君を呼ぶ世界 86
世界が変わっても、オレは変わらない。
それは、周りが優しいから。
控えめなノックに立ち上がったのはリエムで。
訪れた人物と少しやりとりした彼が戻ってきた時には、その手に食事が乗っていた。
「おおッ! イイ匂い!」
「食えそうか?」
「全然余裕」
変わった形の盆だと思えば、ひっくり返せば小さなテーブルになっていた。オレの脚を跨ぐように置かれたその上に、どんぶり程度の器が置かれる。中身はおかゆのようなものだ。米じゃなく、マカロニみたいなものだけど。
「ゆっくり食えよ」
スプーンを手に、リエムは?と聞くと、「俺はもう食ったから」と言われた。だが、それはウソだとオレは瞬時に悟る。忙しい身なのだろうリエムが、宵の口だなんていう早い時間に食事を終えているとは思えない。
だけど、ひとりで食べるのは気まずいとはいえ、病み上がりの身で一緒に食べようとは誘い難い。風邪が感染ったら大変だ。
「では、遠慮なくいただきます」
丸一日以上食事をしていないので、食欲を誘う香りにがっつきたくなったけれど。熱くてとてもじゃないが無理というもので、息を吹きかけ冷まし、そろりと口をつける。それでもまだ、喉を通り越しても熱いそれは、見た目ほども重くなくあっさりとしたものだった。マカロニみたいなものも、マシュマロのように少し舌で押せば簡単に潰れて解けてしまう。面白い。
何より、美味い。身体に広がる熱さにホッとする。
「美味しい〜」
「それは良かった。メイはエルの料理で舌が肥えているだろうからな」
「確かに、エルさんの飯は旨い」
だけど、労働者相手の食事だから結構重ったるいのが難点だ。昼夜まかないで食っているが、量は少なくして貰っている。時折、女将さんが作るヘルシーメニューに飛びついている身としては、こういうあっさり系の方がありがたい。
少し欲張って頬ばり、ハフハフと口内の熱さに悶えていると、リエムが冷たい水を汲んでくれた。その表情は、まるで母親のような慈愛に満ちていて、若干照れくささを覚える。思えば、旅の途中でも看病をして貰ったし、怪我の手当てもして貰ったし。もしかしたら、リエムの中でオレは虚弱体質だと認定されているのかもしれない。
どちらかと言えば、オレは心臓に毛が生えているタイプなんだけど。
さっきも、打たれ強いだとか何だとか言っていたけど。そこのところ、この男はわかっているのかな?と、案外朴念仁だったりするのかな?と、今はどうでもいい事を思うが。悪く思われているのなら兎も角、誤解されていても問題はないので、あえて確認はしないでおく事にする。実際に、こっちに着てからは弱る事が多いのだし、嘘をついている訳でもないのだから、無駄に強さをアピールする事もないだろう。
さて、食事中に重い話もなんだし。それはその内嫌でもしなければならないのだろうしと、オレは当り障りのない話題を探し、食事をしながら気になっていたものを消化しておく事にする。桔梗亭はどうなのか、とか。あの、倒れた兵士は大丈夫だったのか、とか。
女将さんはわかってくれた。彼は軽い脳震盪だった。リエムのその返事に良かったと笑うと、人の心配よりも自分の心配をしろと呆れられたけど。その苦笑は、やはりいつもの人のイイお兄さんのもので。男のそれに、ゆっくりと身体の奥底で強張っていた何かが解れた気がした。
食事を終えると、リエムが空にした食器と着替えた服を持って部屋を出ていく。
先程食事を持ってきた従者を使わないところが、なんだかリエムらしいなと。王城と言っても堅苦しさのない雰囲気に、オレは小さく笑う。
城と言えば、オレのイメージは中世ヨーロッパだとか御伽噺だとかのもので、映画や小説の中の世界だ。長いテーブルの端と端に座って食事をして、その大きな部屋の壁際にはメイドや給仕が黙って立っている。広間では舞踏会でクルクルと。中庭ではサーベルのような剣で決闘を。地下には、秘密の抜け道が。
女の子ならもっと色々知識があるのだろうけど、オレの中ではそんな程度だ。
あ、いや。もうひとつあった。天幕が付いたベッドも、城アイテムだろう。
だけど、オレが乗っているのは、豪華そうだけど普通のベッドだ。今のところ、オレの許容範囲内である。良かった。
もしも、起きた時にいたのがリエムではなくて。今日から貴方様に仕えさせて頂きますと言って頭を下げる侍女がいた日には、城だけではなく異世界トリップの定義のひとつであったとしても全力で拒否しただろう。そういうのは、むず痒くて堪えられそうにない。小市民には苦痛だ。
ホント、リエムがいて良かったと。そういう嫌がらせをしなかった点はあの男を褒めてやってもいいなと。食事をして落ち着き、心に余裕も出てきたのかそんな事を考えていると、リエムが戻ってきた。
「ああ、おか――ぁ、」
おかえりと、顔を向けたまま、思わず固まる。
大きく扉を開けたまま立ち止まるリエムの足元から、白い虎が此方を窺っていた。
「……」
虎の顔を見極める術は持たないが、聖獣が他にも居るとは聞かないので、コイツはオレが知るトラ公だろう。だが、そのトラ公が何故そこに居るのか、意味不明だ。
唐突に現れたり、逃げたり、訊ねてきたり。何をしたいのだろう、この獣は。おかしなヤツだ。
何故か、じっとりとした眼を向けてきたので、それを見返しながらオレがそう思っていると。スルリとその場で半回し、トラ公は部屋の中に入る事はせずにまた去っていった。揺れた尻尾が壁の向こうに消えるのを見送って、本当に良くわからないヤツだとオレは眉を寄せる。
と、言うのに。
「今のは何だ? 何しに来たんだ?」
「お前が気になったんだろう」
「逃げるってか?」
「違う、心配だったのさ。先程も、傍に居ただろう」
「見張りじゃないの?」
「ここでその必要はない。随分仲良くなったものだな」
ドアを閉めて、定位置となったベッド脇の椅子に腰掛けながら、リエムがそう言って小さく笑った。
確かに、喧嘩腰ではなくなったけれど、オレとあの獣が上手くやっているかどうかは怪しいものだ。むしろ、オレは歩み寄ろうとしているのに、アイツはそれを気にも掛けていない気がする。ただ、自分の思うようにオレと接しているに過ぎないんじゃないだろうか。
「いや、仲良くなった覚えはないけど」
そもそも、人間でも愛玩動物でもないのだ。聖獣が誰かに懐くなんて事があるのか?
