君を呼ぶ世界 113


 これが、今の現実だ。

 今にして思えば、苦労なんてものは無く。ただ少し慣れていなかった程度のものであるのだけれど。それでも、桔梗亭で働き始めた頃、気を張る中での客からのからかいは、何かと神経を擦り減らしてくれるものだった。
 だが、今は。
 あの軟禁部屋から開放された実感を、オレはむさ苦しいオヤジ達で味わったらしい。相変わらずな様子に、一気に日々が逆戻りしたかのような気さえして、胸がつまったのかもしれない。軟禁生活が夢であったかのようにすんなりと、言うほども過していた訳ではないのに街の空気がオレに馴染み、街がオレを認めてくれたような気持ちになった。
 帰ってきたのだ。オレは、戻ってきたのだ。無事に、この街に。この世界で手に入れた、自分が居るべき場所に。
 どうせなら、女将さんの笑顔で、やっとここに戻ってこられたんだと感動したいものなのだけど。まあ、これはこれで、悪くはないんだろう。このオヤジ達も、オレの日常だったのだから。
 ああ良かったなと、心底から思え涙交じりに笑うオレに、オヤジ二人が戸惑う。
 どうしたんだ?と、頭に手を置き覗き込んでくる二人を、大丈夫だからとオレは宥める。
 そして、それを至極迷惑そうに、鬱陶しそうにしていたラナックは。その場では何も言わなかったのだけれど。
 高ぶりかける気を落ち着け、新しい給仕は少し気が強いがとても可愛い女の子なのだという桔梗亭の様子を聞いて、またなとオヤジズと別れた後でのこと。
「…ダレが、何だって? ああ? フザケンナよ。苛めるって言葉の意味を知らないのかよ、ったく!」
「はァ…?」
 歩みを再開しながら、オレとオヤジズに対しブツブツ文句を言っていたラナックなのだが。その言葉が、いつの間にか自分は苛めなどしていないという訴えに変わっていた。いや、訴えではなく、当人にとってはただの事実なのだろう。オレには、よく理解出来ないのだけど。
「お前のどこが苛められるタマだよ、オイ。全然違うだろうが。お前も調子に乗って頷いてンじゃねえよ!」
「え? ナニ…?」
「ナニじゃねえよ。俺がいつお前を泣かせたと言うんだ、ちっとは否定しろ。勝手に、人を悪者にしてンじゃねえよ。ったく、お前は自分が親切にされて当然の生き物とでも思っているのかオイ。あのオヤジ達もオヤジ達だが、お前もお前だぜ。こんだけ手を貸してやっているというのに、恩を仇で返すような真似しやがって、最低だなクソ。トコトンやる気をなくさせる天才だな、お前。一度死んで反省して来いよ、ボケ!」
「……ちょっと、待て。怒っているのか? 何で?」
「だから、何でも何もねえっ!」
「痛ッ!」
「だったら逆に聞くが、いつ俺がお前を苛めたって言うんだ、言ってみろ! 俺の方が余程、お前に苦労させられているぞ!」
「……いや、でも……アンタ、いつも意地悪じゃないか。オレの事、嫌いだろ?」
「当たり前だ、死ぬほど鬱陶しいと思っているんだからな。嫌い以外に何がある。だが、俺はお前を苛めた事はないだろうが。ンなガキ見たいな事、誰がするかって言うんだ。そもそも、お前なんかを苛める必要もないし。お前も大人しく苛められているような奴でもないだろうが」
「……話がよく見えないんだけど」
 とりあえず、オヤジ達に苛めっ子認定されたのが気に食わないのだろうというのはわかったけれど。だけど、そうではないと説明しているらしいその言葉が、全然オレには入ってこなくて。何を言っているんだかと首を傾げると、チッと舌打ちを落とすと共に、再び頭を叩かれた。
 会話をする為に並んでいたのだが、この場所は危険極まりないと学習し、オレは数歩離れて吐かれる主張を聞く。
 要約すれば、ラナック曰く。オレへの対応は、決して苛めにはならないらしい。そうと思える不親切な部分は、ちょっとした意地悪程度の可愛いものであるそうだ。
 っで。本人が言うのだから間違いがないとまで言い切るが。誰が聞いても、そんなのは屁理屈極まりない話である。
 一体ドコダレだんに、それが通るのだろうか。そんな人が本当にいるのならば、是非とも紹介して欲しいものだ。
 なんて言い草だと心底呆れて眺めたオレに気付き、「なら、どこが違うか言ってみろ」とのたまう態度は、何の非も疚しさも持っていない堂々としたものだ。本気で、オレの心痛など察してはいないのだろう。「何を言っても、ヘラリと適当に笑って誤魔化している奴が、苛められたと訴えようなど百年早いんだよ。俺を悪者にしたきゃ、嘘でもしおらしくしてみろっていうんだ」とほざくくらいだ。辛辣な言葉を向けられたら笑うしかないオレの苦労など、一ミリたりとも思ってみた事はないのだろう。
 そう、だったら。
 オレの胸中を一切わからないのであるならば。
 そりゃ、苛めたなんて言われたら心外だろうよ。ただ自分は自分の感情をストレートに出して、嫌いなんだよ鬱陶しいと伝えただけ。卑怯なことも陰険なこともしていないと、悪い事をしてはいない自信があるのならば、オヤジ達の言葉もオレの対応も腹立たしかっただろうよ。
 だけど、それ。世間一般的には通じないだろうが、オイ。
 お前はどこまで、自分本位なんだよなあ?
