君を呼ぶ世界 111


 嵐が去ったあの日、この道をオレは自力で進んだ。リエムの案内で。
 今は、荷馬車で揺られながら下っている。
 逃げるために。

 前回この道を通った時も雨上がりだったなと、ぼんやりと思うオレの前には、ニコニコ顔のオバサンがひとり。
 オレを街まで送ってくれるという小さな孫がいそうな年代の夫婦は、王宮で毎日店を開いているらしい。よく見れば荷馬車はしっかりとした立派なもので、何より荷台は商品である荷物で溢れかえっている。愛想の良いオバサンの「何でも屋」との説明に、不躾にならない程度に眺め、雑貨屋みたいなものかと納得する。
 納得したところで、「今日は思ったよりも雨が長引いたからね、余ったんだよ」と、商品であったらしい菓子をくれた。食べ物も売っているらしい。きっと、客に注文されれば何でも仕入れてくる、そんな商売なのだろう。
 スコーンのようなそれを有難く頂きながら、他愛ない会話をポツポツ交わす。オレと同じく荷台に座ったオバサンは、流石客商売といったところか、愛想がよくて言葉は途切れない。だが、やっぱり気を使ってくれているのだろう、オレの方には一切踏み込んではこない会話だ。
 一体ジフさんにどう説明され、オレなんかを預かったのか。王宮には何を?とさえ聞かないところをみると、訳ありだということはわかっているのだろうに、そんなことは一切知りませんよな気さくさにオレの方が戸惑いを覚える。
 荷台は周囲が幕で囲まれているけれど、前後はカーテンのようになっていて簡単に開けられるものだ。ちょっと中を見せろと兵士に覗かれたら、王宮に入った時と出る時の人数が違うのが簡単にバレルだろうに、大丈夫なのだろうか。信用第一の商売で、門番の兵に不信を抱かれたら困るだろうに。
 しかし、この荷台に乗るまで王宮内を歩いたけれど、その時もジフさんは堂々としたものだったし。見知らぬオレを気にした風な人物は居なかったし。やっぱり、その程度の警備なのだろうか。
 だったら、案外何事もなく、このまま無事に逃げ切れたりして――なんて。
「今年は、いつもの嵐は来ないのかねェ。今日も、降り続いたけど静かなものだったしねェ」
「そうですね」
「来たら色々大変だけど、雨が少ないと水が心配だよ」
「本当に」
 仰るとおりですよと頷く以外に出来ないオレの短い返答を気にもせずに話していたオバサンを、馬の手綱を握るオジサンが呼んだ。オバサンが「ちょっとゴメンよ」と断り、幕の向こうへ顔を出す。
「なんだい、お前さん?」
「ラティだ。乗せてやろうじゃないか」
「アラアラまあまあ、今日は来ていたんだね」
 少し驚いたような声を出したオバサンが、次には大きな声で誰かを呼びとめ、「乗っておゆきなよ」と誘っていた。そうして、直ぐに顔を戻し、オレに説明をする。
「悪いけど、一人増えるよ。知り合いの子が居たものでね」
「別に、オレは全然構いませんよ」
 そう答えているうちに、荷馬車が止った。オバサンがオレの前を横切りながら、「神殿で手伝いをしているヴァン家のお嬢さんでね、愛想の良い優しい子だよ。済まないが、頼むね」と言い、後ろの幕を半分ほど空ける。
 ……って? え? え?
 ヴァン家? ヴァン家のお嬢さんって――!?
「ラティーヌ、先客が一人居るんだが、構わないだろう?」
「お邪魔しても良いのなら、私の方に問題はないわ。けれど、無理にとはお願いしないわよ、まだ明るいから歩いてでも帰れるもの」
「無理なら声をかけないわよ。さあ、お乗り」
 幕の向こうに居るのだろう女性にオバサンが片手を伸ばしているのだろう様子を、オレは手伝いもせずに後ろから唖然と見つめる。
 だって、だな。今、さり気なくだけど、とんでもない言葉を聞いた気がするんだよ、オレは。
 もしかしてとの疑問が、何故か焦りのように体中を駆け巡る。
 ……オレ、このままここに居てもいいのか?
