ここもまた、帰る場所だから。

　リエムの妹と別れ、再び荷馬車で揺られながら、オレは歓喜よりも不安に近い落ち着かなさを覚える。
　可愛い少女にビビっている間に、王宮脱出を成功させてしまったのだけれど。
　ホントに、これでいいのか？　こんなので良かったのか？
　あまりにもあっさりし過ぎていて、達成感も実感も何もない。左程の苦労も覚えないほどに簡単であった分、大丈夫なのかと不安が溢れ出す。
　あの子はいい子だろうと、オバサンがまるで実の娘を愛でているような表情でリエムの妹の話を振ってくるけれど。オレの意識はそこへは行かない。悪いが、彼女のことよりも、自分自身のことの方が大事だ。
　こんなにも簡単に脱出出来るとは。一体、オレは何なのか。どんな扱いであったのか。思うほども重要視されていなかったのかもしれない事実に、複雑な気分になる。あっさりと逃げ出せるのならば、あんなにも長く留まる必要はなかったし。向こうにだって、留めておく意味などなかったのではないだろうか。
　この半月、無為に日々を過している事を実感していたけれど。オレだけの気持ちではなく、実際としても、消化する意味もない暮らしであったのかもしれない。その中で、苦々しさを噛み締め耐えていた自分は何て間抜けなのだろうか。しないでもいい苦労だったとしか思えない。
　決して、追っ手が欲しいわけではない。間違っても、そんなものは要らない。だけど、全く何もないのも、拍子抜けをするどころか、腹立たしさまで呼び寄せるというもので。悩んでいたオレを笑うかのようなこの状況は、面白くなさ全快だ。
　本当に、あの日から今日までの日々は何だったのだろう。
　あの王様、手抜きもいいところじゃないか？　なあ？
　だけどまあ、オレ自身が無事逃げおおせるのが一番だから、戻って文句を言う気はさらさらないし。街の兵士に、王宮の警備の問題を指摘する気もないし。くだらない事に巻き込みやがって！と、頭の中で憎たらしい男を殴りつけるイメージをしておくだけに留めておく。
　しかし。この数日間の憤りはそれで済んでも。勝手に異世界に引き摺り込まれた事に関しては、サツキの石を奪われていることに関しては、胸中での処理では終われない。
　こうして王宮から出られたのだから、次はその対処をしなければならない。
　さてどうしたものだろうか。このまま街で潜伏するか、一度爺さんのところへ戻るか、他で情報収集に努めるか。直ぐにリベンジを試みても、流石に無理だろうし……。
「いッ…！？」
　真剣に考え込みかけたところで、行き成り頭に衝撃がきた。
「な…！　……ぁ、……」
　何事だ！と驚き首を回せば、いつの間に乗り込んできたのか、ラナックが仁王立ちしていた。…っていうか、いつの間にかオバサンは消えているし、荷馬車は止っているし。どうやら、オレが物思いに耽り過ぎていたようだ。
「何度呼ばせるんだボケ。寝るなら王城に戻してやろうか、ああ？」
「……ゴメン、ちょっと考え事を…」
　脱出と同じく、簡単に進入も出来ちゃったりするのだろうかと。ラナックの言葉に、そんな疑問が頭を過ぎったけれど。流石に言葉には出来ず、モゴモゴとオレは濁す。
　が。
「……あの、その、リエムの妹に会ってさ」
　じっと射殺すような目で見下ろされ、ぼんやりしていた事実があるので引け目も感じ、つい言わなくてもいい事をポロリと言ってしまった。言った後でしまったと、自分のミスを意識したせいで、余計に焦りを覚えてしまう。
「……。……っで？」
　更に眉を寄せた苛めっ子が、短い沈黙の後、低い声で続きを促してきたのだけれど。
　で、も、何も、それだけだよとオレは抵抗する。だが、だからこそ怪しいと思ったのか、ラナックは立っているのをいい事に、座っていたオレの首をガシリと捕まえ、力任せに押さえつけた。
