君を呼ぶ世界 88


 やっぱり、一発くらいは、ぶん殴っておくべきだったのかもしれない。

 あの王様がオレの人生を狂わせたのだと、そう判明しても。腹の奥底からの恨みは湧いてこなかった。
 だが、それでも。当然としての憤りは覚える。覚えるが、それも、サツキの石を取られた程のものでもない。
「祝いの席で神子を召喚しようとしたのか。成功していたら、凄い騒ぎだったんだろうな」
 嫌味は半分。残りは、ただの感想だ。
 ふざけた事をした王様に対しては、最低な奴だと嫌悪が沸く。だが、自分がこの世界に飛ばされた事実がそこにあっても、思うほどの怒りが湧かない。それはきっと、巻き込まれた衝撃がオレの中で薄らいでしまっているからだろう。今も、元の世界へ戻りたいと思っているけれど。このひと月半でオレは、この世界でオレ自身が思う以上に生きてきた。しっかりと暮らしてきた。それ故に、爺さんの家で覚えたような強い思いは沸いてこない。
 オレは、いつの間にか、この世界に飛ばされた事すら納得している。その原因を許してはいないし、この先認める事もないだろう。だけど、この長くもあり短くもあった月日の中で、オレは苦しんできたばかりではないし、泣いていたばかりでもない。この世界でなければ出会わなかった人とも沢山出会えたし、為になる経験も沢山した。確かに、オレはそんな新しい日々を望んだわけではないけれど。それでも、この世界のこのひと月半が無ければよかったとは言えない。
 それこそ、元の世界に帰れないのだとしても、オレは不運ではあったが不幸だとは思わない。
 何故なら、オレはここで生きているのだ。ちゃんと、生きている。
 オレがこの世界に飛ばされた事で不幸になったのは、向こうの世界に残った両親だ。友達や、知人などのオレを気に掛けてくれる人々だ。オレはこうして、最高ではないにしても最良に出来るだろう場所で暮らしていると言うのに、突然行方不明になったオレを心配し思い悩む者がいるのならば申し訳がなさ過ぎるというものだ。
 自分のせいではないけれど、自分が彼らを気鬱にしているのだろうに。大丈夫だとの、そのたったヒトコトが伝えられない。そのもどかしさは、意識する度にオレに小さな傷を付けていく。
 だけど、それでも。この世界には、オレのそれを癒すだけの優しさが確かにある。オレは、それを知っているから。
 王様を呪い殺してやりたいだとか、アイツもどこか別の世界へ飛んじまえだとかは思わない。事実を知っても、ベッドから飛び出しあの男を捜して、殴り倒してやろうという気にもならない。もし、次に会った時、機会があったら殴るかもしれないが。あえて、会いたくはない。むしろ、もう遠慮したい感じだ。
 あの男も大概だけど、民に慕われているくらいなのだから、奇妙奇天烈人間ではないのだろうし。とりあえずは、オレがここに居る原因がこの国の王でマシだったのかもしれないとさえ思える。だって、ギュヒ国のような独裁者のもとに落ちていたら、今頃どうなっていた事か、だ。異界人は要らないと、わけがわからない内に処分されていたのかもしれない。
 それを思えば。オレって、結構恵まれている。言葉はわかるし、来訪者だとバレないし、出会う面々イイ奴ばかりだし。
 これで、召喚者である王様がもっと人格の出来た人物であったのならば……と、望めば尽きないけれど。もしかしたら、これくらいは妥協するべきなのかもしれないし。
 何より、リエムには無関係な話だ。
「神子がその傍らに立っていたら、王はもっと名を轟かせる事が出来たわけだ」
 そりゃ、残念だったなと。オレは気負う事無く軽口を叩き、喉の奥で笑う。聖獣に引き続き、神子まで得ても。あの男の場合、あんまり威厳に繋がりそうにないと思うんだけどなと、勝手に思い少々呆れる。だけど、ああいう男であるからこそ、民は慕っているのかもしれない。
 子供の頃を知っている面々が、今なお近所の子供を見守るように話していたのをオレは思い出す。
 オレには暴君に感じられたけれど、素はただの子供なのだろうか。オレが見たものは、王なのか、ただの男なのか。どうなのだろうなと、考えかけたところに、違うのだとのリエムの言葉が響いた。
「王は、己の名誉など望んでいない」
「へえ…。だったら、何の為に召喚なんかしたんだ? 神子を望んだんだろう?」
 爺さんは、権力者にとって神子は厄介な存在だと言っていた。だが、同時に貴重でもあるのだ。使い方によってはこれほどのものはなく、きっと聖獣よりも神に近く、その神よりも民に近いのが神子なのだろう。厄介でも、充分に得る意味はあるものだ。
 ただの人であるのならば、神子を欲するのは自然だ。
 だが、そこに何も望まないのは、不自然だ。
「純粋にただ国の為だけと言うのか? そこに私利私欲は一切ないというのか? 神子の恩恵を一番受けるのだとしたら王だろう。国の為であっても、神子を得て結果が出せれば、それは王の評価に繋がるのだからな」