「どうも、お邪魔しまーす」
 アリガトと、オバサンに礼を言って荷台に乗り込んできた少女が、オレに気付き軽く会釈をしてそう言った。そして、オバサンに促されて空いているスペースに腰を下ろす。
 オレはその様子を呆然と眺め、手を伸ばせば届きそうな距離に落ち着いた相手をマジマジと見つめてしまう。
 …予感、的中だ。
「あの、どうかしまして?」
「……あ、いや、いえ、その……なんでも、ないです」
 オバサンがオジサンに声を掛けると、すぐに荷馬車が動き出した。同時に、今まで驚きに止っていたのかもしれない心臓が、思い出したように激しく動き始める。
「どうかしたのかい?」
 あまりの事で、どうしようと焦りばかりが生まれるオレは、けれどもどうにも出来なくて。ただ、少女から顔をそむけて俯くオレを、オバサンも不審に思ったらしく伺ってきた。
 何でもありません、と応える声は、情けなくも弱弱しい。
 当然だろう、何でもないわけではないのだから。
 乗り込んできた少女は、間違いないだろう。リエムの妹だ。その名前もそうだけど。改めて言葉で確かめなくてもいいくらいに、顔立ちも、雰囲気もそっくりだ。兄妹でなかったら何だというくらいに似ている。聞いていた年頃と一緒だし、これはもうリエムの妹決定だ。
「そう言えば、ラティ。この前言っていた物だけどね」
「あ、うん。どうだった?」
「それがねェ、」
 訳ありだと知るオバサンはオレの事を構うのは得策ではないと思ったのか、不審だろうがそれ以上は突っ込まず、逆に少女の気を逸らすように話を変えてくれる。有難い。
 だけど、それでは全然、問題の解決にはならない。
 リエムの妹にこんなところで会って、本当に大丈夫なのだろうか? 逃走中で、これはかなりまずくはないか?
 少なくとも、絶対良くはないだろう。
 オバサンが「ヴァン家」と言った瞬間、オレはリエムの事を思い出した。あの時、オレを牢屋から逃がしてくれたあのオジサンがリエムの事をそう呼んでいたのを、オレははっきりと覚えている。正直、色んな事があったので、全てを記憶しているわけではない。実際、あのオジサンの名も、あの手助けしてくれた青年の名も忘れている。けれど、日本人には多少馴染みのある発音の名前だったからか、リエムの本名だと疑ったからか、オレの脳味噌には深く刻まれていたようだ。
 しかし、あの時以外、あのオジサン以外、リエムの事をその名で呼んだ者はいない。親しい王様やラナックも、「リエム」と呼んでいるし。オレが話の中でそう呼ぶのに対し、ジフさんやハム公からも突っ込みは入らなかったし。だから、リエムはリエムだと。偽名なんかではないのだなと、オレは確信して安心もして、気に掛ける事をしていなかったのだけど。勝手に、渾名だとか、役職名だとか、適当に思っていたのだけど。
 こんなところで、判明だ。リエムは平民が持たない苗字を持っていて、それが「ヴァン」であるのだと。謎だとはいえ重要視していなかったことが、少女の登場でいきなり解決だ。
 もしかしなくとも、ヴァン家というのは貴族か何らかの偉い家柄なんだろう。リエムはいいところの坊ちゃんだったのだ。確かに、そんな雰囲気であるので納得は出来るけれど、それでもやっぱり驚きの方が大きい。ボンボンなのに、何て気さくで面倒見のいい奴なのだろう。天然記念物に指定したいくらいだ。
 けれど、その驚き以上に、オレを取り巻くのは焦りであって、彼の血筋に感動している余裕はない。
 リエムがどこまで妹にオレの事を話しているのか、それを考えると怖くて動けない。お兄さんと知り合いの田舎者ですと、バレるのは非常にまずい気がする。何せ、王宮によく出入りしているらしい妹さんが、王様の客間の噂を耳にしていないとは思えない。噂話だけで、オレと客人をイコールには出来ないだろうけど。そこにリエムが加わる事で容易に繋がるのだ。オレがそれと知られれば、脱走にも勘付かれてしまうかもしれないのだ。
 万事休すだ。思わぬ、トラップ。
 一体、どうすればいいんだか…。
 リエムが何も言っていない事を願いたいのだけれど。兄妹仲が良さそうだった彼のこと。旅の途中一緒になった相手の話くらいしているかもしれない。王都でも面倒を見てくれた事を考えれば、オレはそれなりに気に入られていたのだろうから、話題のひとつにあげた可能性は大だ。ヒョロっとした黒目黒髪の、外見十代後半、中身二十三歳の男。そんな男はゴロゴロいるかもしれないけれど、名前まで伝えられていたのならば白を切る事は難しい。