　顔を近づけ、囁きかけるよう殊更ゆっくりと、オレの耳に言葉を吹き込む。
「吐け、何を言った？　まさか、素性をばらしたんじゃないだろうな、ああ？」
「ま、ま、まさか…」
「お前、逃げ出してきた自覚はあるのか？　あいつの妹なんかに会ってんじゃねえぞ、コラ」
「わ、判ってるけど…、アレは不可抗力だし…。だって、オバサンが誘ったからさ、」
「黙れカス！　いい訳はいいから、さっさと吐け！」
「い、い、いいい痛いんだけどッ！？」
　何を言いやがったんだと凄まれるも、答える余裕がなくなる程に、思いっきり耳を引っ張られた。千切れる！と、両手でラナックの手首を掴み剥がそうと試みるが、びくともしない。
　最終、ごめんなさいと謝り倒し、正直にリエムは元気かと聞いてしまいましたと白状し、何とか開放されたけれど。
「ったく。テメェにはホトホト呆れるぜ。ちょっとは大人しくしろってモンだぜ、全く」
　赤くなるどころか痣になっているんじゃないだろうかと思うほどに痺れ続ける耳を抑え、床の上で蹲り耐えていると、今度は尻を蹴られた。
「これ以上アホな事はするなよ。言うとおりに出来ないんだったら、斬って川に捨てるからな」
　行くぞとオレを片足の攻撃で促し、ラナックがさっさと荷台を降りていく。
　確かに、リエムの妹の件は、仕方がなかったとはいえ少し不味い事態だった。それを判っていて、印象付けるような言葉を最後に向けてしまった。ラナックの言うとおり、オレは阿呆だろう。そこは納得出来る。
　出来るからこそ。だけどもう王宮を出たのだし、ちょっとくらいいいじゃないか！　お前がもっと親切丁寧にリエムの事を話してくれていたのなら、オレだってあえて問いはしなかったさ！　などと言った反論を飲み込み、大人しく付き従ったのだけど。
　正直、半分も納得出来ていない。
　っつーか。何で居るんだよ？　脱出の手伝いはまだ終わっていないということか？
　それならそうと、先に街で落ちあうと言っておいてくれてもよかったんじゃないか！？
　そこまで意思をはっきりと見せ付けるんだから、感情の起伏だけではなく、もっと計画を口にしてくれと。言えない言葉を、先を歩き始めた男の背中に向ける。しかし、オレがどれだけ念を込めようとも、男が振り向くことはない。世話をかけた老夫婦に挨拶をして街中に紛れて以降、まるで着いて来ているのが当然だというように足を進める。
「……」
　……もしかしたら、さ。このまま、こいつからも逃げられるんじゃないか？
　協力してくれた男から、今ここで逃げる意味も理由もないけれど。散々苛めてくれた男の鼻を明かしてやりたい気持ちが、そんな事をオレに考えさせ、足の進みを遅くする。
　もう直ぐ陽は完全に沈んでしまうのだろう街は、薄闇に包まれていて。そうすれば、距離と比例して男の背中をぼやけさせた。
「……」
　一歩進むごとにも間が広がっていく背中から、悪魔に唆されるように脇道へと視線を飛ばしたオレ。
　最早、足が完全に止ろうかといったその時。
「ヒ…ッ！」
　何の前触れもなく、グイッと首を締め上げられた。
　当然だが、先程不意打ち攻撃をした男は、ちゃんと視線の先に居る。ラナックではない。
　とっさに手をかけ見下ろせば、太い腕があった。誰だ？と考えかけた思考を奪うように、下げた顎を無理に上げさせるように力が加えられ、同時に背中に熱を与えられる。
「うおっ！？」
　背中に体重を乗せる形で力任せに引き寄せられ、足が浮いた。グッと喉が締まる。反射的に、顎が反る。
「おいおい、久しぶりじゃねえかよメイ！　元気でやってンのか？　王宮で働いてるんだってなァ、出世したじゃねえか」
