君を呼ぶ世界 145
どうしても、失う事に目が行きがちだけど。
それを補うくらいに、オレは与えられているのかもしれない。
桔梗亭に着いたのは、夕方前で。まだ、充分に明るい時間で。
オレは、傾いた日差しが影を長く作り始める中で、短い間ながらも親しんだ街並みに感じ入っていたのだが。
食堂へ入った途端、思わぬ喧騒に包まれ、その気持ちも吹き飛んだ。
「え…? なんで?」
いつもならば、夕方の営業が始まるかどうかと言った時刻なのに、既にもう席は大方埋まっている。ガタイの良い男達ばかりで、暑苦しいほどだ。決して、感動しながら飛びこむような場所ではない。
「賑やかだな」
そう言うがオレの様に驚く事はなく、思わず立ち止まってしまったオレをリエムが後ろから促してきた。背中を押されて我に返り、オレは少し駆けるようにして厨房へと足を踏み入れる。
なんだか出鼻を挫かれた感じだが。まずは女将さんとエルさんだ。
「た、ただいま!」
若干緊張しつつも出した声に、慌ただしく動いていた二人が振り向き、歓迎の声をあげてくれた。が、相当忙しいのか、動きはそのままだ。
「メイ! 元気そうじゃないかい! 良かったよ」
女将さんが、オレにそう言いながらリエムに皿を渡している。持っていけ、との無言の指示だ。
「漸く来たな」
「今はもう、全然元気。ってか、ホントすみません――あ、オレもするよ」
顔を向けつつも鍋を振る手を休めないエルさんに、慌てて手を洗おうと袖をまくったところで、背中に軽い衝撃が来た。情けなくも少しぐらつき、片足を半歩出して堪える。
手が空いた女将さんが、オレの背を叩いたのだ。
「ホント、倒れたって聞いた時は驚いたんだよ。その後は、そのまま王宮で働く事になったと、ちっとも顔を見せないし」
薄情者だねと、小言を口にする女将さんだが。その顔はとても穏やかで。
「お帰り、メイ」
心配していたんだよと、前に回り、両手でオレの手を握って微笑んだ。
ああ、帰って来たんだと。素直にオレは思え、一気に胸が熱くなる。
確かに軟禁部屋で、帰りたいと、戻りたいと思ってはいたけれど。オレ自身が努力して手に入れた場所なんだと、意地になって死守したい気持ちがあったけれど。
そんなものもどうでも良くなるくらいの気持ちが、身体を駆け巡る。またここに来られた、と。この中には入れたそれだけが、とても嬉しくなる。
こんな風になるなんて、予想もしていなかった。こんなにも、オレはこの場所が大事だったのか。
心配させてすみませんと、何度だって言うべきなのだろうに。喉が詰まって何も言えなくなる。
重ねられた手を握り返すと、女将さんが苦笑するように小さく笑い、解いた手でオレの腕を落ち着かせるよう叩いた。
そんなオレ達の上を言葉が飛び交い、リエムがエルさんに聞き、皿を持って再び食堂へと出ている。本気で給仕を手伝うようだ。
「身体はもういいんだね?」
「はい、ありがとうございます」
「新しい仕事は、どうだい? 周りと上手くやれているかい? 田舎者だ何だのと言われたら、黙っていずにちゃんと怒るんだよ?」
「そんな事はないので、大丈夫です。それより、突然こんな事になってしまって、本当にすみませんでした」
オレが頭を下げると、嫌だよこの子はと、すぐさま女将さんが額を押し上げてくる。実力行使だ。
「そりゃあ、体調を崩したのにも、王宮で仕事を与えられたのにも驚いたけどね。それはメイが悪いわけじゃないんだから、謝らなくていい話だよ」
「いや、でも…」
確かに、いきなり軟禁されはしが、リエムは上手く対処をしていてくれていたらしくて。
ここに来るまでに聞いたのだけれど、オレは王宮で仕事をしている事になっているのだそうだ。数日帰宅が遅れている程度なら、体調を崩したので王宮で様子を見ていると出来るが。それ以上は流石に怪しまれるだろうと、オレの預かり知らぬところでそんな事になっていたらしい。
しかし、出掛けていたリエムがここに来てその説明をしわけではなく。実際には、王様の命令で誰かが事後報告として伝えに来ただけの事なのだろう。女将さん達からにしたら、一方的なものであったはずだ。
心配は勿論、迷惑を掛けていないわけがない。半日休みを出した従業員が、崩した体調が治っても戻って来ずに、その理由が王宮で仕事を与えられたからだなんて。寝耳に水どころか、キツネに抓まれたようなものだ。幾ら王宮勤務にステータスがあり、名誉なことだとしても、納得できない事態だっただろう。何せ、オレは一度としてそれから顔さえ出さなかったのだから、薄情もいいところ。裏切り行為だ。
