君を呼ぶ世界 107
流血沙汰は嫌だけど。
馬鹿にされるのは、もっと嫌だ。覚えとけ…!
犬に腕を噛まれた時は、引くのではなく押せとよく言うけれど。引けば歯が食い込むだけなので、口をこじ開ける為に押し込むのだと、その理屈も理解しているけれど。
実際にその状況に陥ったら、ンなことを思い出している余裕はない。ただ条件反射で腕を引いてしまうというものだ。
噛まれた!と眼で捕らえた映像の意味を頭が理解した次の瞬間には、オレは勢い良く手を引いていた。
捕らわれたのは、数秒にも満たない、ホンの一瞬だろうけど。猛獣相手のそれに、遅ればせながらドッと冷や汗が吹き出る。
抵抗もなく取り戻せた右手を胸の前で抱え込み、何食わぬ顔でいる聖獣をただ凝視する。
「……あ、あ、」
口の中が酷く乾いていて、上手く声が出ない。早鐘を打つ心臓が痛くて、言葉が出ない。
それでも、左手で握り締めた右手は痛くはなくて。そろりと見やっても、傷はなくて。ただ、甘噛み程度ものであったのを理解するにつけ、安堵による怒りが湧いてくる。
「あ、あ、あ、有り得ねえよッ!」
思い切り声を大にしてそう叫んだオレに反応したのは、目の前の獣ではなく人間だった。
「有り得ねえのはお前だ。ナニ、聖獣サマを怒鳴ってやがるんだ、罰当たりめ」
「ぃ、テッ!」
バシンと音が鳴るくらいの平手打ちを側頭部に喰らったオレはよろめきつつも、新たな暴行者を振り返る。
ラナックさま、参上だ。意外にお早いお迎えだ。
「ちょ、聞いてくれよ! こ、こ、こいつ、噛みつきやがったんだよ!」
険悪ムードならばいざ知らず、結構いい感じであったというのに、どういう了見だ。フザケンナ!甘噛みでも洒落にならないんだぞ。それが通用するかどうか、自分の面を見てみろってもんだ。虎が仔犬みたいな真似をするんじゃねえ!ンなことしたって可愛くねーんだよ!――と。同じ人間である兵士に、この心境を訴えようとしたのだけれど。
オレが、最低だ!と言葉を繋げるよりも前に、「そりゃ、普通噛むだろ。動物が一、二度噛んだくらいで怒るんじゃねえよ、アホが」と、しれっと言われてしまった。
「…………」
……どこから突っ込めばいいのやら。普通ってなんだよ、オイ。何を指してんだよ、何を。これの何処に普通がある…?
無闇に噛むような獣を放し飼いにしているのは問題だ。誰が何と言おうとも。だが、まあ、それは百歩譲って、聖獣さまだからということにしてやろう。しかし、なあ? ラナックさんサァ。傍若無人な虐めっ子が、ナニ、理解を示してそんな寛大な判断をしているんですかね? 聖獣をも利用しようとしている人の発言とは思えませんが。
案外、人間よりも動物の方を大事にするタイプなのか?
……いや、この場合、人間と動物ではなくオレと聖獣だからこその意見なのだ。きっと女将さんが噛まれたら、この男なら相手が聖獣でも一発見舞う事だろう。絶対、同じ発言はしない。
聖獣には噛まれ、男には叩かれ、踏んだり蹴ったりだと。痛む頭を撫でながら胸中で嘆くオレに、ラナックが「戻るぞ、飯だ」と顎で歩けと示してきた。
……ちょっと待て。お前は、昼食を知らせに来ただけかよ? 脱走話はどこへ行ったんだよ!?
どこまでマイペースなんだと疲れを覚えるオレは、もう何がどうでも突っ込みを入れる気にもならなくて、大人しく指示に従う事にする。
足を運び始めると、当然のようにトラ公がついてきたのだが、何故かオレの斜め後ろの位置についた。気になって仕方がないので、ラナックを間に入れようとオレが移動すると、トラ公も金魚の糞の如く追いかけてきた。こっちもこっちで、なんだよコイツは…!だ。
まさか、また噛んでやろうと狙っているんじゃないよな? ビビるオレが楽しく、味を占めたわけじゃないよな?
