君を呼ぶ世界 117
オレが忘れたんじゃなく。
お前が非道すぎるんだ!
振り返った先では予想通り、ラナックが再び床に倒れていた。
いや、押さえ付けられていると言った方が正しいか。ラナックの背中には、男の片足が乗っている。腰を捻った状態での、あの圧迫は辛いだろう。さっきの今では、虫の息になっているんじゃないだろうか…大変だ!
「ラナック…!」
まさか、こいつらだって殺す事はないだろうけど。落とすくらいの事はしそうだと、背中に届いた声は取りあわず、オレは数歩の距離を駆ける。
退けてくれよと、ラナックを踏みつけている足に手を伸ばすと、意外にもあっさりそれは除けられた。だが、訝る暇などなく、オレは倒れた体を少し押して起こし、そのまま小さく揺する。生きているよな…? これで死んだら、末代までネチネチ祟られそうだ。
「ラナック? 大丈夫か? なあ、オイ…?」
「…………ウルサ…。向こうへ、行ってろ…」
「……」
大丈夫ではないと言われても、医者など呼べはしないし。心境も、心配というのとは少し違うけれど。オレが顔を覗き込むと、少しして眉間に皺を寄せたままラナックは眼をあけ直ぐに閉じ、ボソボソと掠れる声でそんな事を言ってくれるのだから、いやはやどうしたものかだ。これだけ近付いていなければ聞き逃しただろう言葉は、可愛くないもの。
弱っても相変わらずであるらしい様子に、オレは言える言葉もなく息を吐き、肩から力を抜く。抜いた途端、ホンの少し重い空気が減った分だけの隙間に、余裕が生まれた。
どこをどう打たれたのかはわからないけれど、痛みに耐えているかのような顔を前に、それでもオレは安心する。膨れ上がっていた不安が、強がりでしかないのだろう憎まれ口で掻き消えた。
向こうってどこだよと、行けるのならばオレもさっさとここから逃げたいよと、胸中で苦笑する。
何となくだけど、ラナックはこのままで大丈夫なのだと思えた。それくらいに、元気ではないが、重症にも見えない。
小さく息を吐き傍らを見上げると、スオンと呼ばれた男が無表情でオレを見ていたけれど。それでも、先程のような恐怖は微塵も湧かなかった。その眼を見返し、オレの予想は間違ってはいないのだろう?と相手を探ってみる。
暴力は、好きじゃない。オレ自身、痛いのは嫌いだ。喧嘩して殴りあうだなんていうのも、正直理解できない。叩く程度ならばまあ、そういう衝動に覚えがないわけではないのでわからなくもないけれど。ごく普通に日本で暮らしてきて、環境にもそこそこ恵まれていたら、こういうのには馴染みが全くなくて当然だ。愛のムチが罷り通っているような、体育会系でもなかったし。
だけど、知識として、そういうのが世の中にはあるのだとわかっている。軍隊ならば尚更、日常茶飯事だろう。だから、この二人の場合も、オレとは違いよくわかっているのかもしれない。打たれることも、打つことも。この二人にとっては、今のは暴力ではないのかもしれない。現に、ラナックは今なお抵抗しないのだから。
男が手加減したとは思えないけれど、少なくともオレが思う程も理不尽な仕打ちではないのだろうなと、オレは二人の間に立って気付く。ここに、鬱屈したような雰囲気は一切ない。俺サマラナック様が怒っていないのだから、これでいいのだろう。
でも、だからって。オレには理解も納得もいかない事態に変わりはない。この二人が問題だとは思っていなくとも、オレは王のこんな非道に眼を瞑る事は出来ない。
何故なら、王は。オレから情報を引き出すために、オレを吐露せねばならない状況に追いやると、そう言葉にして言ったのだ。暴力の元凶はオレにあると言ったのだ。ラナックは大丈夫だとわかっても、それを許すなど出来るはずがない。
元凶はオレではなく、王である男なのだ。この理不尽を許しては、次に繋がるかもしれない。
