく、ちゃんとわかっているんじゃないかコイツ。人間と同じ知能があるんじゃないか?と。
オレは恐る恐る問い掛ける。オレに言葉を向ける事は出来なくとも、オレの言葉はわかっているんじゃないかと。
だが、獣は微動だにせずオレを見返すのみ。
「……オレの言葉がわかっているのなら、その場で三回周ってワンと言ってみて」
無反応。
「……チンチンでもいいけど…?」
無反応
「…出来ないわけじゃないよな?」
言っている言葉がわからないんだよな?と重ねて問うても、反応はゼロ。まるで、待機を命令された訓練犬の如く尻尾さえ動かさない。
「……。……なんだよ、ビックリさせるなよ」
もし本気で王様とそんな事が出来て、盗聴器よろしくオレの言葉を理解し奴に伝えたらどうなるのか。その可能性に、考えるだけで気が滅入ったと、オレは髪をかきあげながら頭を振る。人の話を聞かないバカ王のことだ。言語能力だけとは言えオレが神子の力を引いているのだと知ったら、また難癖をつけてくるのだろう。バレたら最悪だ。
もしかしたら、犬や猫以上に、人間の感情には敏感なのかもしれないが。言葉がわかるわけじゃないんだと、改めてわかってホッとして。良かった〜と、安心したオレだけど。
王様のことは兎も角、サツキの石や、王城脱出に関しては良くないじゃんと思い直す。
「いや、お前が言葉をわかるのなら、サツキの石を取り返してもらったになぁ…」
思わずぼやく。
実際に、オレのそれを汲み取れたとしても、オレに牙を剥いたこの獣がそれを聞き入れてくれるかは疑問なんだけど。それでも、さっきとは違って、今はそう敵愾心も感じないし、大人しくしているし。言葉が通じたら、協力してくれるんじゃないかなとちょっと思って残念がってしまうオレ。なんとも、現金な。
だけど。なにせ、腐っても聖獣さまだ。神の獣なのだから、多少の慈愛は持っているだろう。
自分の間違いでこんな苦境に陥っているオレを見たら、少しは罪悪感も浮かんでるんじゃないか?と。それに付け入るわけじゃないけど、多少の見返りは求めてもいいだろう。それくらいに、オレはこのトラ公の判断で、窮地に陥ったのだから。
「助けてくれるのなら、さっきのお前の暴挙は水に流してやるのにさ。ったく、ホント、死ぬかと思ったんだぞ?」
さっきまでとは逆に、言葉が解せないとわかったからこそ、吐き出す愚痴は。目の前の獣の暴力から、王様のそれへと変わり、最終的にはやはり片割れの石へとなって、オレは上に訴えるよう懇願する。
「アレはさ、本当にオレにとっては大事なものなんだよ。そっちにも、神子探しの手掛かりかもしれないんだろうけどさ、やる事は出来ないんだ。アレはオレの半身みたいなものなんだよ、返してくれないか? いや、王様が持っているのか? だったら、取ってきてくれよ、なあ」
言葉は伝わっていないのはわかりつつ、犬や猫でも人の起伏はわかるのだから、こいつもわかるだろうと。いつの間にか、気付けばオレは切実に訴えていた。
だけど、獣は動かない。……当然か。当然だ。だけど、これはこれで残念無念。
「……まぁ、お前にも立場ってものがあるか…。盗めないよな、悪かった、変なこと言って――って。オレ、ホント何やってんだろ…てか、お前いつまでそこにいてるんだ。まさか、オレを見張っているのか?」
自分で言って、その言葉に納得する。そうだ、こいつも脱走したオレを探していたのかもしれない。
ああ、逃走もここまでか。動いたら、こいつはまた飛び掛ってくるだろうか?
せめて、サツキの石が無事なのかどうか、知りたかったんだけどなぁ…。
「……なあ、トラ公。せめて、あの石が何処にあるのかくらい教えてくれよ?」
王様に無碍に扱われていたら、オレ、脱走なんて出来ないよ。大人しく、牢屋で反省も無理。大罪だとしても、王様を非難するぞ……って。今は気持ちばかりで、その気力はないのだけどさ。
あの怒りのままに、壊されていたらどうしようか。
そう溜息を吐くオレの前でまた、徐に聖獣が腰を上げて。
「……」
大きな虎が、まるで仔犬のように。自らの尾を追いかけるようにして、小さな円を描いた。
そして。
数回周ったその獣は、「グワぁ」と恐竜の赤ん坊がゲップでもしたかのような、控えめな声で吼えた。
…………。
……………………へッ??
2009.07.02