 だから、絶対、何も口には出来ないと。このままオレ無視でお願いしますと。顔を俯けたままぎゅっと目をつぶり、必死で祈っていたのだけれど。
「貴方はどちらまで乗られるのです?」
「……え、あ、……さあ?」
「さあ…?」
 突然話し掛けられ、言葉に詰まって思わず妙な返答をしてしまったオレを、リエムの妹はコテッと音がしそうな仕草で首を傾けた。まるで人形だ。赤みがかった金髪に、金色に近い茶色の眼。これでフリルのついた服を着たら、セルロイドの人形そのものだ。
 兄妹揃って、顔がイイ。てか、良すぎる。神様は不公平だと、きっと幾人もの凡人に思わせてきたことだろう。
 そんな美少女が、ちょっと考えるように眉を寄せ。そうして、まるで理解力の乏しい子供に言葉を噛み砕いて説明するように、オレをまっすぐと見て言う。
「私はいつも、お二人に少し遠回りをして頂いて、屋敷の近くで降ろしてもらうの。今日もそれで構わないとの事なんだけど、本当にいいのかしらと思ってお尋ねしているのよ? だって、貴方の方が先にお約束していたんですもの。貴方の行き先がわかれば、私は一番近いところで降りようと思うのよ。いかがかしら?」
「……いや、いかがと言われても……」
 街まで送ってくれると聞いてはいるが、オレはそのあとの事をジフさんからもラナックからも教えられていない。このまま街でポイッならば、オレは早々に立ち去りたいのだけど。無事に出たところでサヨウナラでも全然構わないのだけど。
 そこのところ、どうなっているんだろうかと。話を聞いているかとオバサンに聞こうにも、リエムの妹はオレの言葉を待っているようで、この注目の中でそんなことを聞くのは難しすぎるというものだ。
 答えられるものがなく、ええっと…と口ごもりながら、強すぎる視線に気圧され眼を泳がせる。
 この状況は、ホントよろしくない。落ち着かなさから喋ろうものなら、墓穴を掘るだろう状態だ。ひとつ滑らせれば、ポロポロ言ってしまいそうな事態だ。兎に角、落ち着け落ち着けと言い聞かせながら、何とかオレは「オレの方が突発的に無理を言って乗せてもらっているのだし…いつものようにして貰って構わないよ。全然、問題ないから…」と口にする。たったこれだけで、一仕事終えた気分だ。
「本当に?」
「うん、ホント……ねえ、オバサン?」
「ああ、そうだよ。だから言っただろうラティ」
 オバサンの言葉に、少し納得しかねるような表情を見せたけれど。リエムの妹は、「それじゃあ、お願いします」とオバサンに言って。
「後から乗ったのに、ホント済みません。ありがとうございます」
 と、丁寧にオレに頭を下げた。思わずオレも、とんでもないですと頭を下げ返す。
 本当は、オレの方がいっぱい頭を下げて感謝しなきゃならないくらいなのだ。貴女のお兄さんにはとても世話になったのだと。
 だけど、それは出来ないと。自分の状況から言ってしてはならないと、騙すようで気分が悪いが素知らぬふりをオレは決め込む。
 けれど。
「あ、あの…お兄さんは、元気ですか…?」
 緊張して周囲を気にしていなかった間に、あっさりと王宮から出たようで。既にずいぶん街中を走っていたのだと気付いたのは、リエムの実家に着いてからだ。
 オレの手をとって荷台から降りた妹さんが、挨拶を残して立ち去りかけたというのに、オレは間抜けにもそんな言葉で引き止めてしまう。ここまで我慢しておいて、本当にアホだ。
「兄を知っているんですか? どちらの?」
「ああ……、その、リエムを」
「そうでしたか。兄がいつもお世話になっております」
 ペコリと頭を下げる少女に、慌ててオレも「こちらこそ…!」と腰を曲げるけれど。
「でも、リエム兄様は王宮で暮らしていますので、ここには余り帰ってきませんのよ。ですので、生憎暫く会っていないので、私にも分かりかねますわ。ただ、何の知らせもないのは元気な証拠だと思っております。ね?」
 飄々とした少女の言葉と笑顔に緊張を抜かれ、「はあ…、そうですね」と気の抜けた返事をしてしまったオレを、リエムの妹はクスクスと笑った。長居は禁物だというのか何なのか、会話の途切れを見計らってオバサンがオレを促してくる。
 荷台に乗ったところで、「お名前を伺っても宜しいですか?」と言われ、オレは「お兄さんの反感を買うのは困るので、次に会うことがあったらにしましょう」と、どこのキザ男だと言うような言葉で濁しておいた。

 会うことはないだろう。
 オレの口から名前を告げる機会は、きっとない。


2009.10.29
110 君を呼ぶ世界 112