君を呼ぶ世界 82
オレにとって、王宮は鬼門のようだ。
何の事だか知らないが。
似合わない声を出しているのは、あの暴君サマだ。間違いない。
……今の今まで、人目を避けてくれていたというのに。一体これはどういう事だ…!
一番見付かりたくはない相手が直ぐ側に居る事実に、オレは恐怖を覚えるよりもまず、聖獣に対する苛立ちを心で叫ぶ。
オレを安心させておいて、裏切ったのか、トラ公! クソ〜、騙されたッ!!
最初の接触が、アレだ。飛び掛られ押し倒され、余計なことをヤバイ奴に告げられ、印象最悪だったのだ。こうして今は協力的になっていても、次はわからないぞと。疑うほどでもないけど、そう言う意味での警戒は、多少は持っていた。もしかしたら、このまま牢屋へ連れて行かれるんじゃないか、兵士に引き渡されるんじゃないかと。
だけど。全然人に会う事無く、まるでオレの立場を慮っているかのようで。本気でコイツはオレをサツキの石まで連れて行ってくれるんだなと、感謝すら覚え始めていたのだ。これなら、無事を確認するだけじゃなく、返却も交渉次第で可能じゃないか? 王宮脱出も協力してくれるんじゃないか? そんな事も思っていたのだ。
それなのに…!
オレを売る気だったのか、クソ聖獣ッ!!
お前は、オレとそいつの確執を見ていただろ! それでこれか!? これなのかッ!?
幸先明るく見ていた分、この展開は相当堪える…と。信頼しかけていた獣のあまりにもな行いに、オレは強敵が近くに居る拙さに緊張を覚えながらも、腹の底で唸る。いくらなんでも、これはないんじゃないか?
これなら、二・三十回くらい回ってワンをさせれば良かったと。数メートル離れた場所で座っている獣を見ながら、オレは少し後悔する。
……てか。
トラ公を恨んでいる暇はない。ここにサツキの石があるのだとしても、あの男が居ては確認するのは無理だ。見付かる前に逃げないと…。
入室を止めたくらいだから、あの獣とてオレが拿捕される事は望んでいないのかもしれない。王様が居たのは想定外だったのかもしれない。聖獣さまが奴の気を引いているうちに逃げるのが得策だ。
オレはそう決め、もしかしたら聖獣がサツキの石を取ってきてくれるかもしれないからと、とりあえず庭で隠れていようとそろりと足を引きかけたのだけど。
外さずに目を凝らしていた視界の中で、まるで横に居る聖獣に見せるように、王の右手が軽く持ち上げられた。
その中で何かが揺れる。
「……」
何故か在室しているにも関わらず明かりもつけていないので、はっきりとは見えないが。だからといって、自分に馴染んだそれを見間違うわけもない。アレは、オレのペンダント。間違いなくサツキの石だ。
ソファに横たわり、腕を上げそれを掲げる王に思うところは色々あるが。
とりあえず、無事である事にオレはホッとした。
だけど。
安堵した瞬間、オレの目の前で、それが消えた。
正確には、獣によって消されてしまった。
持っていた男にとっても唐突な事だったのだろう。抵抗する間もなく、あっさりと、獣の口の中にペンダントが消える。
「ぁ…!」
思わず、声を零してしまった。
手足が使えないとは言え、二度も喰うとはどういう了見だクソ聖獣ッ!!
当然として、隠れている身としてはそれ以上声を出す事はせず、心の中で罵倒したのだけど。
実際には、そんな事はどうでもよい事態がオレに襲い掛かってきた。
「……ひッ!」
手の中のものを奪い取られたからか、オレの声を拾ったのか。ソファの上でガバリと身を起こした男が、立ち上がりながら聖獣の姿を目で追い、そのままオレを捕らえた。
見付かったッ!