 どうもオレの態度はラナックには飄々としているように見えるみたいで、苛められるタマじゃないというのはそういうことなのだろうけど。実際には、この男の言葉と態度に堪えているオレとしては、正当性を主張する理由はわかっても納得できないものである。
 だけど。それを口にする気力が、あまりにも馬鹿げた言い草に奪われて。
 世間の常識を欠いている男に、それを語って通すだけの技量をオレは持っていなくて。
 オレが思うほども悪気はないらしいことだけを汲み取り、全然オレの辛抱が伝わっていなかったことを頭に刻んで。「命を張ってまで出してやったというのに胸糞悪い奴だぜ」と、恩義背がましく嘆く男に謝っておく。それこそ、口先だけだと判断されるような謝罪であったけれど、とてつもない面倒をかけている事実がある以上、オレにはそれ以外の言葉は言えないというものだ。こういう場合、物分りがいい方が損をするのだ。
 もし、そこまで計算して話を振ってきたのであれば、それとこれとは話が別だと、オレだって反論のひとつやふたつはするのだろうけれど。多分、この男は、そんな回りくどいことは考えていない。単純に、思った事を言い、言いたい事には遠慮をしていないだけなのだ。
 言うなれば、どこまでも素直だということだ。
 だから、本人の言うとおり、不親切で意地悪なのは間違いないのだろうけど、悪意は極めて薄いのだろう。
 だけど、これこそが、苛めっ子の典型だろう。ガキの苛めだ。
 っで。一応オレは、大人だ。
 少なくとも、この男に対してはそうでなければやっていられないと。険悪とまでは行かないまでも、パッとしない雰囲気を払拭するべく、オレは話題を探して向けてみたのだけれど。
 リエムって貴族なんだなの話には、「だったら何だ、お前には関係ないだろう」で終わられて。
 桔梗亭の新しい給仕の話には、「お前以外なら誰でもマシだ」と切り捨てられて。
 ジフさんは大丈夫なのかなの話には、「ペラペラペラペラいい加減にしろ! 黙ってついて来い!」と、手が伸び足が伸び。
「……」
 これの何処を持ってして、苛めていないと言い切れるのか。その神経の図太さには感服だ。
 多分悪気はないのだと、この男の意地悪さを、努力して好意的に捉えてきた。それはオレばかりではなく、苦笑ばかり浮かべる周囲もそうだろう。これが本当にただのガキだとか、血縁者だとか、家族だとか。そういう、修正してやるべき相手であれば、「ちょっとその考え方は違うんじゃないか?」と進言するのだろうけど。大人な男に対し、ただの知人がするべきものではない。まして、昔からの友人でも微妙なところであるそれを、オレなんかが出来るわけもない。
 だから。更生する機会はもうないだろう男のこれは、仕方がないのだとわかるのだけれど。誰もが諦め納得しているのだろうけど。
 それでも、己が正しいと信じて疑わずにそれを見せ付けてくるこの図々しさに嘆きたくなるのは抑えようもない。一体、こいつはどんな育ち方をしたのだろう。大半は性格であるのだろうが、幼少期はそれなりに軌道修正を図られたはずだ。それこそ、女将さんなら生意気なクソガキを遠慮なく叱ったのだろうに。
 何故、そこで直らなかったんだろう。
 この傲慢さがもう少し控えめであり、他者を慮れる性格であれば。今のデメリットは、意志の強さや何やらに評価を変え、メリットとしてみられるのだろうに。本人も損をしているだろうし、周囲も無駄に迷惑だし。本当に勿体無い。
 決して悪い奴ではないと、邪険にされているオレでもわかるくらいなのだから、何とも惜しい男だ。
 もう少し、言葉を選んでくれたらなァ。もう少し、感情を繕ってくれたらなァ。もう少し、他人の行動を認めてくれたらなァ――と。全然少しではないけれど、すっかり暗くなった街を並んで歩きながら、オレは隣の兵士の事を考える。
 ズケズケと、はっきり物を言うそれは、ホント嫌いじゃないんだが…。