 それとも、そんな事を考える余裕もないほどに、にこの国は危機に瀕しているのか。神子頼みをしなければならないほどに、切羽詰まっているのか。
 それなのに未だ神子を見つけられないとは、マヌケだな。
 そもそも、神子はこの世界に来ているのか? 完全な失敗だったんじゃないのか…?
 自分では、からかい口調で言ったつもりであったが、実際にはそうでもなかったのだろう。口を噤みじっと堪えるように視線だけを向けてくるリエムに、オレはそこまで言わなくてもいいのについ言葉を重ねてしまう。
 怒っているわけでもないのに、だ。
「言ったけど、基本オレは神子召喚は反対派だから。理由が何であれ、相手が王であれ、それをしたあの男を軽蔑する。だが、それとは別に、人が神子を望むのは理解しているつもりだよ。だから、昨日、アンタが神子が欲しいのだと言っていた時も、ちょっと驚いたけれどそうなのかと思ったくらいだ。でも、今はそれがどういう意味なのか聞きたいと思う」
 あの蝶が舞う場所で、リエムは言ったのだ。神子本人はもとより、神に恨まれるのだとしても、神子が欲しいのだと。何の意味があるのかと突っ込んだオレに、理由も理屈もなく欲する時があるのだと、熱望する言葉を淡々と口にした。
 そんな男の裏にあった事実は、主の暴走。王様が秘密裏にした召喚の失敗。
 オレならば、このまま神子が見付からない事を望むけれど。リエムはそれでも、欲しいと言った。事情を一切知らないオレの前で嘘をつくはずもなく、アレはこの男の何よりもの真実なのだろう。心の奥底から、役に立たなくても、むしろ厄介になるだろう存在を、リエムは望んでいるのだ。
 だけど、オレには、その渇望がどこからくるのかわからない。王の為だと言われれば納得するが、その王は名誉を望んでいないとこうして言い切るのだから、わけがわからないと言うものだ。
 リエムは、一体、何を支えているのだろう。王位か、あの男自身の心か、それとも国か。
「神子召喚をしたのに居るべきはずの神子がいないから、ああ言ったのか? 王が欲するから家臣としてのそう思ったのか? それとも、リエムが個人的に望んでいるのか? 神子を見つけて、どうする気だ?」
 この国に、本当に神子が必要だと思っているのか?
 そう問うたオレに、リエムは組み合わせていた手を解き、片手で髪をかきあげた。溜息のような息が、小さく吐き出される。
「俺が神子に望むものは、その存在だ。ただ、居て欲しいだけだ」
「居て何になる? 恨まれるかもしれないとわかっていながらも探しているくせに、意味ないじゃん」
 何だよそれは、おかしいぞと。オレは呆れて肩を竦めたのだが、リエムは笑うことも頷くこともしなかった。
「…あの召喚を、失敗にはしたくない」
「失敗だろう。神子が居ないのなら」
「いや、神子は居る。確かに、この世界には来ているんだ」
 言い切るリエムにその根拠を尋ねると、聖獣もそう思っている、俺はそう信じていると、気負いばかりの返答が返る。つまり、確証は持っていないわけだ。だが、それでも諦めずにひと月半探し続けたのだろうその執念を思うと、オレなんかに食らいついてくるのも頷けるというものだ。
 漸く得たのだろう手掛かりに飛びつく、王や聖獣の態度。
 リエムにならば協力してやりたくもあるけれど、彼らにとって自分が希望となるか絶望となるかわからないままで種明かしする勇気は、やはりオレにはない。
「もし、見つけ出したとして。それで、神子はどうなるんだ? リエムはそれだけで納得出来たとしても、王様は違うんだろう? 何をさせるつもりだ?」
 もしも、同じように。居て欲しい。本当にただそれだけで、今なお神子を探しているのならば、召喚の事実よりもオレは腹立たしく思う。実験の成功を求めるようなそんなもの、神子にとっては迷惑極まりないだろう。神子に対して失礼だ。残酷だ。
 過剰な期待や、無理な願望を押し付けられるのも最悪だけど。何の意味もないのも虚しいだろう。少なくとも、オレはそう思う。やはりオレだって、ふざけた理由よりも、心から純粋に神子を欲して召喚を行った結果、自分が巻き込まれこの世界に飛ばされたのであった方がいい。
 多くの民を救うために、神子が必要だったのだと。そんな理由があったのならば、少しはこの理不尽さを飲み砕けるような気がする。それはきっと、神子とて同じだろう。
「なあ、王様はどうなの? 神子に何を望んでいるんだよ?」
 まさかじゃないが、あの男の事だ。妙な事を願ったんじゃないよなと。
 ちょっと不安に思いながら聞いたのだが、リエムから返ってきたのはそれ以上に最悪だった。
「王は……」
「……」
「……きっと俺以上に、望んでいる事はない」
「……いや、それ、意味がわかんないんだけど」
 召喚をしたのは、王様だろう。
 必要がないのに、神子を呼んだと言う事か?

 一発なんかじゃなく。
 あの機会に、オレは殴り倒すくらいの事は、しておくべきだったのかもしれない。


2009.07.30
87 君を呼ぶ世界 89