君を呼ぶ世界 110
何て事だろう。
オレが隠れるワゴンを次に押したのはジフさんだった。
初めは、見えないので当然気付かなかったのだけど。動き出した感覚に、見えないぶん耳を済ませていたオレのそれに入ってきたのは、ラナックと兵士の遣り取りで。その声がどんどん鮮明になっていくのに気付き、ワゴンを押すのは思い描いた人物ではないと悟る。当然だろう、ラナックに近寄っていく状況で、その彼がオレを動かしているわけがない。
でも、だったらコレは誰なんだ?と驚いた瞬間、二人の側まで歩み寄ったのだろう動きが止まり、そこでジフさんの声が響いた。
「宜しいでしょうか、トーリ殿」
ラナックの相手は声から察するに、何度か見た事のあるオジサン兵士だろう。ジフさんが呼びかけた事で初めて名前を知ることが出来たが、今のオレにはどうでもいい情報だ。部屋の主であるオレが休んでいる間に用を済ませてくると、外出を申し出るジフさんの淡々とした声さえも、驚愕の前では流れていく。
ちょっとちょっと、ラナックさん。コレは一体どういうことです?
何故、どうして、ジフさんがオレの脱出を手伝っているのやら。全くもって、話が見えない。人ひとり入っているのだから、オレがここに隠れていることに気付いていないわけでもなく、間違いなく協力者なのだろうけど。どれだけ丁寧でも、自分の主は王様ただ一人でございますよな態度を隠すことはなかった忠犬執事が、一体どうしたというのか。
まさか、ラナック。何か弱みにつけこみ、脅しつけているわけじゃ…?
予想外の展開と、勝手なその妄想に、シーツ以外は何も映さないのにオレは目を見開き、ただただ緊張を覚える。
側でやり取りを交わす三人の声には緊張感など全くないのだが、オレの方は周りのシーツをじっとりと濡らす勢いだ。冷や汗ダダ流しだ。漸く、脱走なんて大事をはじめたのだと自覚し、他人を巻き込んでのそれに若干怖気づいたようで。情けなくも、息が上手く吸えない。
だけど、ここで下手を打てば脱走も何もないと。オレは緊張で震えそうになる身体に力をいれ、間違っても声など漏らさないように唇を噛み締める。大丈夫だと、ラナックだけではなくジフさんも居るのだからと、落ち着くよう自分に言い聞かせる。
ワゴンに潜むオレの気配を感じ取られたら、そこで終わりなのだ。
だから、頼むからさ。喋っていずにさっさと行こうぜ、ジフさん!と。オレはそう必死に祈るのだけど。
危惧など微塵も感じていないのか、ラナックは会話を止めず、護衛係に後を頼んだジフさんも足止め状態だ。
「ラナック、お前も出るのか? 今来たばかりだろうに、居なくていいのか?」
「堅いことは言ってくれるなよ。寝ている奴相手にどうしろというんだ」
「起きていても、別に気を使ってはいないだろう。この前見たが、アレはお前、少し問題だぞ」
「問題ねえよ。アレで案外、蝶の君は俺に相手をして貰って喜んでいるんだぜ。ここは退屈で死にそうだと言っていたからな。なあジフ?」
「その発言を私は耳にはしていませんが、時間を持て余し気味であるのは確かですね」
「蝶の間に居る方が、退屈だって? それは何とも、変わったお方だな。何でもご自由に出来るだろうに」
「変わってなきゃここには居ないだろうよ」
ラナックの言葉に、呆れるような声音ながらも「そうかもしれんが…」と答える男が何を思っているのか、全くオレにはわからない。何を納得してやがるんだか、だ。物欲がない方ですのでと、ジフさんが控えめながらにも主張してくれるが、フォローになっているのかは怪しい。
そもそも、ここには自由がない。確かにここは、それなりにステータスのある部屋となっているのだろう。本来の意味での使われ方をしているのならば、兵士の言葉も頷ける。王の寵愛を受けるのならば、多少の我が侭も許されるだろうし、居心地の良い場所なはずだ。だが、オレの場合は違う。根本から間違っている。
当たり前だが、オレは王のそんな相手ではない。それは、逃がすなと厳命されているのだろう兵士もわかっているはずだ。オレが軟禁状態でしかないのを、よく知っているはずだ。それこそ、何も知らされないオレなんかよりも、王の扱いがいかようなものであるか把握しているだろう。
それなのに、「何でも自由に」とは、聞き捨てならない。何が、「そうかも」だ。ラナックやジフさんはともかく、普段は愛想のひとつも向けずに仕事に徹しておいて、影ではこんなにも簡単に言ってくれているとは腹立たしい。
実際には、兵士も命令どおり忠実に仕事をしているだけだろうし、きっとオレが何者なのかなんて知ってはいないのだろうしで。オレをこんな立場に追いやったのは、この部屋と王様の態度が原因で、兵士に非はないとわかっているのだけれど。
納得いかない気持ちに、何だって自分がこんな風に思われねばならないのかと、情けないやらなんやらで。
気付けば、緊張が解れていたりするのだから。これはこれで、ムカツク。
「たまには老体を労わってやる、任せろ」
ラナックの声が飛び込んできたと思ったら、ワゴンが動き始めた。続けて、場違いな掛け合いが始まる。
「ありがとうございます。ですが、これで貴方が職務を全うしていないことを見逃すほど、私は寛大ではありませんよ」
「年寄りは物を忘れるのが得意だろう」
「ご期待に添えず申し訳ありませんが、残念ながらそこまで私は歳をとっていません」
「本当に残念な奴だな」
苛めっ子のその失礼極まりない言葉を、オレはひそかに胸中で繰り返す。それこそ、オレの方が残念だ。拍子抜けだ。
何なんだ、この、緊張感のなさは。