ラナックは大丈夫でも、これ以上はダメだ。もし本当に、桔梗亭から誰かが連れ出されてきたらどうなる? 床に倒れているのが、女将さんなりエルさんなり、客の誰かやあの子供達となっても、オレはまともな反撃ひとつ出来ない。守れない。
だから、絶対ここで終わらねばならないし。
負けられない。
負けたくもない。
「…アンタは、本当に王様か?」
この前も口にしたように思う言葉を、オレはあの時以上の気持ちで相手に向ける。
間違いを教え込ませるというのではない。オレは、こいつの母親ではないのだから、躾などしたくもない。ただオレは、知人に打たれてでも、知人を打ってでも、王に従う二人が馬鹿みたいで。この中で、その異常に気付いているのがオレだけだという現実が、無性に悔しくて。振り返り、二人を無言の力で支配した王を睨む。
世の中を安寧にも出来る神子を呼んだ男がこれなのだと思うと、相手は王様だとかオレは逃げなければだとか、計算したり我慢したりする事の意味が一瞬わからなくなって。
「オレは他人をこんな風に扱う奴が、王であっていいとは思えない」
許せない、負けたくない、逃げない、一矢報いてやると。沸々と湧き上がる闘争心を今度は抑えず、オレは立ち上がり向かい合う。オレから何を引き出そうとしているのかわからないのだから、対峙するのは危険だとわかっている。それこそ、これが王の狙いであり、オレは今度こそ牢屋行きで、張りつけの刑にでもされるんじゃないかとも思う。他人への暴力が効かなければ、最終的にはオレに直接それがやってくるのだろうから、あながち間違いではないだろう。
けれど、止めようとは思わない。
何度目になるのかこの攻防も、きっとこれで終わるのだとの予感がある。結果がどうなるのかはわからないけれど、オレが来訪者だとの確信を持っている王が、これ以上オレに手間はかけないだろう。前回止めたリエムがいない今、王は欲しいものをもぎ取って終わらせるはずだ。
だけど、簡単にはさせない。
オレにだって、プライドもあれば。この理不尽を恨む気持ちもあるのだから。
「相変わらず、口の利き方を知らない奴だ」
「知っているさ。ただ、アンタに敬意は必要ない。他人をまるで自分の持ち物のように扱っておいて、敬ってもらおうだなんていうのは図々しい話だ」
「楯突けばどうなるのか、いい加減学習したらどうだ」
「はっ! 楯突くも何も、オレはアンタを王とは認めないとそう言っているんだが、察せられないのか? 存外鈍いな」
先の相手の言葉を真似、意識して顔を歪ませ鼻で笑ってやると、流石の男も表情を変えた。僅かに寄っていた眉が、更に寄って眉間に深い皺を作る。ホンの少しだが歪んだ口角に気付き、オレは小気味よさを覚える。
「不敬罪で、またオレを捕らえてみるか?」
「…調子に乗るなよ、小僧」
「調子? まさか。オレはそんなものには乗っていない、アンタと違ってな。訳もわからず捕らえられ、大人しくしていたオレのどこがそうだっていうんだ。玉座にふんぞり返っている奴には言われたくない言葉だな」
「二度も脱走をした奴が、よく言う」
「オレはアンタ個人に罰せられる謂れはないんだ。あんな部屋に閉じ込められていなければならない理由はない。帰って何が悪い? 用もないのに居続ける方が可笑しいだろう」
「流石、異界人だな。話にならん」
「奇遇だな。オレもアンタをそう思う」
「ほぅ…、認めるか」
売り言葉に買い言葉で、テンポよく行き過ぎたかポロリとオレは失態を犯したようで。
スッと王の目が細まり、低い声でそう言った。その声を聞いて、今までの声音が軽いものであったのを知る。意気込んでいたのは、オレだけであったのかもしれない。
「…だったら、何?」
認めたのは異界人ではなく、話にならないという点で。それをわかっているのだろうに、揚げ足を取るかのように食いついてきた男に、オレは少し動揺しつつもそれを押し隠し肩を竦めて小さく笑ってやる。
