君を呼ぶ世界 114


 オレのこの数時間は、一体なんだったのだろう。

 先に部屋に入った男に意識を向けていたからか。あまりにも、理解したくない現実だったからか。
 明かりが灯された部屋の中では見間違えようもない先客の姿に、ただただ呆然。案内をした男がオレの横を通って、椅子に座るその人物の傍へと行くのを見て、時間が停止しているわけではないのだとどこかで思うが、オレの頭は正常には働かない。オレだけがフリーズ。
 止ってんじゃねェとどこかで聞こえるとともに、衝撃が来て。半歩足を踏み出して。視線がその人物から離れて、床を見て。
「…え?」
 そこで漸く、目が捉えた映像を頭が処理した感じで。現実が戻ってくる。
 それでも、嘘だろうと。今のは見間違いじゃないのかと顔をあげ、全然間違っていない事実を目の当たりにして、サッと血の気が引いた。
 ヒッと、喉が鳴る。
 当たり前だろう。無事逃げおおせたと安心したところに、オレを捕らえていた張本人が待ち構えていたのだから、ビビらずにはいられないだろう。
「な、な、な…なんでッ!」
 緊張と恐怖か、それとも絶望か怒りか。よくわからないというか、もしかしたら全てなのかもしれない膨大な感情が、一気にオレに襲い掛かる。それに気圧されながらも、掠れそうになる声で叫ぶ。
 なんで、ここに王様が!?
 どうして居るんだよっ!?
「ど、どうして…!?」
「ウルセェ、黙れ」
 押さえつけることなんて到底出来るものではなく、爆発した感情は考えを纏められなくて。熱を吐き出すよう、叫ぶしかないオレを慮る事なく、直ぐにラナックの片手が飛んできた。頭を叩かれた。痺れるような痛みが頭皮に絡みつく。
 だけど。王様を前にしては、そんな痛みなど取るに足らないことだ。
「ちょ、ちょっと待てよ…! 黙れじゃねェだろ! 何だよこれは! どうなってンだよッ!?」
「どうもこうもないだろうが」
 オレの横で、しれっとラナックが言う。オレの前では、無表情に徹した王様と、部下か何かはわからない御付の男が、まるで自分達は関係がないといったような態度で無言を貫いている。だが、その視線は、オレに向かうそれは、背筋が震えそうになるほど強い。
「お前の前に居るのは、正真正銘この国の王だ。フザケタ真似をしていると、また牢屋に放り込まれるぞ」
「なッ!?」
 どっちがフザケタ話をしているのか。あまりにも最低で最悪な言葉に、オレは思わず、オレを狙っているような男達から視線を逸らし、ラナックを振り向く。自分が何を言っているのか、今この状況がどういう意味であるのか、本当に理解しているのかと。脱走してきたはずの自分達にこれはあり得ないだろうと、お前は驚かないのかと視線を向けた――のだけど。
 ラナックの表情は、驚きも、諦めも、何もなかった。いつも通りの、面白くないといった表情ではあるが。王がここに居ることに何ら不都合さを持っていない、むしろ居るのが当然といった、自然体だった。
 驚いているのは、状況が理解できていないのはオレだけらしい。
 それを察したオレの中に、パッと閃くように仮説が生まれる。
「ま、まさか…」
 まさか、この男。オレを売ったのか?
