君を呼ぶ世界 81


 ぎゃああああああァ!!!!
 ごごごごごご、ごめんなさいーーッ!!

 赤く染まる空よりも一歩早くに、オレの頭の中に暗闇が訪れる。
 鈍器で殴られたかのよう衝撃。
 意識を失いたい現実。
 だけど、眩暈すら覚えられずに、ただオレは呆然と、目と口を開いて目前の獣を見つめる。
 いま目にした光景を、どう解釈すればいいんだ…?
「…………えっと、あの、その、まさかだけど…」
 たっぷりと呆けてから、オレは渇いた口で何とか生唾を飲み込み、掠れそうになる息をゆっくりと吐き出す。
 答えを知るのが、とっても怖いのだけど。
 知らないで居る事もまた恐怖。
「今のは、その、……了承か? オレを、サツキの石のところまで案内してくれる、とか言ったりする…?」
 まさかそんな事がという思いと、だけどそうなのかもしれないという思いがぶつかり合って。言葉を紡ぐに連れてオレの中で、そのふたつが起こす波に心が激しく揺らされたのだけど。
「――ぅぎゃッ!!」
 痛いくらいに心臓が脈打っているオレに止めを刺すかのように、聖獣さまが再びその場で回り始めた。
 一瞬、オレは意識が飛んだかのようにフリーズしたけれど。このまま真っ白の世界へ飛び立てるほども現実は優しくなくて。またもや呆けかけた意識に反して動いた体に引き摺られるよう、オレは叫びながら世にも奇妙なトラに飛び掛る。
 …いや、虎がグルグルするのは、極々普通の画ではあるけれど。
 こいつは、そんじょそこらの虎じゃなく。一応、オレよりも高貴な存在であるわけなのだから――流石に、ワン、はないだろ。うん。何させてんだよ、オレ…!
「ちょちょちょ、ちょっと待って! ストップ!!」
 倒れこむようにしてトラに手を伸ばして、今まさに開こうとしていた口をオレは両手で抑え込む。うわっ、フサフサ! ……じゃなくって!!
 やゆった責任は取らなければ…。
「……ワンは要らない。そもそも、回んなくていいから…」
 間近で青い目を見つめ、オレはそう言い脱力する。
 トラ公から手を離し、両手を地面に着いて。まるでそれこそお座りのように膝を曲げて座り、オレは息を吐き尽くす。
 脱力だ。
 堪らず、勘弁してくれと地面に向かって呟くが、そんな事で事態が変わる訳ではない。むしろ、聖獣の能力がわかったので、事態が変わられても困るというもの――なんだけど。
「……」
 チラリと少し顔を上げて視線を向けると、相変わらず感情の見せないトラが、それでも大人しくオレの側で座っている。まるで、オレが動くのを待つかのように。
 今さっきの事だけど、自分が何を言ったのかなんて、はっきりとは覚えていない。殆ど勢いで言ったものなのだから仕方がないだろう。だけど、今のことを考えて振り返ってみれば、聖獣がオレの言葉への了承を伝える手段として、オレが指示したその行動をとったのだろう事が嫌でもわかる。
 そう、この神の獣は、オレの言葉を解しているのだ。
 そして、オレへ意思を伝える手段がアレなのだから、言葉は操れないのだろう。
 驚きだ。確かに、可能性として想像していたものであったが、これは驚くべき事であるのは間違いない。
 だけど、そんな判明した事実が吹っ飛ぶ程の衝撃が、今なおオレを掴んで離さない。
 まさか、この気位の高そうな獣が、オレが言った屈辱を飲むとは…。いや、異世界住まいのこのトラ公にとっては、そうではないのだろう。ただの面倒な仕草だけなのかもしれず、抵抗はないのかもしれない。だから、二度目もやったのだろうけど。
 けど、そうであっても。オレは違う。こんな、まるで、虐めのような行為を自分が聖獣に強いただなんて、居た堪れなさ過ぎる。回る聖獣なんて直視出来ない存在だ。薄ら寒い。相手が無心な分、凶悪だ。
 ……いや、はや、本当に御免なさい。
 マジで謝るから、許してくれ…。
 ……でも、言葉に出して謝ったら、また更に自分の首を絞めそうだ。ここは、このまま流すべきか…?
「……回ってワンはなしで、お願いします」
 ああ、まるで。無垢な子供に、大人の汚れきった遊びを教え込んでしまったかのような罪悪感。
 時が戻るなら、戻りたい。そう息苦しさを覚えながらも、打算しているオレ。居心地の悪さ全開だ。
「…いや、ほら、その、面倒だし、な? お前がオレの言葉がわかるとわかれば、オレだって気に掛けるし、首振るなり尻尾振るなりで大丈夫だから……そうだろ?」
 にこやかとは程遠いけど、顔を引きつらせながらもなんとか笑うオレに返るのは、相も変わらない表情のない視線。先程よりも簡単な仕草を提案したというのに、意思表示しないとはどういう事だクソ…。
 つまりは、あれか。出来るがしないというわけで、完全無視なわけだなこれは。
 気に入らないのか、返事など必要ないものだと心得ているのか……わからない。わからないが、わかったか?と聞き返すのも何だか出来ない。先程の引け目か、強気に出れない…。
