君を呼ぶ世界 109
無理でも無茶でも無謀でも。
挑まねばならない事もある。
ジフさんに教えられていたように、降り続いていた雨は昼を過ぎて暫くするとあがった。
あと幾許かもすれば赤く染まり始めるだろう明けた空を見ながら、オレは感心するやら呆れるやらだ。占術、恐るべし。オレが知るのは今日の予想と結果のみだから、今のところ百発百中であるし。確率が低ければ、直ぐに結果が出る天候なんかに利用されていないのだろうし、で。気象庁よりもその予測は正確なのかもしれない。
凄いなぁ、さすが異世界だ、と。水滴に陽射しが当たり白く輝く庭をガラス越しに眺めながら、ボンヤリとそんな事を思っていると。
いつの間に来たのやら。背後に気配を感じて振り返れば虐めっ子騎士が立っていて、心底嫌なものを見るような顔をこちらに向けていた。
またかよと思いつつ挨拶代わりに小さく笑うと、男の眉間の皺が増えて。
「腑抜け顔を見せンじゃねーよ、やる気をなくすぜ」
チッと舌打ちとともに落とされたそれに、オレは口角を下ろす。
あのな、オレは礼儀として愛想を向けたのだ。それを察しもしないヤツに、ンな事は言われたくはない。オレの方こそ、やる気を無くす。だから、その曲がり腐った根性に対抗する気力を失い、暴挙を許してしまうのだけど。
その内、痛い目を見るぞ。っつーか、見ろ。誰かこの男にそれを味わわせてくれないだろうか。
オレにそんな事を願われているとも知らない男が、不遜な態度を崩さずに、指一本で後ろの寝室を示した。左手の親指が指すのは、寝室の扉だ。
唐突に何だよ?
「…え、なに?」
「行け」
まるで飼い犬に、ハウスへ「GO!」と言うようなそれを残し、踵を返したラナックが奥へと進んでいく。キッチンかその向こうに居るジフさんに用なのだろう。
何なんだと、呆然となったのは一瞬で。相変わらずなその態度に怒りも湧かない。また、寝室へ押し込むという事は、オレには聞かせたくはない話をしたいのだろうと察し、大人しく指示に従う事にする。
扉を閉め、そのまま背中を預ける。まだ夕方前なので、寝るにしても昼寝ということにだ。しかし、寝るつもりは無いのでベッドには近付かず、ただただボケッとしていると、幾分もしないうちにドアがノックされた。もう秘密話は終わったのかと慌てて扉を開けると、顔に小さな衝撃がきて、視界を白一色に覆われた。
驚くオレに、グッと圧力が掛かる。そのまま顔を押されて、思わず仰け反ると、「邪魔だ、退け」と肩を小突かれた。
「ちょ、ちょっと…!?」
顔の前のものを払いながら足を引くと力が離れた。
開けた視界では、ラナックがワゴンを押して部屋に入ってきたところで。
手元を見れば、押し付けられたのは真っ白なシーツだった。
「お前なら余裕で入るだろう。乗れ」
あ、入って来た。何だよ、ちゃんと自分の用があれば入るんだ。別に、他人の寝室に入るのは礼儀に反するだとかなんだとかではなかったんだな、と。虐めっ子が気を遣っていたわけではなさそうな事実に、若干拍子抜けしたところに予想もしていなかった言葉。
当たり前だろう、誰がこんな言葉を予期できる…!
「はァ?」
何言っちゃってんの?と、ラナックとワゴンを見比べ、オレは首を傾けた。意味がわからない、と。
そのワゴンは何度も見たことがあるものだ。オレが知る、ホテルで使われているのと同じタイプの同じ用途のもので、ジフさんが毎日のように必要なものをそれで運んでいる。今も、ワゴンに乗る入れ物には手渡されたものと同じシーツが底に何枚か入っている。
だけど。
確かに、いつも寝具等を入れているのだろうそれは大きくて、身長はそれなりにあるとは言え細身のオレなら問題ないだろうけど。根本的な話として、入らなければならない理由が全くない。
「なんで?」
だから当然、オレはそう聞いたのだけど。
目の前の男は顔を歪めると同時に手を伸ばしてきて、答えるよりはやくオレの腕を引いた。
「いいから、つべこべ言わず入れ」
「ちょ、ま、待ってくれよ…!」
「静かにしろ、逃げ出す前に見付かりたいのか!」
「うわッ!」
オレをそこへ押し込もうというのか、バランスを崩したところで更に肩を押され、慌てて木の縁に手を掛け抵抗するけれど。苛立たしげに言ったラナックがオレの両足を掬い上げてきて、それ以上はどうする事も出来ずに転がり落とすようにして入れられる。
「だ、だから、待てって…オイ!」
厚いとはいえ、張られているのは布だ。体積的には問題はなくても、重量的にはどうなのか。妙な体勢から脱却すべくもがけばキシキシと骨組みの木が音を立てる。大丈夫かと少し怯んだところに、先程のシーツを被せられた。
いや、正確には押し込まれた、だ。グイッと圧力を掛けられ、起き上がろうと縁を掴んでいた手を強引に外される。
戻ってきた手で顔のシーツを払うと、ラナックが斜めにオレを見下ろしていた。
「今から、ここを出してやる」
「…………はい?」
は? 今? 今すぐか? それって、脱走するって事か?