「何だ」
「…………」
「言え」
「…………」
 斜めの視線でオレを捉え堂々とそう口にした男の言葉を無視し、オレは、成り行きを見守るとでも言うのか動かない王達に顔を戻す。
 王様が居る。
 それが事実であるならば、売ったかどうかはともかく、ラナックがここへオレを導いたのだから、この展開を予想してのものだろう。態々、逃がした奴を、再び捕らえさせるというのも妙な話だけど。男とこの場所で落ち合う約束をしていたのだから、オレを王様に引き渡す算段は、脱走を始める前からしていたというわけだ。
 そうでなければ、話が合わない。
 男だけと落ち合うつもりであったのならば、この部屋に王が居たとわかった時点で、何らかの反応をしているはずなのだから。自分に素直すぎる男が、騙されたような事をされているというのに、小言の一つも口にしないと言うのはそういうことだろう。ラナックにとって、これは予定通りというわけなのだ。
「……つまり、最初からこうなる訳だったんだな…?」
 アレから一度も会っていないが忘れもしない男の顔を見ながら、オレは震えそうになる声でそれだけを吐き、口を噤む。それ以上開いていれば、隣に立つ男を詰ってしまいそうだった。目の前の王に、暴言を向けてしまいそうだった。
 だけど。
 強い視線に晒されながら、堪らずに目を閉じてみれば。
 オレの中にある憤りは、そんな単純な努力では押さえ込めない大きさであるのに気付かされる。
 それでも、唇を噛み締め、両手を握り。この理不尽の中にオレが耐えねばならない理由はないとも思うのに、荒れる感情を宥めすかす。
 赴くままに他人を詰れば、少しは気持ちは晴れるかもしれないが、状況は変わらない。むしろ、取り乱すだけ分が悪くなるだろう。
 怒りの中でもそれを察し抑制するくらいに、あの日理不尽に叩きのめされた衝撃が、オレの中で今も枯れずに残っている。
「簡単に、王の私室から出られるわけがないだろう」
 耳に届いた、決定的な答えとなる言葉。だが、それは先程と同じ色のようではあったが、表情を見ていないからだろうか、少し憮然としているように聞こえた。
 それが、騒がないオレを面白くないと思ってのものか、この事態を納得しているわけではない主張なのかは、オレにはわからない。けれど、それを推し量れたとしても、今はラナックの思いを汲み取りたくもない。
 今さっきまで、難しくはあったが、そう悪い関係でもなかったのに。悪くは思っていなかったのに。
 逃がしてやると言っておきながら、結局はこうして目の前に差し出されたその事実に。騙された怒りよりも、そういう男だったのかと失望する気持ちが膨れ上がって、子供なんだと少し微笑ましくさえ思えていたものが綺麗さっぱりと消えてしまう。
 今更遅いけれど。やっぱり、おかしかったのだ。王が住む城からの逃走が、ああも上手くいくわけがなかったのだ。
 この為に、ラナックはオレに協力したのだ。きっと、ジフさんも。二人とも、王が、それを望んだから。そう、何らかの理由でこの王は、こんな事を実行したのだ。こんな、フザケタ事を。
 確かに、これは虐めじゃない。だけど、ただの不親切でも、意地悪でもない。もっと、悪質だ。最低だよと、オレは動かないまま隣に立つ男へ、心中で言葉を投げつける。
 心底から信頼しているような関係ではないけれど。それでも、オレがラナックを頼りにしていたのは紛れもない事実だ。それなのに、これは一体どういうことだ。裏切りだと詰れば反論されるのだろうけど、オレの胸中に浮かぶのは、正にそれだ。やられたと、ふざけんなよとの憤りに比例して、泣きたい様な気分にもなっているのだから間違いないだろう。
 たとえ最初から、脱走劇の終結がここにあったのだとしても。オレはそれを知らなかったのだから、裏切られたと言ってもいいだろう。
 けれど、それを向けるのは、ラナックではない。
 嬉々として、態々オレを騙すようなこの芝居を隣の男が打たのだとしても。その役を与えたのは、目の前に居る方の男だ。何より、オレなど構いたくはないだろう男を動かせるのも、今になって考えればこの主君以外にはない。
「……それで? 何の御用でしょうか、王様」
 瞼を上げ、オレは顎を引いた状態で、全ての元凶でしかない男を見据える。
 こんな事をして、お前は何がしたいんだと。
 オレはどうにも出来ないような軟禁状態にあったのだから、用があるのならばもっと普通に呼び出せばよかったのだ。