「あ、え…？」
　仰け反る中で、斜め上の視線で捉えたのは、あまり有難くないほどに近寄った厳つい顔だった。一瞬わからなかったが、何てことはない、桔梗亭の常連オヤジだ。
　豪快なほどに満面の笑みを浮かべたそこに悪意はなく、記憶があるそれに緊張を解きかけたけれど。
　いや、このままでは、締め殺されかねない状態だ。下手に力を抜いたら、自分の体重でお陀仏だ。
「ちょ、ま、待って…、し、死ぬってば…」
「オイ、ハマッてるぞ、それ。そのままじゃ落ちるンじゃねえか？　離してやれよ」
「お？　悪ィ」
　ギブアップだと、剥き出しの腕をパチパチ叩き訴えれば。締めている本人よりも先に一緒に居た男が気付き、仲間の腕を緩めてくれた。こちらも常連さんだ。働き始めた当初から、オレをからかってくれたオヤジだ。
　すまねェ、と。全然思っていないだろう軽い謝罪を受けていると、流石にラナックが戻ってきた。それに気付いたオヤジ達が、久しぶりだなと肩を叩き挨拶をする。桔梗亭の常連なのだから、女将さんフリークの男のことも良く知っているのだろう。
「お前もスミに置けねえなァ、ラナック。何だかんだ言って、ボウズの面倒見ているみたいじゃないか」
「はあ？　誰がだ。見てねえーよ」
「照れるな照れるな、王宮の仕事を紹介したのはお前だろう？」
「始めはお前が追い出したのかと思ったが、上手くやっているようで安心したぞ」
「やってねえよ。聞けよ、クソオヤジ」
「だから、今更照れるなよ！　お前にも、ンな可愛いとこがあったんだなァ。安心したぜ！」
「勝手に話を作るな、ボケ」
　良くわからないが、オレ同様からかわれているような感じで、挨拶を通り越しバシバシとラナックの肩が叩かれる。嫌そうな顔をし、口では多少反論しつつも、明らかに諦めた風情で放っている姿が妙に可笑しくて。オヤジ相手でも口が悪いのがまた子供らしくて。つい、思わず、豪快な笑い声に釣られオレも口元を緩める。
　すると、空かさず「ナニ笑ってんだ、ああ？」と凄まれた。だが、悪いとオレが殊勝に謝る前に、オヤジ達がそれを引き受けた。
「おいおいラナック、照れているとはいえ、そう怖い顔をするなよ」
「メイ、この男に泣かされたら、俺に言って来い。ちゃんと叱ってやるからな」
「え？　はあ…」
「何だ、ハッキリしない返事だな。まさか、既に泣かされているのか？」
「こいつは昔から、苛めっ子気質だからなァ」
「あ、やっぱりそうなんだ？」
　なんだかラナックに向けるノリとしては微妙であったけれど、相手がオヤジ達ならばこんなものかと納得も出来て。それに便乗する形で、オレは食いついてしまったのだけど。
　そんな事を苛めっ子が許すはずもなくて。
「痛ッ！」
「オイ、コラ！」
「ラナックッ！」
「……」
　足を蹴られて蹲ったオレに気付いたオヤジズが抗議の声をあげるが、ラナックは丁寧にも舌打ちを落とし、オレにガンを飛ばす。
　余計なことは言うな。お前、さっきの約束をもう忘れたのか？
　異世界ではなく日本的表現で言うならば、簀巻きにして足にコンクリ付けて東京湾に静めるぞ――みたいな事になるのだろう。斬って川へ捨てるゾと伝えてくる眼を見上げ、オレはどうしようもなくて曖昧に笑う。
　笑った瞬間、二度目の足蹴りがきて、肩に衝撃を食らった。
　オヤジの手前か、非力者が相手だからか、そう強いものではく、尻餅をついた程度だったけれど。
「メイ大丈夫か！？」
「ラナック！　この悪ガキがッ！！」
　オレを心配する声と、苛めっ子を叱る声に、オレは何だか唐突に胸が温かくなり癒されて。
　本格的に笑いながら、少し泣いてしまった。

　ああ、漸く。やっと。
　オレはここに戻ってこられたのだ。