それなのに。
「きちんと連絡は貰っていたからね。対処も出来たし、本当にこっちは大丈夫だったんだよ。直ぐに手伝いに来てくれる子が見付かったしね」
だから、それに関してはもう気にしないのよと。女将さんがオレの手をもう一度強く握った。
なんて良い人なんだよと。実際に一番悪いのは王様で、オレの非なんてほんの少しだけれど。女将さんの懐の深い優しさに、オレは改めて己の不甲斐なさを感じ、申し訳なさでいっぱいになる。
店が少し落ち着くまで待っていてと、女将さんが給仕を再開しだした。どうやら今日はどこかの工事現場が終了したようで、いつもより早く仕事を上げた面々が雪崩れ込んできているらしい。
オレが使っていた部屋はそのままにしているからと促されたが。カウンター越しに、幾人かの客が目敏くオレを見つけ声を掛けてくるので、オレは女将さんと代わり食堂へ出ることにする。
一昨日街で会ったオヤジ達と同様、常連客に弄られながら仕事をしていると、いつの間にか厨房に人影が増えているのに気付いた。
「あッ!?」
その人物が誰なのかわかり、思わず大きな声をあげてしまう。
「えっと、確か、レーイさん…?」
そう、そこに居たのは、リュフとチトの姉であるあの彼女だ。流石にあの路地裏で会った時とは少し感じが違うけれど、間違えるわけがない。
オレの声に顔を上げ、レーイさんが少し困ったような表情を浮かべながらも、ペコリと頭を下げた。
「忙しい時間帯だけ手伝って貰っているのよ」
でも、今はそうだけど、出来たらこのままうちでちゃんと働いて貰おうと思っているのよ、と。女将さんがオレに皿を手渡しながら言う。いいでしょう?と、まるでオレに許可を求めているような雰囲気だ。先任の許可が必要な話でもないだろうに。
しかし、どうして?と。女将さんのそれもそうだが、彼女がここに居る経緯が見えずに、首を傾げたオレに。今度はリエムが声を掛けてきた。
「メイ、ここはもういいようだから、それを出したら部屋に行こう。今のうちに、荷物を纏めておかないか?」
「あ、うん」
そうだな、と。少ないとはいえ、私物を放置しておくわけにもいかないよなと。頷きつつも、視線はレーイさんの方へといってしまう。
オレの代わりがもう既にいるのは知っていたけれど。ホント、まさか、まさかだ。
だけど。
自分の場所がもうなくなっている事を目の当たりにして、少し悲しいと思う気持ちはあるけれど。オレに身体を売っている事を知られ、軽蔑するかと聞いてきたくらいだから。ここで働く方が、彼女にとってはそういった精神負担も少ないだろうし、何より弟妹と接する時間を作りやすいだろうし。そうでなくとも、何らかの良い事であり、彼女がそれを望んでいるのならば。オレとしても、自分の痛みなど些細な事だと言えるくらいに、嬉しい事だ。
「常連のオヤジがさ、新しい給仕は可愛いんだと鼻の下を伸ばしていたんだけど。レーイさんだとは、びっくりした」
宿の方へと向かう前に側により、オレは声を掛ける。女将さんがオレに希望の話をするくらいだから、雇いたい気持ちは伝えているのだろう。保留にしているのはレーイさんの方だと予測し、役立つかはわからないが話を向けてみる。
先の初顔合わせ時とは全く違い、どこか気まずげで視線がずれたままだが、気にせずに言葉を続ける。
「オレ、突然放りだす形になったから、凄く気になっていたんだけど。良かったよ。アナタなら安心だ」
「いえ、私は…」
手を動かしながら紡いだ言葉がそこで途切れた。その瞬間、もしかして?と気付く。
女将さんの誘いが迷惑なわけではなく、遠慮だとか、オレに対しての気まずさだとか、そんな話なのかもしれないと。レーイさんの様子に、初めて会った頃の、チトと違い遠慮していたリュフを思い出した。
「オレ、実は女将さんと貴方はとても気が合うんじゃないかと思っていたんだよね。気持ちがいいくらいハキハキしたところなんか、姉妹みたいに似てるしさ。それに、ここはオヤジ連中が多いから、オレなんかの男よりも可愛い女の子の方がウケがいいんだろうしね。ま、頑張ってよ」