王様にも従順ってな雰囲気ではなかったけどなと考え、確認したい事があったのを思い出す。
「そういや、聖獣って、言葉がわかるんだな」
流石に、三回まわってワンをさせたとは言えないので。無難に、取られたペンダントがいかに自分にとって大事な品であるのかを訴え、無事を確認したいからと頼みまくったらそこまで連れて行ってくれた、と。自ら脱出したのではなく、気付いたらあの獣がいて、まあそんな感じになってと。微妙に濡れ衣を重ねつつリエムに説明する。
ここにトラ公が居たら、牢屋から連れ出したのは自分ではないと訴えるのかもしれないが。居ないのだからノープロブレム。居ないのが悪い。
「賢いんだな」
「そりゃ、聖獣だからな」
「じゃ、逆はどうなのよ? 言葉は喋るのか?」
オレの言葉に少し目を見開いて驚いた後、リエムは笑いながら首を横に振った。
「聖獣が人間のように喋れるとは聞いた事がないな」
「いや、オレだって本気でそんな御伽噺みたいなこと思っていないよ。むしろ、喋んない方が嬉しいから」
「だが、喋らないといっても、言葉は理解しているからな。意思の遣り取りは可能だぞ」
「ああ、そうみたいだけど……オレが気になったのは、王様だよ」
降臨したのだから、あの王と獣には何らかの繋がりがあるわけで。もしも、主には聖獣の言葉が精神感応みたいなもので解せるのだとしたら。
「例えば、オレが聖獣の前で王様の悪口を言ったら、それを告げ口する事は可能なのかな?と」
「ああ、そういう事ならば、心配は要らない。王も特別何かが出来るわけでもはない。そういう点では、オレやお前と変わらない」
「は? どういうこと?」
「聖獣にも個々に性格がある。だから、主に絶対服従のものもいれば、非協力的なものもいるという事だ。聖獣は、聖獣ではあるが、主の付属物ではない。あの聖獣は、人と馴れ合う事はあまりしない。それがキース王でもだ。彼にだけ特別言葉を向けているとは考えられない」
なんだそれ。
つまり、あのトラ公は主だからといって、あの男に仕え従っているわけではないという事か? 聖獣にとって、あの男は特別ではないと?
「……リエムから見たら、あの聖獣はどんなヤツ?」
「それは、メイが見極めろ」
「う〜ん、そうは言ってもなぁ…」
「もうお前に飛び掛ることはないと思うが…怖いか?」
「いや、全然。怖くはないよ」
オレの即答に満足したのか。リエムが何処かへ思いを馳せるように、オレから少し視線を外して言う。
「聖獣のことを、友達だと言った奴がいた。そいつは本当に、愛馬と戯れるようにあの聖獣と接していた。聖獣もまた誰よりもそいつに心を許していた。そいつが言うには、聖獣は喋らないけれど全身で答えてくれるのだという事だ。眼が雄弁に語っていると言っていた」
「信頼しあっているんだな」
「ああ、そうだな…」
「……リエム?」
瞼を落とし視界を閉ざした男に、数拍の間をあけて呼びかけると。
「そいつは、こうも言ったよ。王と聖獣はとても似ていると」
「……」
「彼らの孤独が痛いと、何度も泣いていた。何も出来ない自分が悔しいんだと」
俺も、そいつと同じ気持ちだと言って。
瞼を開けたリエムが、その視線で真っ直ぐとオレを射抜いた。
「メイ。お前に聞きたい事がある」
孤高の、王と獣に。優しさを傾ける奴がいる。
それを、痛みに堪えて語る奴がいる。
2009.07.23