お前は嗜虐趣味の持ち主か…?と胡乱な眼差しを横目で向けてみるが、トラ公の方は何処吹く風だ。しかし、さっきもそんな雰囲気は見せずにガブリだから、油断できない。そもそも、一番初めの登場からして神出鬼没で、行動はぶっ飛んでいた。
まあ、王様ほどではないけれど。
「……そういや、レミィは?」
「問題ねえよ」
気にしても埒があかないと、意識を変えようとオレはお気に入りの兵士の行方を尋ねたのだが。一歩先を歩く騎士は振り返りもせずに短くそう言った。問題とは、さっきの話で、ハム公が脱走話を告げ口するかどうかの事だろう。だが、オレが聞きたかったのは居場所だ。しかし、そう訂正すれば、教える義理はないだとかなんだとか言うのであろう。ここはあえて指摘はしないでおく。
それよりも。
「前にちょっとリエムに聞いたんだけどさ、人と馴れ合わない聖獣が心を許している人物がいるって。アレはレミィの事だったんだな」
「……なんだって?」
「仲、イイんだろう? 彼とコイツは。オレは見ての通り、なんか良くわかんない関係なんだけど。レミィとだったら頷けるな」
あの性格なら動物受けも良さそうだもの、と言いつつ。彼自身、動物に近いよなと密かに思っているオレを振り返ったラナックの顔は、意外にも真剣なものだった。
「…何?」
その雰囲気に押されるように足を止め、オレは構える。
「あのデブは癇癪持ちだ。お前はもう何日もいないだろうに、これ以上構うな」
「……えっ、…デブって、酷くないか?」
「事実だろう」
「いや、でも、彼の場合は、肥満であるからこその可愛いさが滲み出ているから、そんじょそこらのデブと一緒にするのはどうかと思うけど」
ってか。仮にも同僚か部下かなのだろうに。知らぬ間柄でもないだろうに。なんて言葉を遣うのか。オレに対しての暴言は耳タコくらいに向けられており慣れているけれど、お気に入りなハム公へのそれは少々我慢がならない。
「考えてみてよ。もしレミィが痩せたらさ、性格は全く変わらなくても、彼の魅力は半減すると思わないか? だからさ、アレは必要肥満なんだよ」
故に、あの体型をバカにするのは駄目だと。見過ごせないと。自分もハムスター呼ばわりしているのを棚に上げ、オレは力んでみたのだが。
「…お前、本当に阿呆だな」
気にする部分はそこなのかと、思いっきり顔を顰められた。
反射的に一瞬ムッとするが、言いたい事は良くわかるので、まあねとオレは小さく肩を竦めておくに留める。
そりゃオレだって、癇癪持ちだなんて言うのには驚いた。ほわ〜んなあの性格ではキレた時の予想がつかず、今なお上手く想像できずにいる。虐めっ子であるこの男が忠告をするくらいなのだから相当なものかもしれないとも思うが、それ以上は思い描けない。
だけど。人間誰だって、キレる時の一度や二度はあるものだ。何よりきっと、常日頃とのギャップが激しいからこそ、ハム公は注視されているだけなのだろう。いつでもイカレているのであろう王様や、この虐めっ子殿に接した経験を持つオレとしては、台風のように時たまだけの癇癪など可愛い部類に入れられるというものだ。全く、避ける理由にはならない。
それとも、ラナックはオレに忠告したのではなく。もう何日もいないのだから、無闇にハム公を構ってくれるなと。あの青年の心情を心配しての発言だろうか。
それならそれで、口ほども邪険にはしておらず気遣ってさえいるように感じ取れるので、安心出来る発見である。
だが。
そもそも、ハム公の癇癪は絶対ストレスからくるものだろう。案外、同僚や上司に恵まれていれば、起きない発作かもしれない。
「リエムは、フィナの事をお前に話したのか」
「え…、ゴメン、なに?」
ハム公のことを考えていて疎かになっていた耳に、知らない名前が飛び込んできた。
「リエムが言ったのは、レミィじゃなく別な男だろう。実際には、仲が良いというのとは少し違ったがな。まあ、リエムには喧嘩していようが何していようが、微笑ましい光景だったんだろうよ。目に入れても痛くないくらいに可愛がっている弟みたいな奴だったからな」
「それが、えっと、その、フィナさん…?」
「ああ。…あいつは、何か言っていたか?」