「……あー、じゃ、行こうか」
 連れて行ってもらおうかな、と。オレは間近の冷静な目に耐えられず、余計と言えるような言い訳をどもりつつも口にし、これでこの話は終わりとして打ち切るように立ち上がる。
 いや、だって。アレが辱めだと気付かれたらきっと、サツキのところへは連れて行ってくれなくなるだろうし。もう二度と、オレの言葉に反応しなさそうだ。
 それくらい、この獣が主に似た頑固さを持っているのだろう事はなんとなくわかり、オレは墓穴を掘りきる前に疚しい事に蓋をする事にする。ちょっとくらいの無視なんて、可愛いものとしよう。うん。
 でも、もしこれが王様ならば。一頻り笑って、更に種明かしして蔑んでやるのだろうなと、簡単にそんな自分の行為が想像できた。なので、たとえ意思の疎通は可能でも、会話も出来ない動物相手にそれは無理だと。それが犬や猫ならば、からかうように気安く弄ぶ事は出来るだろう。だが、ホワイトタイガーで遊ぶ事は無理だと。そう思っている点では、オレはこの聖獣に一応は一目置いているのだろうなと自覚する。
 こんなに側にいて、とりあえず安心してもいいとわかってはいるけれど。それでも、虎なんてものは、動物園の檻の向こうからでも吠え掛かられればビビる存在だ。まだまだ馴れそうにない。
 現実逃避をはかれれば、飛びつきたくなるくらいに可愛いけれど。そのふてぶてしい雰囲気も微笑ましくなるけれど。緊張と恐怖は、常に心のうちにある。命への執着を捨てられないうちは、じゃれ付く事なんて無理そうだ。
 さっきはよく飛びつけたなと、オレは今更ながらに震えそうになる身体を押さえつけ、両手を握り締める。
 ただの感覚ではなく、実際に言葉を理解する獣。
 これが愛犬ならぬ愛虎であったのならば、心強い存在だろう。だけど、馴れぬ身には脅威だと…そこまで考え、その獣の主である男の事をオレは思う。
 正に、虎の威を借りる何とやら…だ。
 あのイカレ王に従っているとは、何だか哀れにさえ思えて、そう思った途端、急に親近感が沸いてきて。オレの中であっさりと、前を行くトラの先程の暴挙も、今の態度も全てが水に流れた。綺麗さっぱりと。逆に、その苦労に同情すら覚える。
 そして。同じ苦労と言えば、リエムだ。
 今頃リエムはオレの逃走を知って探し回っているだろうか…?
 悪いなと、心底思う。
 だけど、やっぱりオレの中では、友のその立場よりも、片割れの存在の方が大事で。
 リエムにも見付かってはならないと、改めて周りに視線を向ける。
「あのさ、オレ人に見付かると拙いから…」
 見付かったら、案内される前に牢屋行きだと後ろから呟くと、ふわりと垂れていた尻尾が左右に揺れた。
 わかったと、そう言っているのだと解釈して。それ以降は喋りか掛けずに、オレは大人しく道先案内の聖獣付き従う。
 トラ公は本当にオレの立場をわかってくれているのか。建物の中に入ったり、外へとまた出たり、部屋の中まで突っ切ったりと大胆な道案内であったが。人気のないところを選んでくれたのか、一切誰とも会わず、またその気配すら感じなかった。躊躇いのない足運びに、最初はビビっていたオレも。夕闇が深まるに連れて緊張も解れ、後を追いかける足も軽くなる。
 けれど、実際には。身体はすこぶる重い。緊張が薄くなるにつれて、ダルさを実感し始める。
 それでも。サツキの石を見るまではと、何とか踏ん張り辿り着いたのは、明かりがまだ点っていない部屋だった。  庭から続く数段の階段を上ってバルコニーに立った聖獣が、ちらりとオレを振り返り、開いていた窓から中へと入る。オレもそれを追いかけようとしたのだが。
 何故かトラ公は、部屋へ一歩入ったところで立ち止まり、オレの行く手に蓋をした。
 ここまで連れてきて帰れとは言わないだろう。だから、ここで待てという事だろうか?
 窓越しにぼんやりと見えるのは、誰かの私室のような部屋。壁に本棚が並んでいる。目を凝らせば、ソファの影に誰かが居るようなのがわかった。オレの解釈は間違っていたわけではないようだ。
 暗い部屋の中でもわかる、白い獣がそこへと近付くのを、オレは息を潜めて視線で追う。もしかして、もっと下がった方がいいだろうか。庭に戻るか…?
「……聖獣か」
 それでも。オレに協力したトラ公が今更オレを兵士に引き渡すとも思えないし。不安よりも、一体そこに誰が居るのだろうかとの興味の方が強くて、ひらりと揺れるカーテンの隙間からそっとそれを窺おうとした瞬間。
 中から聞こえてきたその声に、オレはそのまま固まった。
「俺は、どこで間違えたんだろうな……」
 訪れた獣に語りかけるように呟かれたそれは、先程向けられた怒気とは掛け離れていたけれど。
 間違いなく、あの男。王様のものだった。

 ……ジーザス。


2009.07.06
80 君を呼ぶ世界 82