君を呼ぶ世界 118
同じ経験をしても、そこから得るものは人それぞれ違うのだ。
視線を感じながら、今度は逆に、オレが目を閉じる。その中で、一回、二回と、深い呼吸を繰り返す。
もし、この瞼を上げる瞬間に世界が変わり、例えば元に戻っていたのだとしても。オレは、帰りたいと思う心とは別に、戸惑いを覚えるのだと思う。オレを振り回す運命を恨むくらいには、オレは望みが叶うのだとしても、急激な変化は遠慮したいと思っている。
一度経験したからこそ、唐突なそれに怯えているのもそうだけど。
オレにとってはもう、この世界の日々はちゃんと、オレのものとなっているのだ。元の世界に帰れるのだとしても、この世界での全ては消えないのならば、オレはオレのそれを奪われる。また、あの理不尽な力に晒されるというわけだ。単純に、戻れて良かった!の話には、もうならない。
この世界は今なお、オレにとっては異世界だけど。
それでも、オレが今、確かに居る場所なのだから。
「王だからとかじゃなく。オレはアンタを…アンタならばと、思い込んでいたみたいだ」
バカだよなと、オレはふっと笑い、小さく頭を振る。
笑みのまま王を見れば、怪訝な顔つきでオレを見ていた。それは、貼り付けた無表情でもオレに対する嫌悪でもない、男の心境を取り繕うことなく素直に出したようなもので。嫌味や怒声よりも男の素を匂わせるそれに、オレはしてやったりと少し優越感を持つ。
オレをこんなにも振り回すのだから。この男ももっと、困ればいいのだ。
自分がいかに最低な事をしているのか、もっと思い知ればいい。
オレから二度も、世界を奪ったのだから。
元の世界を。この世界での、日常を。
「アンタならば、誰かの日々を奪うことはしないと、オレはどうやら信じていたらしい。だが、アンタは神子を呼んだ。神子召喚は、ただの拉致でしかないのに。神子がこの世界に来ればどうなるのかわかっているのに、アンタは実行したんだ」
「…だから、何だ」
敬意など一切見せずにいるお前が、一体今更何が言いたいんだという様に。僅かに目を細めながらもまっすぐ見てくる男の顔を見返しながら、オレは再び小さく笑う。
神子召喚は犯罪だと、この男が認める事はないのだろう。この男だけではなく、きっとこの世界の人々にそれは通用しないのだろう。だけど、それでも。そういう話とは別にこの男ならば、オレはその変えられる痛みがわかるのだと思っていた。今まで疑いもしなかった自分が、滑稽なほどに。
「別に、何も。何もない。オレは何故、あんたが神子を必要としたのかなんて、もうどうでもいいんだ。事実と結果で、もう十分だ」
よく考えなくとも、この男はまだオレとそう歳の変わらない若者なのだ。この世界の25歳がどの程度なのかは知らないけれど、日本ではまだ十分に若い。社会でバリバリ働いている者もいれば、家庭を持っている者もいる歳だけど。親のスネカジリ学生であっても、フリーターであっても、それこそ自分探しでウロウロしていたとしても、まだ許される歳だ。少なくとも、一国の頂点に立っている奴など一人もいない。
そして、それはこの男にも言えるのだろう。確かに、この男は王であり、その勤めを果たしているのかもしれないけれど。王の前にただの若者であるこの男個人が、人としても優れているかどうかは決まっていないのだ。若い力を持っているのならば逆に、それ故の愚かさをも持っているということだ。
あの出会いで、聖人君主などとは到底思っていなかったし、王様失格だとさえ思っていたけれど。それでも、心底では信じていた、王ではなく、王になった男そのものも。結局は買い被りでしかなかったというわけだと、オレは改めて思い知る。
何だと聞かれたら、本当は一杯あるのだけれど。フザケタ事をしやがってと説教する気には最早ならない。もう事実は変わらないのだから。
「アンタは神子召喚を行った」
それにより、召喚師が亡くなっているのをオレは知っている。
「オレを軟禁した」
オレから、大切なものを取り上げた。掴み取っていた日常を。片割れの形見を。
「それでもう十分にわかったよ。アンタは、オレが思ったような者ではなかったんだってことがな」
女将さんもエルさんも、街の人達も。まるで近所の子供の成長を喜ぶように、王の話をしていた。幼い日々の様子を聞かせてくれた。あの街に居たのは、今オレの前に居る男とは違うと思っていた。聖獣を得てタナボタのように王位についたのならば、きっと子供の頃は玉座を想像していなかっただろうから、この王にとっては衝撃であったはずだと考えていた。この男もまた、世界を変えられたのだと。
