君を呼ぶ世界 93


 どれが現実であり、何が真実かなんて。
 ホントは誰にもわからないのかもしれない。

 何がどうなっているのか。気付いたら、母が居た。
 そして、母の前には二十歳前後の女性がいて、二人はなにやら話をしている。
 誰だろうかとよく見れば、どこかで見た覚えがあるコで。友達の友達か、昔の知り合いか、母の事務所のコかと、オレが色々考えているところへ新たな人物がやって来た。
 それは、父だった。
 何故か猫を抱いた父が現れ、件の女の子に腕の中のそれを譲る。
 一体、全体、何だこれは。
 楽しげな三人を一歩離れた位置から眺めるオレが、はっきりとは言えないけれどおかしさを感じ胸中で突っ込んだところで、不意に会話が聞こえてきた。
「小さいのに、貫禄がある猫ちゃんね」
 母のその言葉に、可愛いじゃないと反論する声は、コロコロとした笑いを含み弾んでいる。鈴が鳴るようなと言うほど大層なものではないが、耳に心地良い声音だ。だが、それに聞き覚えはない。
 母と、思い出せないそのコが、白に黒のブチ猫でワイワイと一頻り騒ぎ終えたところで、漸く父が口を開いた。
「新しい家族をメイにも紹介しないとな、サツキ」
 ホラと、そのコの肩を軽く押した父。促されたそのコが猫を抱き近寄ってくるのを、オレは呆然と眺める。
 オヤジは今――サツキと、そう言ったよな…?
「見てメイ、可愛いでしょ?」
 目の前に来た女の子が、オレに良く見せるように、胴を掴んで猫を持ち上げた。
 母が言うように、少々ふてぶてしくさえ思える表情をした猫は、けれども大事な部分もご開帳な格好でかなりマヌケだ。
 だが、微笑ましさは微塵も浮かばない。猫などに構っている余裕はない。
 オレは、「今日から飼う事にしたんだよ」と、微笑みかけてくるその顔を至近距離で捕らえ、漸く気付いた。誰でもない、母と父に似ているのだ。オレに似ているのだ。
 このコはサツキなんだと実感した途端、自分の存在があやふやになった。声も出せなければ、自身の肉体も感じられない。ああ、オレはこの世に居ないんだと。生まれる前に死んだのはオレの方だったのだと、そこには居ない者へ話し掛ける馴染みある行為を取る彼女を見ながら、オレは不思議な感覚の中でそんな確信を持つ。
 持った途端、家族の気配が遠のいた。
 それでも、可愛くない猫が、静かにオレを見ていた。その眼は、青かった。
 コイツ、なんかトラに似ているなァと思った瞬間、ある筈のない身体に衝撃を思えた。
 正確には、額に。
 まるで、ハエを叩き落とすかのようにパシパシと、肉球がオレの顔を打ってくる。
 止めろよ、クソネコッ!
「――止めろって!」
 無いと思っていた手はちゃんとあったようで、オレは肉球を払いのけたのだけど。
 衝撃は収まらず、額に何かが埋め込まれたような激痛が走った。
 声にならず頭を抱え唸ると、「アラ、遣り過ぎたかしら?」と暢気な声が落ちてくる。
 この声は…と顔を上げ恨めしげに見てみれば、案の定、ご丁寧にも未だデコピン発射体勢をとったままの母親がそこに居た。
「ま、起きないアンタが悪いのだから、恨みっこなしよ」
 オイ待てコラ。大事な息子を傷物にして、なんていい草だ。絶対、オレのデコは内出血しているぞ。マニキュアで補強されたその爪は、間違いなく凶器なんだ。無闇に使うな。
「ヤだ、そんな顔で睨まないの。それより、いい加減起きなさい。今日は大学へ行くんでしょう?」
「…は? 大学?」
「そうよ、月曜日だから、講義あるでしょ」
「……」
 確かに、月曜は卒論担当教授の、ゼミ以外の講義があるけれど……何か変だ。感覚がおかしい…。
「ちょっと、寝惚けているの? 大丈夫? アンタ、昨日ずーっと寝ていたのよ。明け方に帰ってきて、そのまま今まで、丸一日ちょっと。わかってる?」
「……え?」
 母の言葉に、驚く。
 オレ、寝てたのか? そうなのか?
 確かに、酒を強か飲んだ覚えはあれど、帰ってきた記憶はないから、母の言う通りなんだろうけど……しっくりこない。
「大学、ここから行くのでもアパートに一度戻るのでも、ちゃんとシャワーを浴びるのよ。まだお酒の匂い残っているんだからね」
「……あの、さ。オレ、なんか凄い…変な夢を見たような気がするんだけど…」
 言った途端、引っかかっていた何かをオレは掴み取り、夢の断片を拾い上げる。
 そう、オレはさっきまで夢を見ていた。
 サツキが居た。そして。
 それより前に。オレは、ここではない世界に居た。
「アラそう、良かったわね」
 足元から緊張が這い上がるような痺れを感じ衝撃に堪えるオレに気付かない母からは、あっさりとした言葉が返ってきた。
 現実では経験できない特異さを、夢とはいえ味わえて良かったじゃないかと言う意味でのそれに、オレは喉元まで上がってきた色々を飲み込む。
「私、八時には出るから」
「……」
「わかったわよね、メイ」
「ああ…、起きるよ」
 シャキッとしなさいよと言い置いて出て行く母の背中を見送り、オレは改めて周囲に眼を向ける。