本当にここは王の私室かと疑うほどに、何のチェックもなく二人は進んでいく。見張りの兵士の前を通過する時は言葉を交わすので、その数は適度にあるようなのはわかるが。一度として、ワゴンの中身の確認を申し出る者はいない。
堂々としているような二人に、大したものだと感心したのはしばらくの間だけだ。本当に何も起こらない状況に、ラナックもジフさんも承知してのことだと察すると、有り難味が半減する。
これはこの国の体制的なものなのか。危機管理がやはり低すぎるのか。だが、アレだけ兵を置いて見張らせているんだぞ。オレがまた逃げ出すかもしれないと警戒してのものだろう。それなのに、そこまで危惧出来るのに、対処はこれなのか。一切のチェックがないなんてあり得ないだろう。
けれど、あり得るからこそ、ラナックはこの方法で実行しているのだと。そう確信すればするだけ、思う以上に簡単であるらしい脱出に、少し後悔を覚える。もっと早くしにでも実行できたんじゃないのかと。早く決断しておけば良かったと。
尤もこれは、この半月ほどオレが大人しくしていたからこその緩みなのかもしれないけれど。
「ここで結構です」
「そうか。じゃあな」
ありがとうございましたと、ジフさんがラナックからワゴンを取り返したのは、軟禁部屋を出て結構経ってからだった。もうここは王の部屋ではないのだろうが、見えないオレには一切わからない。見えたとしても、どうせ知らない場所なんだけど。
あっさりとした言葉で、靴音がひとつ遠ざかる。ワゴンが再び動き出す。
どうやら、ラナックがどこかへ行ったようだ。
お前が行くのかよ!?と、それに気付き反射的に突っ込みはしたけれど。危険はないような様子に不安も浮かばず、オレはそのまま大人しくしておく。ここでジフさんが、やっぱり逃がすことは出来ないとUターンしたら大変だけれど、その時はその時だ。この瞬間に飛びだしてもオレは右も左もわからないのだから。
それよりも、ラナック。あの男、本当にいい加減だ。手抜きもいいところだ。協力者が出来たら早々に、オレの相手はしないというわけか。わかりやすすぎて、いっそ気持ちがいいけれど。ひと言くらい、声をかけてくれても良かったんじゃないかとも思う。そうしたら、礼のひとつでも言ったのに。
それとも、王宮を無事に出た後でも、奴はオレの面倒を見るのだろか?
……いや、見ないだろう。出してやると言ったが、あの男の本当の目的は追い出すことなのだから、わざわざ脱出後に関わらないだろう。きっと約束したペンダントだって、アレで終わりだ。必要なら自分で取り戻せと思っているクチだ。そういう奴だ。
だけど、そういう奴でも、世話になった事実は変わりないので。
動きが止まり、少しバタバタと音がした後で、もういいですよと声をかけられて。
オレはシーツを除け身体を起こすと同時に、「ラナックは?」と聞いてしまった。それは勿論、色々考えていたので、つい、思わず、と言ったところなのだけど。勢いが良すぎて、ジフさんには全然軽く聞こえなかったらしい。少し目を開き驚かれる。
だが、それは一瞬で消えて。淡々とした声で紡がれた言葉は、短いひと言。
「彼は、大丈夫です」
「いや、大丈夫というか…ドコに?」
「問題はないですから。それよりも、早速ですが参りましょう」
やんわりとオレの問いを交わした執事殿が、すっと女性に対するように片手を差し出してきた。掌が上を向いたそれを見下ろす間もなく、どうぞと手を掬われ取られる。
「足元にお気をつけ下さい」
「あ、どうも」
入った時の扱いとは真逆で、丁寧に促されて手を借りたまま、オレは漸くワゴンのリネンボックスから出る。一見しただけで荷物置き場のような部屋は、オレが乗ってきたワゴン以外にも同じようなものがあり、案外狭い。
曲げていた身体を少し捻って伸ばしながら見回すオレを、ジムさんは扉に手をかけ促した。
「街まで荷馬車に乗せて貰えるよう頼んでいます。さあ、行きましょう」
「はい、お願いします」
でも、本当にいいんですか? 貴方がこんな事をして。
そう喉まで上がってきた言葉をオレは飲み込み、まっすぐジフさんを見て頷く。今更なその言葉は、何の意味もない。この人が、ラナックの脅しに屈するはずもないのだ。この人は自分で決めてオレに手を貸してくれているのだろう。そうに違いない。この執事は、そんなに安くはないのだから。
まるで、そのオレの考えが間違っていないのを示すように、そこからもジフさんは堂々としたものだった。先程までは隠れねばならない身であったオレを横に、躊躇いなく道を進んでいく。途中、顔見知りとあっても、疚しさひとつ感じさせない態度で全てを上手くかわす。
そうして、ジフさんはオレを無事に、これから街へと戻る初老の夫婦へと預けた。自分がお供できるのはここまでですと、荷馬車へとオレを押しやり、静かに頭を下げる。
だから、オレは慌てて、ラナックには言えなかった礼を口にしようとしたのだけれど。
「どうぞ、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「……はい、行ってきます」
まっすぐと伸ばした背中を見下ろしながら、オレは何度か口を開閉させ、結局その言葉を出した。
あくまでも変わらない執事な男に、オレもまるで主人のように応える。その態度に乗り、感謝を示し損ねる。
動き出した荷台から、漸く顔をあげたジフさんを見たけれど。
ちょうど西日がきつくて、その表情がどうであるのかまでは見えなかった。
けれど、きっと。いつも通りの、ポーカーフェイスなのだろう。
オレの方には、正直に言って、色々含むところはあったけれど。
どうかあの人に、咎がいきませんように。
2009.10.26