だから、そんなに構えなくてもいいんだと。アナタはこの店に不義理をしたオレを助けたようなもので、オレを追い出したわけじゃないんだからさと。口には出さずにだけど、その思いを込めて。軽い口調で頼むよと、細い肩を叩く。ビクつくように揺れたそれを気付かないふりして、オレはエルさんにも声を掛け厨房を後にする。
「彼女の事、リエムは知っていたのか?」
「いや。新しく雇ったのは聞いていたが、それが誰かとまでは知らなかった」
あの子供達の姉だなと、再確認してくるリエムに、オレはそうだと頷く。続けて、知り合いだったのかというので、一度街中で会っただけだと答える。
ついつい驚きが強く、うっかり聞くのを忘れたが。リュフやチトも元気なのだろうか。
居てもおかしくない時間だが、食堂には勿論、廊下の窓から庭を覗くが、そこにもいない。レーイさんがここにいるから、もしかしたら家で母親の面倒でもみているのだろうか。
会いたいんだけどなと思いながら、オレは突き当たりまで廊下を進み、端部屋のドアを開ける。
部屋は、あの日に出掛けた時のままだった。ベッドには、着替え。机には、読み掛けの本。
だが、女将さんは掃除をしてくれていたようで、空気は籠っていない。埃もない。
「荷物はどれくらいある?」
「殆どないから、直ぐに終わるよ。座っていてくれ」
ベッドを示すと、リエムがそこに腰かけた。
余っているのだとしても。もう、辞めた事になるオレの為に一室を与え続けてくれていた心遣いが素直に嬉しい。王宮で働いて貰う事になったと報告に来たその相手に、オレの荷物を渡して整理していたとしてもおかしくないのに。
もしかしたら女将さんは、オレが戻ってきたら受け入れようとしてくれていたのだろうか。
「その、オレがしているとなっている仕事ってさ、期限有りなの?」
女将さんには、オレがそれを終えれば戻って来ると言っていたのかとリエムに問うと、「そうは聞いていない。こちらにも段取りがあるだろうし、中途半端な話にはしていないはずだ」と、少し考えつつも応える。
そうかと返事しながら、オレは女将さんの優しさを実感し。同時に、少しリエムの言葉に引っ掛かりも覚えた。
オレを解雇に追いやったのは、王様だ。しかし、その男はオレを軟禁しつつも、さほどオレの協力など欲していなかった。それでも、この店に帰すつもりが微塵もなかったというのはどう言う事なのか。その時点で、来訪者だとの確信を持っていたのか。無関係者でも、もはや野放しに出来ないと決めていたのか。それとも、オレを王都から追放するつもりだったのだろうか。
知り合いである女将さん達に迷惑がかからないようにした対応だけなのかもしれないが、微妙なものだ。オレが見る暴君王ならば、オレを罪人なり何なり仕立てあげて、二度とここの敷居をまたげないくらいの事はしそうなのに。監禁し、職を奪ったくせに。まるで、オレがこうして戻る事も想定してのもののようだ。
はっきり言って、ヌルい。オレが知る王にしては、温すぎだ。
これなら、他の皆が見る、民に慕われる王の方に近いじゃないか。
訳がわからない。一体何を企んだんだか、と。オレは不可思議さを、そんな悪態をつく事で処理しつつ、荷物を纏めた。
ふと思い出し、爺さんに貰った小銭袋を持ってリエムの隣に腰を下ろす。
「これさ。オレを見付けてくれた爺さんに貰ったんだけど」
旅の途中で少し使っただけで、そのまま仕舞っていたのだが。久しぶりに手にして、その重みに急に中身が気になった。
リエムとの間のスペースで、袋を傾けて揺すり中身を広げる。
「貰った時は、オレ、あんまりこの世界の金の価値がわからなかったんだが…」
「……田舎の人間が貯めていたにしては、多いな」
決して、ポンと人にやる額ではない。
リエムの言葉に、オレは硬貨を取り上げながら頷く。確かに、多い。これなら、王都への旅どころか、質素に暮らせば数カ月もちそうな程だ。
「こんなにとは、思わなかった……爺さん、大丈夫なのかよ」
「何者なんだ?」
「さあ…オレには、普通の田舎暮らしの人にしか見えなかったけど……あれっ?」
「手紙か」
予想以上の金を袋に戻そうとして、硬貨の間に埋まっていた小さな紙に気付く。
開けてみると、金は返さなくていい、やったのだから全てお前のものだと綴られていた。
リエムは何者なのかを気にしているけれど。
オレは、それ以上に、何故なのかを知りたくなった。
何故、こんなにもオレに良くしてくれたのだろう。
女将さんも、爺さんも。
どうしてオレに、こんなにも――。
2010/03/01