事実、聖獣に選ばれた瞬間から周囲の目はそれまでと変わっただろう。現に、王への道が示されたのだから、状況は一変したはずだ。そして、実際にそこへと登りつめたのならばまた、何もかもが一転しただろう。
たとえ、玉座を欲し、その現実に歓喜していたのだとしても。覚えたのが理不尽さではなかったのだとしても。それまでの自分の世界が一瞬にして生まれ変わる感覚を、この男は何度も味わったはずなのだ。その個人ではどうにもならない波を体験したはずなのだ。
だから。
だから、オレは。この男は、己の意思に関係なく変えられる衝撃を、それに対する衝動を、誰よりも知っているものだと思っていた。わかっているのだと。それなのに。
その男が、神子を呼んだ事実が。オレに向けられる、異界人だとの言葉が。買い被っていたらしい情けなさ以上に、鈍い苦痛を教える。経験しても、この男は痛みを得なかったのだ。だからこそ、同じ事を他人に躊躇いなく施せるのだ。
「確かに、国を動かしているアンタにとっては、オレの日常なんて取るに足らないものなのだろう。あんな風に、問答無用で部屋に閉じ込めたとしても、何ら不都合など生じないと思ったとて不思議じゃないさ。だけど、オレにとっては平凡でもなんでも。それこそ、オレの代わりなんか幾ら居たって。オレにとっては、全てなんだ。全てだったんだ。単調な日々でも、単純な仕事でも、訳もわからず奪われたオレにとっては、それこそ世界が変わるのと一緒だ。世界そのものを変えられた神子と同じだ。アンタは、オレが努力して得た日々を蹴散らし、オレの世界を変えた。それだけが、オレの結果だ」
裏切られた気分になるのは可笑しいと思うのに。
胸の痛みは、それに酷似している。
「アンタなら、その衝撃がわかると思ったのに…。聖獣が来ても、王になる事が決まっても、アンタにとっては、それだけのことでしかなかったんだな」
残念だ、よりも。何故、わからないんだと。オレはそう問うように、男と視線を合わせる。
理不尽を憶えなかったというのならば、それはそれでいいのだ。だけど、どうして、皆が皆そうではないのだとわからない?その波にのまれてもなお、立ち続けられたこの男はそういう点では立派なのかもしれない。それは王としては強さだろう。だけど、溺れてしまう者もいるのだと気付けないのは、それを思いやれないのは、人としての未熟さだ。
「違ったから、今なお他人にもそれを強要できるのか。それとも、知っていても、他人のそれになど興味はないのか。どちらかは知らないけど、結果はこれで、それはもう変わらない。オレは、経験したアンタだから、神子を呼ばないと思った。呼ばないで欲しいと願った。けれど、アンタは実行した。そして今なお、逃げたのだろう神子を捕まえようとしている。どこに理由があろうと、それはもう王としても人としても行き過ぎたものだ」
逃げたのだろう神子を手中に収めようとするその行為は、はっきり言って最早見苦しい。関係あるのかどうかもわからないオレを捕え、形振りなど構っていないような必死さは、哀れにすら見える。こんなにまでして、神子を得てなんになるのだろう。協力的でない神子が傍にいても、平穏は遠いだろうに。
「それでも可笑しな事に、オレは今の今まで、どこかでまだ自分が理解出来ないだけであるのだと思っていたようだ。それは、アンタに理想を重ねているんじゃなく、オレにアンタの事を優しく語ってくれた人達のその言葉を信じたかっただけなんだろうけど…」
オレは、オレの知らないその真実を慮る事が出来る程度には、この男から受ける仕打ちに腹が立っても、我慢できた。いや、我慢できるうちだったのだ。けれど、どこで知ったのかは知らないが、異界人と詰られ、幼馴染にさえ剣を向けるその姿を見た後ではもう、好きな人達の意を汲むのさえ難しい。
耐えるラナックの努力を水に流すのだとしても、リエムの優しさをなくすのだとしても、女将さん達から気持ち的にも離れるのだとしても。オレはこの王を、この男を、認めない。オレだけは、認められない。
「だけど、今、はっきりとした。もう、オレには無理だ。絶対ムリ」
肩を竦め、顰め顔に小さく笑い掛け。
一呼吸後に、オレは笑顔を消し去り男を睨む。
消えた神子にばかり意識を向け、無関係者を巻き込んだ可能性さえみていないような相手に、オレの中でカッと火がつくように怒りが湧く。それが真実だとしても、この男にだけは異界人だと詰られるのは我慢できない。許せない。
オレを「異界人」にしたのは、この男なのだから。
