君を呼ぶ世界 176


 誰でもいいから、さっさと回収してくれ…。

 一国の頂点に立つ人物であるというのに、地面へ直接座ったかと思えば。
 トラ公に押されて、ころん。
 抵抗したようには見えない。勿論、自力で寝ころんだという感じでもない。
 だったら、一体、何をやっているのかというものだ。
 酔狂で真夜中の散歩をしているのかと思ったが……違うのか?
 まさか、夢遊病者とかじゃないよな?
「…………」
 有り得ない出来事に、突拍子もない発想をして、自分自身で更に驚いて。
 若干、思わぬ事態にビビる気持ちもあって、何も出来ずに固まったまま見続けるしかないオレの視線の先で。
 トラ公は健気と言うのか、何と言うのか。倒れた王を気遣っているのか、その身体にまた鼻先を押している。
 ……今、それで主人を転がしたのだろうに。果敢な虎だ。
 一方の王は、こちらも頑固な程に、やっぱり動かない。起き上がりもしなければ、腕さえ上げない。完璧に、トラ公を無視して勝手にさせている。
「…………これって…寝てる、とか?」
 それこそ、心臓発作だとか、脳溢血だとかで、死んだんじゃあないよな…?
「…………まさか、なあ?」
 もしそうなら、流石にその辺の犬や猫とは違うのだから、聖獣が誰かを呼びに行くだろう。
 だったら、緊急事態ではないということ――な、ハズ。
 …………なんだけど。
 遠くからでは判断が付かない……。
「……。……あぁ〜、もうッ! 何だって言うんだよ…!」
 畜生と、悪態と舌打ちと溜息とを同時に吐き出し、オレは窓枠に足を掛け、隙間から身体を外へと滑らせる。
 ここから飛び出すのも二度目ともなれば、案外高い窓から地面へと降りる衝撃を、膝を使って和らげるのを身体が覚えており、無事に着地成功だ。
 が。
 それでも、そのまま一歩を踏み出すのを躊躇ったのは、やっぱり向かう先があそこだからなんだけど。
 勢いで出てしまった窓を振り返れば、ちょっとそこから部屋へ入るのは難しい高さと、窓の開き具合で。
 ここまで来たら行くしかないだろうと、やっぱり放っておいてもいいかなと思う気持ちに蓋をして、腹を括る。
「そもそも、オレが居るのを知りながら、あんなところで紛らわしい事をしているのが悪いんだ…」
 そう、オレが様子を見に行くのは当然なんだと。
 よって、何をしに来たと怒られたとしても言い返すぞと。
 イヤな展開が起きても損をしないよう、とりあえずいくつかの言葉を用意しながら、星明かりだけなので足元が心許ない庭をゆっくり歩き、問題の場所へと向かう。
 勿論、最悪、奴が行き倒れているのだったら、人を呼ばないとなァとも考えながら。
 ……っつか。結局はそこなんだけど。
「……めんどくせぇ」
 思わず零れたそれは、王さまに対してのものであり、自分に対してのものでもある。
 嫌いな奴など放っておけばいいと思うのに。奴が夜中の庭で何をしていようが、関係ないのに。それこそ、オレが対処しなかったばかりに何かが起こったとしても、オレの責任ではないと思うのに。
 頭ではそうでも、心はダメだ。ビビるというか、怖気づいているのもあるのだろうけれど。責任感が強いというのとは真逆の、これは、そう、お節介でさえもなく。ただ単純に、小心者というだけなのだろう。
 もし、何かあったになら…と考えてしまうと、動いて確かめずにはいられない不安に駆られるのだ。
 どれだけヤな奴でも、おかしいんじゃないかと思った時点でもう、オレには放置出来ない。
 外で寝て風邪をひけばいいさ、その事で子供のようにジフさんに怒られろ、と思っても。実際に無視しきるだけの、図太い神経は持ち合わせていない。
 クソーッ!と内心で、損な性格である事に吠えつつ。
 とりあえず、近付くオレに。
 気付いたトラ公がふと頭を上げてこちらを向き、直ぐにまた王へと顔を戻した。
 っで。
 今度は鼻先を擦りつけるのではなく、口をパカリと開けたかと思えば――
「――ちょ、ちょっと待てッ!」
 オレを認識した途端、何をどんなふうに思考を巡らせたのか。
 大きく開けた口を、そのまま王さまの頭へ近付けるのだから、仰天ものだ。  けれど、ギョッとして叫んだオレに、虎は一切動じることなく。あろうことか伏せる程に頭を下げて、王さまの首を口で銜えた。
 あ。やっぱり、似た奴でも影武者でも何でもなく。覗く顔はオレが知る男だ、正真正銘王さまだ――じゃなく!!  マジでやりやがったッ! 噛んでんじゃねぇーッ!