「オレが真実を喋っても、アンタは聞かない。それどころか、勝手に決め付け認めさせようとする。はっきり言って、もうどうでもいい。そのまま勝手にどうとでも思っていればいいさ。アンタにオレの真実を説こうとするのは、するだけ無駄なようだからな」
「先刻、同じような事を発してラナックが罰を受けたのを忘れたか?」
「……アンタが何と言おうが、アイツを傷つけているのはオレじゃなくてアンタだ。アンタが、血も涙もなく友人を打っているんだ。人のせいにするな」
「お前は本当に、学習しないな」
何度も同じ事を、と。溜息交じりのような言葉でそう言い、王が口を閉じた。オレが正直に全てを話せばラナックは痛い目をみないのにと、そう言いたいのだろう。
けれどオレは、そんなルールを作った王が問題だと非難するのを止めはしない。
そして、王も、問題はオレにあるとの考えを改めはしないだろう。
どう転んでも、同じ事を繰り返すのだ。オレと王では、平行線のままなのだ。
オレが折れる事はないし、王が折れる事もない。不毛もいいところの対峙に、早々に嫌気がさす。
互いに譲らずに行き続けるのを、王とて察しているのだろうに、何だというのだろう。この男は本当に、何がしたいのだろう。
リエムのように、オレから神子探しの協力を取り付けたいのか。その為に、オレの秘密を探り脅そうというのか。だが、そんな事ならば、勝手にすればいいのだ。あんな部屋に軟禁出来るくらいなのだから、やりようによってはもっと簡単に、穏便に、俺などあっさり手駒にしてしまえるのだろう。真偽は定かではなくとも、オレを動かせるものを握っているのだから、オレからの情報などもう要らないはずだ。
それとも、オレに来訪者だと認めさせ。本気で刑にでも処そうというのか。
当然だけど、オレは神子とは思われていないようだし。言葉を自在に操っているので、この世界に来てまだ二ヶ月程度の人物だとは思われてもいないのだろうから。自分が行った召喚に関する異界人だとの認識は王にはないはずだ。そんな関係のない相手へのこれ程の干渉は何なのか。サツキの石に関してだって、もうどうにもならないとわかっているはずだ。それとも、死んだと言ったその事さえも疑っているのだろうか。
異界人と認めさせたいだけではなく、他にも知りたい事があるのだろうか?
自分の召喚によってやって来た来訪者だとわかっているのならば、使い道はあると考えたとて可笑しくはないが。それならば、オレをこんな風に扱うだろうか。本気で協力を得たければ、リエムのようにとまではいかなくても、もう少し態度を考えるものじゃないだろうか。それとも、そこまでわかっているから、唯一出た召喚の結果がオレというただの異界人だとわかったから、不貞腐れているとか…?
……いや、まさか。ラナックでもあるまいし、さすがにそれはないだろう。
ならば…と、もう一度考えてみるが、上手くはいかない。ピースは沢山あるのに、完成図がみえなくて。どうすればいいのか持て余してしまうばかり。
一体、今この瞬間は、どこへいこうとしているのだろう。
この男は、何を目指しているのだろう。
きっとそれは、オレには理解出来ないものなんだろうなと考えて、何故かオレはそれを少し悲しく思ってしまった。
どうしてと、不機嫌でありどこか疲れたようにも見える、それでも無表情な男を眺め。何となく、その理由が思い当たる。
オレは、この王を。街の者やリエムから聞いた、この男を。
どこかでずっと信じていたのかもしれない。
「…オレは、アンタを買い被っていたようだ」
思わず零したオレの声は、苦笑交じりではあったが。自分でも、残念そうに聞こえる弱いもので。
その声も、言葉も意外だったのだろう。静かに瞼を上げた男を見ながら、残念だと改めて思う。
この男も、世界が変わる音を聞いたのだろうに。
2009/11/19