「アンタは、ただの最低な男だ。アンタにとって厄介なオレが、忌むべき異界人であれば事を簡単に運べると思ったのだろう。ならば、今度はオレをその理由で討つ気か? ああ? 召喚に巻き込まれた、この世界が生み出した被害者でしかない罪なき来訪者を異物だからと蔑むような人物の考えそうなことだ。本来、神子のように知識があるわけでもない来訪社は守らねばならない対象だというのに、王の立場であるアンタがそれとは情けない。異世界の者であろうと、人は人。まして、弱者を差別するとは、恥を知れっていうものだ…! そんな強引な手がいつまでも通用すると思ったら大間違いだぞ! 王の行いは、一番多くのものに見られているんだ。誰もがアンタに従い続けるとは限らない。他の奴らを馬鹿にするのもいい加減にしろっていうんだッ!」
拉致されたあげく、神子じゃないと虐げられ、異界人だと詰られる自分があまりにも情けなくて、悔しくて。
それでもオレには、ここはオレの世界とは別だとの慰めがあるけれど。
この世界で生まれてもなお、異界人だと差別されていた少年を思い出し。それを守っていた少女達を思い出し。その遣る瀬無さを宥めようにも、この国のトップはこれなのだ。差別に流されない者がいるというのに、上がこれなのだ。このままでいい訳がないだろう。
「王とは、民があるから王で在れるんだ。命令ひとつで誰かを虐げられるのなら、逆にいえば、誰だって救えるということだろう。自分の大切な人を自分に代わりに救ってくれる人物であるから、皆が王に傅くんだ。だからアンタはその権力を、人を生かす為に使わなければならないはずだ。それが出来ない王など、王じゃない」
「……生憎、お前に認められずとも、我は王だ」
反省しやがれと、態度を改めろと、噛み付くようには居た言葉の余韻が消えてから。漸く男は口を開いた。
どこか、億劫そうに。
「何を言い出したかと思えば、世間知らずな子供のような事を。そんな理想の塊では国は動かない、王は勤まらない。それもわからないお前に、王が何かなど語る資格はない」
「はッ!神子に頼ろうと召喚までした奴が、よく言う。王が聞いて呆れるぜ…! そんなだから、神子に逃げられるんだ! アンタの国に、神子なんて必要ないね!」
「何だと…?」
「聞こえなかったのなら、何度でも言ってやるよ! アンタの神子召喚は間違いだ! この国に、神子なんて勿体無い! 見付からなければいいんだ!」
いや。そもそも実は失敗していて、神子は召喚されていない事をオレは望むね!と。言った瞬間、オレは立ち上がる男を認識するよりも早く、向けられた怒気に目を見張る。ゆっくりとだが、椅子から腰を上げつつ、脇に下げる剣へと両手を滑らせるのを視界で捕えながら、オレの意識が一瞬飛ぶ。
頭で警告灯が光るように、抜き身の刃に晒された記憶が点滅した。同時に、バカみたいだけれど。オレの勢いにのまれたのか、どこまで神子捜索に必死なのか、どこか余裕を持っているというか投げ遣りそうな態度であった男を本気に出来た事に達成感を覚える。が。
けれど、抜かれた剣が数十センチの距離でこちらを向けば、そんな役には立たないものは一瞬で吹き飛ぶというものだ。このまま一歩踏み込まれれば、オレは串刺しだ。王が本気になれば、この狭い空間で、腕に覚えもないオレに逃げ道はない。他の事を考える余裕は流石にない。
それでも。
「余程、自ら討たれたいらしいな」
「…………なッ!」
それでも、向けられた言葉にそんな訳ないだろうと言う為、オレは薄く唇を開いたが。声にはならなかった。
また力にものを言わせるのかと、鋭い切っ先を睨んだオレは、言う気満々だったのだけど。その前に、信じがたい衝撃がオレを襲ったのだ。
どっかのバカが、あり得ない事に、オレの背中をトンと押してきたのだ。
当然、オレは後ろからの攻撃など警戒しておらず、無防備もいいところだったので。あっと思う間もなく、前に足を踏み出してしまう。
幸いなことに、王も驚いたのか、それともそこまでする気はなかったのか、刺さる!と思った直前で剣を引いてくれたので、オレは事無きを得たのだけど。
危険が去れば当然、次に来るのは齎された衝撃と同じだけの怒りで。
「な、何を…ッ!!」
何をするんだ! 危ないじゃないか!と。オレは数歩で立て直した身体を捻り、犯人を振り返った。
だが。
そこにいたのは、予想さえもしていない人物だった。
当然だろう、会ったことがないのだから、想像出来るわけがない。
「…誰?」
こんな事をするのはラナックぐらいだと、復活して早々の嫌がらせを向けてきたのだろう相手に噛み付く準備を一瞬でしていたオレは、満面の笑顔を浮かべた男に毒気を抜かれる。
「やあ、どうもどうも」
オレと変わらない体形の男が、オレを押したのだろう挙げていたままの両手で、笑顔とは裏腹に思えるおざなりな挨拶をした。
「それにしれも、元気だのォ」
……いや、あの。オイ。
元気も何も、オレは危うく貴方のせいで、命を無くすところだったのですが…?
2009/11/23