しかも、これで? こんなので?
イキナリだし、テキトーだし、何より虐めっ子ラナックだし…!!
マジなのか、からかっているのかと、頭の中で高速で色んな事が回り、胸中では不安と期待が混ざり合う。早く連れ出してくれと切実に願ったのは、今朝の事なのに。
「ほ、本気?」
「……お前、オレの親切を嘘だと思っていたのか」
「あ…、いや、そうじゃなくって……」
口先だけだと思っていたわけではない。だが、危険を侵してまでオレを助けるような事をするとは思えなかったし、あれから殆ど具体的な話はしなかったし、期待してはいけないとどこかでオレは自分を戒めていたのかもしれない。突っ込まれ、ラナックの強い視線に堪えられず眼を泳がせてしまってから、オレはそれを自覚する。
だが、今ここで話半分にしか聞いていませんでしたなんてバレたら、折角のチャンスがなくなってしまうだろう。
「…こ、こんなので大丈夫なのかなと思って――あ、」
驚いたのはこの手段だと、身体を起こしながらオレは誤魔化しに掛かろうとして、ふと思い出す。
ゴメンサツキ、忘れていた。ぶっ飛んでいたよ、悪い!
「あの、ペンダントは?」
「ああ、まだだ」
「……アレを置いては行けない、大事なものなんだ」
「ペンダントひとつで大袈裟な、お前は女か。諦めろよ女々しい」
「…話が違う」
「予定は変わるものだ」
「…………」
「文句があるのか、ああ?」
…文句、って言うか。
オレだって、簡単にこの手に戻るとは思っていない。ただ、あの時は取ってきてやると即答したこの男の心意気に納得したのだ。だから、確かにオレが賭けたのは、脱走の成功であって、サツキの石ではなかったし。ラナックが先にペンダントを奪ってくれば、王の警戒を強めるだろうから逆に危ないのだとわかっている。
そう、わかっているのだけれど。
「ここに来て駄々を捏ねるんじゃねえ。ンなものは後でもいいだろう。ペンダントひとつと、人間ひとり、どっちが難しいか考えてみろ。今を逃せば、お前が出られる機会なんてないんだぞ」
「でも、あれがなければここを出る意味が、」
「逆の発想をしろよボケ。どうせここにこのまま居ても、お前の欲しいものは手に入らないんだ。ここから出て、自由を手に入れて、機を見て奪いに来ればいいだろう。出ればそういうことも可能だ。わかったか」
いや、だけど。そんな事、簡単にはいかないだろうと反論しかけたが、またもや押さえつけられシーツを掛けられる。
そして。
「…捨てられたら、どうしよう」
「その時は拾っておいてやるよ」
塞がれた視界に、不安が募り。思わず弱音を吐いたところでポンポンと子供を宥めるように、一度離れた手が布越しにオレを柔らかく叩いて、ぶっきらぼうだけど優しくも聞こえる声が落ちてきた。シーツによってくぐもっているからだろうけど、懐柔する為のこの場限りの嘘ではないように思えるそれに、オレは他人が見れば我儘なのだろうそれを飲み込む。
確かに、ラナックの言う通りだ。一番正しい。必ず取り戻すと決め、一先ず脱出しようとして、結局諦められずに戻って捕まった。遠い過去ではないそれをもう一度繰り返すのは、ただの愚かでしかない。
オレは、なくせられないし、離れていたくはないけれど。サツキはきっと、危険を侵してまで守らなくていいと思うだろう。少なくとも両親は、無理をするなというはずだ。
彼女の石を大事にする側が無事でいなくてどうするというもの。そうだろう…? そうだよな?
だから。
サツキ再びゴメン!不甲斐無いオレを許してくれ!絶対取り返すから!!
クソ王!逃げた腹いせに捨てやがったら末代まで呪い祟ってやるからな!!
主人が暴挙に走らないよう確り見張っていろよ聖獣!と、拳を握り締めそれぞれに意志を送ったところで、身体に掛かる圧力が少し増した。どうやらシーツか何かを追加されたようだ。
「もっと身体丸めて、じっとしておけ。今から一切、動くな、喋るな、わかったな?」
「わ、わかったけ――ィッ!」
ホントにホンキでこれで行くのかと、こんなので脱出できる程ここの警備は緩かったのかと、聞こうとしたのだが即座に衝撃が来た。布越しであったし、相手も本気ではなかったようで痛くはなかったが、見えない恐怖の存在が身近にある事を思い知らされ息を飲む。
「次、喋ったら殺す」
「……」
返事くらいいいじゃないかと、きっと蹴ったのだろう相手に心の中だけで反論しながら。オレは言われたように無言で応え、膝を抱える。
こんなところでこの男に殺されては、死んでも死にきれない。
行くぞとの声が掛かると同時に身体が揺れた。
「流石に人間が入ると重いな」
ジジイには無理だな、仕方がないオレが押すか、と。何の事だろうブツブツ言うラナックの声が遠ざかる。揺れたのは一瞬だ、寝室を出ただけなのだろう。
早くも放置だ。
ホント、大丈夫なのか…?
2009.10.22