 何の変哲もない、ありきたりな子供部屋だ。ベッドに机に本棚にチェストにと、どこにでもありそうなものが詰め込まれた、特筆すべきものがないこの部屋は、間違いなくオレの部屋。
 異世界でもないし、サツキが居る世界でもないし。
 よく考えようとすれば、何故か頭に霞が掛かってしまうのだけど。この現実ではないどこかで、オレは現実を生きていた。けれど、どうやらアレは夢だったらしい。
 夢のようには思えないけれど。
 二日前の結婚式が、とても遠くて、そちらの方が上手く思い出せないくらいなのだ。霞んでいても、夢の方がリアルだ。
 妙な感じだ。まだ酒が抜けきれていないのか、寝すぎなのか。
 兎に角、もうデコピンはくらいたくないので、重い身体でノロノロと、着替えを持って風呂場を目指したオレなのだけど。
「……なんで、アンタがここに居るんだ…」
 洗面所へのドアを開ければ、そこに男が立っていて。その忌々しい顔を見た途端、さっと霧が晴れるように、夢ではないと言い切れるほどの異世界記憶がオレの中で溢れ返った。
 目の前に居るのは、クソ王様だ。オレを甚振ってくれた、下衆だ。
 ついでに、変態認定も復活だ。
「しかも、何故全裸だ、オイ!」
「お前は阿呆か。風呂に入るのに、服を着てどうする」
「入るなッ! てか、あの世界は、服着て入っていただろうがッ!」
「郷に入っては郷に従え、だ」
 ボケでも何でもなく、淡々とした調子で言った男が、カチャッと意外に優雅な仕草で仕切りを開けて風呂場へ入る。オレは慌ててそれを追う。
 けれど。
「…………あ、あり得ねぇ」
 浴室のあまりにもな光景に、思わず脱力する。
「何で、お前までいるんだトラ公……」
 我が家の、一般家庭の標準サイズでしかない浴槽に、向かい合って王と聖獣が収まっているのだ。このまま風呂の栓を抜き、お湯共々排水溝に流し込んでしまいたいくらいに、受け付けたくない光景だ。
「お前も入れ、メイ」
「…………物理的に無理だろ」
「ならば、聖獣を退かそう」
 男がそう言った瞬間、魔法のように獣の姿が掻き消えた。圧迫感ありまくりだった浴槽に余裕が出来るが、問題解決には至らない。
「いや…そもそも、精神的に無理だから」
 アンタこそ、ホントにホントでアホだろう。誰が一緒に入るんだよ。気持ち悪い。
 湯気が立つ風呂場で鳥肌をたてるオレには、温かいその湯はとても魅力的だったけれど。これに入るのは、地獄の釜で焚かれるよりも苦行だ。
「ひとりで勝手に入ってろ…!」
 溺れ死んじまえ!と、子供のような台詞を言い捨てて洗面所へ戻ると、そこにリエムが居た。
 思わず、イカレた男のおかしさを訴えてしまう。だが、リエムは聞いているのかいないのかじっとオレを見据え続けてきた。  それでも、怒りが治まらずに暴言を吐き続けたのがいけなかったのか。
「…あッ!?」
 口の中で何かが転がった感触に、言葉を止めて口内を舌でまさぐれば。なんと、それはオレの奥歯で。
 大変だ、抜けちまった!と、オレは指を突っ込み抜けた歯を定位置へ押し込む。だが、指を離せば当然また転がるわけで。意地になってそれを繰り返しているうちに、何故かオレの口の中は抜けた歯でいっぱいになっていた。
 ゴロゴロと、石を口に放り込んだような気持ち悪さに頬を膨らませ。けれども、大事な歯を落とさないように唇は引き結んで。まるで胡桃を詰め込んだリスのようなマヌケなオレの様子に、何かを思う情けはないのか。鼻で粗い息をするオレに対し、「本当の事を話してくれ、メイ」と、リエムが懇願してくる。
 オレは今、言いたくても言えない状況なんだよと。思わず返したオレの口から歯が零れた。足元に落ちたそれを見下ろすと、いつのまにか脱衣所から場所は変わっており、オレの歯は石畳の上で所在無さげに横たわっている。
 急いで拾い上げ、オレは懲りずに満杯の口へと押し込む。
 ふと顔を上げると、リエムではなく知らない男が立っていた。その手には、立派な剣が握られている。
 あ、この男、どこかで見たような…?
 見上げる人物の正体を探ろうとしたオレは、けれども次の瞬間、体を大きく震わせて、自分の身体に突き刺さった刃を眺めていた。鎖骨から生えたようなそれに、オレの顔が映る。
「神子ではないお前に用はない、死ね」
 背後からの声に首を廻らせると、これぞ王様と言ったようなきらびやかな服を身に纏った暴君が居た。
 そこから伸びてきた手を、オレは避ける事は出来なくて。
 肩を掴まれ引き寄せられるままに足を引けば、身体の中で冷たい刃が動くのがよくわかった。
 痛みはない。
 だが、そのおぞましさに、オレは声にならない叫び声をあげて目を見開いた。
「…………」
 開いた目が捉えたのは、シーツを握り締めた自分の手で。
 目玉を動かし確認した周囲は、寝る前と変わらない部屋だった。
 思わず深い息を何度もつき、ベッドに顔を押し付ける。

 ……なんて夢を見るんだか。
 泣きそうだぜ、コンチクショウ…!


2009.08.22
92 君を呼ぶ世界 94