 自分の立場が危うくなるかもしれないのに、脱走に協力してくれた事を考えれば、女将さんの事で警戒されていなければもっと上手くやれていたのかもしれないと思うと、非常に残念にさえ感じた。それは、無事に城から抜け出せのだから、もうこれでこの男とは縁が切れるのだろうと考えての、小さな心細さが引き寄せた感情かもしれないけれど。街に戻って余裕が出てきたからこそなのかもしれないけれど。それでも、確かにあるそれに、オレは小さく息を吐く。
 そうして、若干、憂鬱な気分になりかけたところで、低い声に呼びかけられた。
「オイ、ボケッとしてんな」
「あ、ゴメン……って。そういや、ドコヘ行くの?」
 無心について来たが、どうも桔梗亭へ行くのではない様子に、オレはいつの間にか離れていた距離を駆け足で埋め、再び並び立ちながら問い掛ける。だが、相変わらずラナックは不親切で、「黙ってついて来い」とだけだ。ちょっと粘って同じ事を問うてみれば、「お前は引き摺って行かれたいのか? ああン?」と凄んでくる。
「追われる身であそこに行きたいだなんて、俺が許すわけがないだろう。逃亡者の自覚はねえのかオイ」
 周囲を警戒している様子は見せず、オヤジ達との立ち話も止めずにいたというのに。今更のような危険を教えられ、オレは仕方なく口を噤む。オレだって、追っ手を引き連れて桔梗亭に戻り、迷惑をかけてしまうだなんていうのはゴメンだ。
 そう。絶対にゴメンだけど。
 そもそも、追ってはいるのか? 脱走、ものすごく緩かったんだけど?
 オレが逃げた事を知ったら、やっぱり追跡したりするのだろうか。だったら、早く王都から出る方がいいのだろう。と、言うことは。もしかして…。
「入るぞ、来い」
「え? ここ…?」
 このまま王都を追い出されるんじゃないかと、先程のように商人にでも預けられて王都を脱出かと、速すぎる展開にどうしようかと焦りかけた時。ラナックがオレを連れて、こじんまりとした一軒家の前に立った。何てことはない、周囲と似たり寄ったりな、ただの民家だ。
 夜の帳が降り始めた時刻だし、今夜はここで様子見に泊まるとかいう展開もあり得るかも…?
 だったら嬉しいんだけどと思うオレの前で、ラナックがドアを叩く。相手は待っていたのか直ぐにそれは開き、ひとりの男がオレ達を迎えた。簡素な格好だが、体格の良さからかやけに存在感があり、何故かオレの頭の中で引っかかる。
「遅かったな」
「顔見知りに少し捕まっただけだ。問題ない」
 開けられた空間をさも当然というようにラナックが通る。オレの事は、当然放置。
「どうぞ、お入り下さい」
「はァ、…お邪魔します」
 どうすればいいんだと躊躇っていたら、家主であろう男に促された。会釈をし足を進めながらも、オレは家の明かりで晒されたその顔をじっと眺めてしまう。見覚えはない顔だし、聞き覚えのない声だ。なのに、どうしてだかやっぱり気になる。
「さあ、こちらです」
 静かにドアを閉めた男が、片手を出す仕草でオレを促しながら奥のドアへと進んだ。行けよとラナックに肩を小突かれ、慌てて足を進めつつも、違和感の理由に思い当たる。
 事情を知っての協力者か、知らずに巻き込まれる被害者かわからないけれど。男は、オレに対し慇懃なのだ。ラナックに向けたものと全く違う。ホンの少しの接触でも、まるでジフさんのようだと感じるほどに、やけに丁寧だ。桔梗亭に来ていた街のオヤジ達とは雲泥だ。
 身体の厚さから、彼らと同じ肉体労働者かと思ったが。もしかしたら違うのかもしれない。
 男の背中を観察するように見ながら思うオレの前で、男はドアをノックして、その扉を開けた。誰かが居るのだろう。先に中へと入り、室内からオレを招く。
 足を踏み入れ、何気なく見た光景に、オレの身体が固まった。
「…………な、」
 ここは何処で、男は何者だろうなと訝ったけれど、警戒なんてものは全くしてはいなかった。不意打ちだ。
 しかし、例え構えていたとしても、どうせ意味はなかっただろう。
 後ろには、ラナックがいるのだから、オレは逃げられはしないのだ。

 そう。目の前に、あの王様が居たのだとしても。
 オレには、逃げる道がない。


2009.11.05
112 君を呼ぶ世界 114