「だから、待て待て待てーッ!」
 反応を返さない男の自主性を諦め、自ら男を連れ帰ろうとしての事だろうけれど。親パンダが子パンダを口に銜えてあやすのを初めてみた時は衝撃だったが、それと同じくらいに、オレは血の気が引く思いを味わいながら駆け付ける。
 捕食の為、トラが人間の首に齧り付いているようにしか見えない。野生動物のドキュメント番組でも見ないシュールな画だ。
「とにかく放せ!」
 映像的に蒼白な光景に、怖気づきそうな脚と頭を叱咤して。慌てて距離を詰めたオレは、今まさに獲物の息の根を止めようとしている一歩手前のような猛獣に、詰まった喉から勢いで誤魔化し命令を落とす。
「放すんだよッ!」
 見た目は兎も角、何だかんだオレに対してやってくれたが、左程の被害に遭う事もなかったので。この獣は存外安全だとわかってはいるのだが。事実、威嚇だとか殺気だとかの雰囲気は皆無で、むしろ、ダメダメな主人に困っている飼い犬の様な情けなささえ感じる気がする状態であるのだが。
 これは、どう考えても、見過ごせないだろう。
 本人に悪気はなくとも、万が一という事もあるし。オレの心臓にも悪いし。
「連れ帰るのは、別の方法にしてくれよ…なあ?」
 甘噛みだろうと、流石に首は駄目だ、首は。せめて、噛んで引っ張るなら髪にしろ。頭皮が剥がれたくらいで人間は死なないだろうが、間違って頸動脈を傷付けでもしたら、死ぬ。王であろうと何であろうと、確実に。
 トラなら、ネコ科だろう。どうして猫のように、首根っこを噛むかわりに、服でも噛んで引きずって行こうとしないんだ。そんなに、即座に退散しなきゃならないほど、オレの介入が嫌なのか。
 そう言えば。最後にこの虎に会った時、オレってば無意味に手を噛まれたんだったよなと。今思い出さなくてもいい事を思い出し、また噛まれたらどうしようかと緊張しながら。ジイィッと、地面に近い位置から王の首を口に挟んだ状態で、騒ぐオレを見極めるように強く見上げてくるトラ公をオレは負けじと見降ろし。
 動かないトラ公に痺れを切らし、ままよと心で祈りを捧げて、手を伸ばしながら膝を折る。
「どうせそれじゃ運べないだろう……オレが、どうにかしてやるから」
 ほら、大丈夫だから放せ。
 痛いほどの視線を浴びながら、両手をトラ公の顎に掛けて、下がるように後ろへ押しやる。
「ァ…」
 オレが必死になっている意図を汲んだか。それとも、変わりに対処してやるの言葉が効いたのか。変わりに噛まれるのも覚悟の上で触れたのだが、意外にも、トラ公はあっさりと引いてくれた。
 その態度に安堵し、オレはひとつ深い息を吐きながら、短い感謝の言葉を口にする。
「…サンキュ」
 下顎を掴んだ手を離し、そのまま喉をひと撫ですると、トラ公がカフッと空気を食べるように小さく口を動かした。まるで、返事をしているようだ。
 やはり、獣とはいえ、ただの動物ではなく。流石、聖獣と言われるだけの事はあり、聡いのだろう。
「……それに比べて、こいつは…」
 呑気だ、と。
 牙でも当たって怪我をしていないか、王の首をチェックしてみれば。トラ公は器用に舌で支えていたのだろう。濡れてはいたが、傷は一切なく。良かったと思えば、途端に、焦った自分が馬鹿らしくなり。
 何にも気付かずにいる男に、呆れ果て、ムカツキも湧いて。
 大人しく座っているトラ公の眼も、何のその。
 酒の匂いと、安定した呼吸に。オレは王がただ眠っているだけであるのを確認した流れで。
「…ザケンナよ」
 丁度そこにあった頭を、手首のスナップを効かせ、バシンと軽く音が鳴る程度に叩いてやる。
「なに、こんなとこで酔い潰れてンだよ…人騒がせだっつーの」
 小気味よい音と、爽快感に。つい、もう一度叩いてみれば。
「…ン、……」
「…………」
「……」
「…………もしもし?」
 起きた? 起きましたか?