それを悟った瞬間、オレが次に思ったのは、殺される!だ。
聖獣が床を駆けるようにしてこちらに来るその向こうで。
王もまた、ソファの背を蹴るようにして跳んだ。
そう、正しく、飛んだ。
揺れるカーテンを突き破るように、オレのところまで。
「……どういう事だ、聖獣」
迫ってくるその恐怖を脳が理解する事を拒否したのか。気付けば、男はオレの前に立っていて。オレはいつの間にかベランダで尻餅をついていた。
そのオレの前には、聖獣が居る。
まるでオレを守るかのように、太い四本足でしっかり立って王を見上げている。
「お前がこの者を連れてきたか」
その声に、先程の独白のような擦れはなかった。だが、昼間のような怒気もない。
一見、冷酷に思えるが、実際には無色透明なような。質問していても返答は求めていないようなそれは、まるで暗闇のように、誰にも何も見せないかのようなもので。
オレが感じたのは、オレ自身のそれではなく、目の前に立つ男の絶望だった。優位に立つ王のそれに、オレは訳もわからずに苦しさを覚える。
いま、絶体絶命大ピンチなのはオレであるのに。何故、オレを脅かしているこいつが、こんなにも痛いのだろう。
オレにだってわかるソレ。
なのに、当然この聖獣とて主の心情をわかっているのだろうに。
獣は、まるでオレに頭を垂れるように。主の言葉には何も返さずオレを振り向くと、地面につくオレの手に鼻先を押し付けてきた。
見下ろしてくる男の強い視線を意識しつつも、獣の行動も気にかかり、ギギギと音がしそうなぎこちなさで首を回して見てみれば。
オレの指先に、ペンダントがあった。
サツキの石が。
「……あぁ」
これまたぎこちない動きで、オレはそれを片手で握る。
目の前にいる獣を見返し、そのままゆっくりと王を見上げる。
視線をあわせても、怖くはなかった。身体から恐怖が引いていく感覚に、オレは体勢を立て直し、両手でペンダントを抱くように握り締める。
「どうやって聖獣を手懐けた」
落とされたその声に、思ったのはひとつ。
もしかして、この男は、自分が聖獣に裏切られたと思っているのだろうかという事だ。だから、そんな痛みに堪えているような様子なのだろうか、と。
「立て」
だけど、それは思い違いだ。聖獣はオレを助けたのかもしれないけど、オレを信用なんてしていないだろう。この主である男を裏切ったなどあり得ない。王を裏切りオレに付くのならば、オレをここまで連れて来てはいないはずだ。
聖獣は変わってはいない。だから、この男が不貞腐れる理由はない。
冷めた声を聞きながら、いつの間にか横に避け、主と同じようにオレをじっと見つめてきている獣の視線を感じながら、オレは確信を持ってそう思う。理由はとても弱いとわかっていても、間違っている気は何故かしない。
聖獣は、何も変わっていない。襲い掛かってきた昼間と、何も。
きっと、再びオレに牙を剥く事も躊躇わないだろう。
その点で言えば。相変わらずのようだけど、この男の方がどこか変わったように思う。
「もう一度だけ言う。これは命令だ、立て」
拒否は許さないといった、慣れたその物言いに。オレは、のろりと立ち上がる。逆らう気はない。ただ、身体がいう事を訊かないくらいに重い。
それでもどうにか体を支え、オレはまっすぐと、少し高い位置にある男の顔を眺めた。すっかり暗くなってはいるが、これだけ近ければ、相手が眉を寄せたのも見落としはしない。
「来い」
静かな声音の中に、漸く、苛立ちのような色が浮かんだ。
襟元を掴まれ引き摺られるように引っ張られながらも、オレはそれにどこか安心を覚える。
だけど、それは長くは続かなかった。
「うわッ!」
放り出されるようにして、先程まで男が寝ていたソファに突き飛ばされた。仰向けに倒れ込んだが、放れた拘束に慌てて起き上がる。
だが、直ぐに肩を掴まれ押さえ込まれた。
「怪我をしたくなければ、大人しくしていろ」
「…え?」
オレを押さえる逆の手から伸びるのは、掌よりも少し小さい長さの刃。
宣言と同時に近付いたそれは、オレの喉もとへと向かってきて。
グッと、首に襟が食い込むような力を加えられたオレは、ビビッと布が裂ける音を間近で聞いた。
胸を掠ったその指先は、火照った身体には冷たかったけれど。
真っ白になった思考にとどまる事はなかった。
2009.07.09