「いや、別に、その彼に付いて話したわけじゃないから。オレが聖獣の事をちょっと聞いたときに、聖獣は友達だって言う奴がいるって聞いただけなんだ。だから、呼び出しなんて事が出来るレミィかなと思ったんだけど…、違うんだな。でもま、レミィもオレから見れば充分、仲がいいよ」
オレの言葉に、「コイツと奴は、頭の中身が同等なんだろう。似たもの同士だ」とからかうような言葉を冷めた声で吐き、ラナックは止めていた足を動かし始める。先の人物が、聖獣と対等ならば。ハム公は聖獣の庇護下にいるようなものかと。素直に表現してくれないそれをオレなりに解釈しながら、やっぱり仲良しなんだと確信する。彼ならば、噛まれたり威嚇されたりする事はないのだろう。
それにしても。その、フィナって人物。
勿論、会ったことなんてないけれど、どこかで聞いた覚えのある名前だ。聖獣の話をした時ではない。そうだったら、王の周辺人物として注意リストに入れていただろうから。一体、何処で聞いたのか。
「その、フィナさんってどんな人か聞いてもいい?」
ラナックの後に続きながら、引っ掛かりを解消するべく問い掛けてみると。
意外にも、あっさりと言葉が返った。
「小心者のくせに負けず嫌いで我が強く、器用に立ち振る舞うのに、肝心なところでは不器用で、真面目に付き合うには呆れ果てる人物なのに、周囲を魅了する」
「……へえ」
確かあの時、リエムは言っていた。その人が、王と聖獣が似ていると言っただの、その孤独が痛いと泣いていただの。あの時オレは、そいつは何を言っているんだと流して終わったけれど、改めて思い出して、あの王様や聖獣をそんな風に思える人物とは、どんなに純粋無垢な人なのだろうかと興味を持ったのだけど。
教えられたそれははっきり言って、リエムから聞き想像したのとは全く違う人物像だった。虐めっ子なこの男に、魅了するなどと言わしめるのは凄いけれど、その他はボロクソに近い発言だ。イメージが浮かばない。
「ま、言葉にすればそんな風に引いちまう奴だったな。実際は、離れて見ている分には面白くて飽きない奴だったが」
「…近くで見るのは?」
「至極、面倒。それに尽きる」
俺は付き合えないと、リエムだからこそ出来たんだと小さく喉を鳴らした男が、ふと雰囲気を変え、それでもはっきりと言葉を繋げた。
「ま、もう死んじまったんだけどな」
「……ぁ、もしかして、」
それを聞いて、閃くように思い出した。王都見学に行った日に聞いた、リエムの亡くなった友人。きっとそれだ。
オレは、体が弱かったというその人じゃないのかと確認しようとしたのだけれど、建物の手前にジフさんが立っているのを見つけ、ラナックが「鬱陶しいオッサンだな」と舌打ちしたので。当人は意識などしていなかったのだろうが、親切に語っていた空気が消えた男に問いを重ねるタイミングを失ってしまい、そのままオレは執事殿に迎えられた。
庭での警護に当たる兵士が心なしか緊張しているのを見て、忘れていたわけではないけれど改めて聖獣を振り返る。
テラスで立ち止まったオレに習うよう、足を止めたトラ公がその場で腰を下ろした。ジフさんは昼食の用意をすると先に部屋に入り、ラナックは同僚の様子を見に行くのだろう姿を消して、ここに居るのはオレと獣。プラス、少し離れて兵士ひとり。
「……」
痛みはないし、赤くもなっていないけれど。無意識に近い動きで右手を庇うようにして握り、ひとつ深く息を吐く。
頭の隅で存在を主張しようとするのは、あの時の、何もわからず圧し掛かれ牙を剥かれた瞬間の恐怖。だけど、アレだけがこの獣の姿ではないと知っているオレは、そこへ引きずり込まれないよう意識して目の前の虎を見る。
真っ直ぐオレを見上げてくるその姿は、気高さが滲み出ていて感嘆ものだ。どんなに恐怖を覚えようとも、嫌いにはなれない魅力が溢れている。光を浴び、白と黒の毛が輝きを放つ。
綺麗だ。
だが、オレには遠い。まだ、何ひとつよくわかっていない。フィナという人が慈しんだ獣が、オレには見えない。
この虎は。人の言葉を理解する聖獣という生き物は。
大切なものを失う痛みを、その心で感じ取れるのだろうか。
2009.10.15