 呻る様な声を漏らした男に、オレは動きを止め、息を殺して様子を伺う。……うん、大丈夫そうだ。
 ビックリさせられた腹いせに、手元にある頭をもう一度叩いてやろうかと思ったが。流石に、相手が相手なので我慢し、ひとつ大きい息をついてから、その肩に手を乗せる。
 命の危険性はなさそうなので、放っておいてやりたい気もするが。トラ公に約束した手前、何もせずに立ち去るおは無理にあってしまったので仕方なく、だ。
「なあ、アンタ。こんなところで寝るなよ」
 起きて部屋へ帰れよ。聖獣が心配してるぜ。
 つーか、さァ。マジでひとりなんだな。仮にも、国王様の癖に可笑しいだろう。
 トラ公が齧りつこうが、オレが叩こうが、誰も現れないんだから驚きだ。ドラマや映画の世界じゃ、偉い人には見えないところにも護衛が常についているもので。何かが起こる時は、さっと飛び出してくるものじゃぁないんだな。
 まあ、こいつが寝転がった時点で、放置されたままだから、そんな感じだとはわかったけど。
 でも、国の中心人物がここまで自由なのもどうなんだろう。せめて、夜中に抜け出しているんだから、いい加減誰か探しに来いってもんじゃないか? マジで危機管理ゼロだなオイ。
 こんなのだから、トラ公が自ら運ぼうと無茶をするんだよ、と。
 一向に起きない王の肩を惰性で揺すりながら、静かな周囲を見回し、星が瞬く空を見上げて、起きろと気のない声を零していれば。
「ヒッ!?」
 いきなり地面についていた左手を掴まれ、オレは短く息を吸い込み悲鳴を上げる。
 反射的に払い落そうとした腕は一切動かず、強い力に、そこへと縫いとめられ。
 見れば、いつ起きたのか、だらりと伸びていた男の右手がオレの手首を握っていた。
「…………お前は…どういう、つもりだ…」
「ど、ど、どういうって……風邪ひく前に戻れよと起こしているだけで…」
 別に、決して亡き者にしようだとか、いたずらしようだとか、何かを企んではいないに。いきなりの反応でビックリして、どもってしまったオレから不審を感じたのか。
 男はさらに力を入れて、オレの手を拘束する。
「い、痛いってッ!」
 このまま折られるんじゃないかとのそれに、オレはその手を剥がそうと右手をかけるが、拘束する指は開かない。
 どこまでバカ力なんだ…!
「放せよバカ!」
「……なぜ…」
「ナゼもナニもねぇ!折るきかよ!クソッ!!」
 埒が明かないと、逃げるため腰を上げるが、男の腕が持ち上がるだけでそれ以上動けない。振り払おうと腕を振りまくるが、同じことだ。
「放せって!――あっ、痛ッ…!」
 地面に転がったままの男の腕を、まるで貞子に抵抗するかのような必死さでオレが無茶苦茶に振り回し続けていると、急に手首の圧迫が取れ、変わりに熱い痛みがそこを滑った。
 パツンッ!と何かが切れる音が、耳ではなく身体を通して響き、次の瞬間にはオレの身体が後ろへ倒れる。
「うわッ!?」
 不意に開放されたが為にバランスを崩して尻餅をついたオレは、痛む手首を胸に抱えるように撫でながら、とにかく立ちあがる。
 起きたのなら、さっさと帰れ! このバカ王が!!
 そう、言い捨てて。もう付き合えないと、オレは踵を返そうと思ったのだけど。
「…あ、……」
 叫ぶ前に、足元に落ちているそれに気付き、オレは再びしゃがみこむ。
 痛いはずだ…。
「切れちゃったんだな…」
 指につまみ拾い上げたのは、願いを込めたミサンガだ。数本の紐を編みこみ作ったもので、そう簡単に切れるわけではなく、まだ充分頑丈であったのに。オレの力と、王の抵抗に、引きちぎられてしまったようだ。
 ただのおまじないでしかないものだけど、手の中の縮れた紐の無残な姿に、少し悲しささえ浮かぶ。
 折角、今までつけていたのに、と。無駄になったそれを右手で握り締め、こうなった元凶の男を見下ろせば。
 オレを拘束していた手を、再びだらりと地面の上に投げ出して。
 王はまた寝入ったように、一切の動きを止めて突っ伏していた。

 ……この、酔っ払いがッ!


2010/11/03
175 君を呼ぶ世界 177