 手の込んだ事をしたのは、一度希望を見せておいた方が、絶望の効果が高いからか? 長い間放置していたくせに、今更なんだというのだ。
 オレにはもう、話すことなどないというのに。
「貴方も、オレが逃げる手伝いをしてくれるんですか?」
「追い出される事はあっても、手を貸される事はないだろう。相手は王だぞ、お前は何様のつもりだ。バカが」
「だったら何故、ここに居るんだよ?」
 茶々を入れてきた相手を振り向けば、「俺に聞くなよ、本人に聞け」と投げられた。だったら、口を挟んでくれるなというものだ。
 この男は、王様の前であっても、態度は一向に改まらないらしい。
「ラナック、少し黙っていろ」
 オレと同じ事を思ったのか、御付きの男がラナックを注意した。いや、命令か。小さな舌打ちが聞こえたが、了承のポーズのように、ラナックは数歩身体を引き壁際に立った。
 それを見て、オレは顔を戻して王様を見る。
 お忍び途中かなんなのか。先日見た時よりも一層、中身が王ならばラフというよりもみすぼらしくさえある極々庶民派な服装ではあるが。無言でオレを見据えるその態度は、一般人にはない威圧感を纏っている。
 視線が重なれば、息苦しさも覚えるそれに、オレは呑まれるのを避けるために口を開く。
「オレを、開放して下さい」
 あの部屋からも、そしてこの場からも。
「オレは全てを喋った。アレをどう捉えるかはそちらの自由だが、これ以上言える事がないオレを捕らえ続けても、そちらにも意味がないでしょう?」
 そもそも、何かを聞きにくるわけでも罰しにくるわけでもないのに、軟禁し続けたのがおかしいのだ。この王様は何をしたかったのか。捕まえたのを忘れていたのならば、そのまま忘れ続けてくれれば良かったものを。
「ペンダント、返して下さい。アレを戻してくれたなら、オレは今回の事は水に流します…、忘れますから……お願いします…」
 出るところに出てもいいんですよ?と。日本でならば言っただろうけど。地位も名誉もある貴方なら、裁判沙汰は困るでしょうと。それが無理でも、ゴシップ雑誌やインターネットと、貴方の暴挙を公に出来る方法はいくらでもあるんですよ。だから、穏便に済ませましょうよと。どこをどう取っても一方的な被害者であるのを盾にして、オレは片割れの石の為にそう迫っただろう。
 だけど、ここは異世界で。出るところが本当にあるのかどうかもわからないので、ただの傲慢にも聞こえなくはないぞ…と。深く考えもせずち口にした自分の言葉に怯んでしまい、情けなくも尻すぼみになる。ここで弱さを魅せてはダメなのだろうに。
 てか、ナニこんな奴に頼んでんだよ、だ。
 でも、サツキの為なら、頭のひとつやふたつ下げるのに抵抗などないのも事実。
「リエムに聞いているでしょう。アレは大事なものなんです。返して下さい」
「……」
「…………」
「…………」
「……聞いてますか?」
 何でここに居るんだ!と、オレはどうされるんだ?と不安一杯だけど。相手の事情なんて知るかと、先手必勝じゃないけれど、折角会いたくもないのに会ったのだから有益に使わねばと。オレは切実に頼んだけれど、返るのは沈黙と視線のみで。
 まさかじゃないけど、目を開けたまま寝ていないよなと。耳栓でもしてるんじゃないかとの、嫌味半分の突っ込みが喉下まで上がってきたのを、どうにか変換して吐き出す。
 聞こえているのかとのオレの疑問に対し、王様の反応は少し眉が寄った程度だった。見ていなければわからない応答。多分溜息だろう、後ろの方から聞こえたラナックのそれの方が大きいくらいだ。
 だから。
「……その気も用もないのなら…だったらオレはこれで、失礼します」
 オレにも用はないからね。じゃあ、バイバイ、と。踵を返そうとしたが、流石に止められた。
「カル地方の訛が一切ないな」
「……お褒めに預かり光栄です」
 が、それがなにか?と続けかけ、オレはハタと気付く。
 訛がない?
 そりゃそうだろう。オレは相手によって言葉を使い分けているわけではない。この翻訳機能は、相手をみて効果を最大限に発揮するのだ。意識しない限り、相手の聞きやすいようにオレは喋っているはずだ。王様に他の地域の訛など聞こえるわけがない。
 だけど。
 それって不味くないか? 田舎者に訛は必要だものなあ?
「……」
「さて、どうしてか」
 あはは、どうしてでしょうね?と。言える筈もなく、今度はオレが口を噤む。

 オレが降りたあの辺りには、方言があるだなんて。
 どうして今まで誰も教えてくれなかったんだよッ!?


2009.11.09
113 君を呼ぶ世界 115