君を呼ぶ世界 179
多くは望まない。
帰ってくれれば、もう充分だ。
重みが消えた半身が少し寒いと感じたのは、痺れているからだろう。
曲がり間違っても、男の温もりが去ったせいなんかじゃない。
何故なら、その証拠にとでも言うように。背中に流れてきたその声に、物理的にではなく精神的にドッと身体が重くなり、更なる疲れがオレを襲ったからだ。
「……どうぞ、お気をつけて」
じゃあ、さっさと戻れ。ワープでもしろ。何なら、蹴り返してやろうか?
今なら無力なオレにも、どこでもドアくらいは念力で出せるかもしれないと本気で思う。
心底から、男の宣言に同意し、その実行を希う。勝手に去れ、と。
だけど。
オレから身体を離したといっても木に凭れたままの男に、呆れ半分嫌味半分で思わず冷めた言葉を零しはしたが。
さっきの今で、相手は酔っ払いだとオレは最大級の親切心を発揮し。固まった上半身を伸ばすついでに振り返り、「……ひとりで大丈夫かよ?」と言ってやる。
帰り着くまでにまたどこかで寝れば、今度こそ風邪を引くのは確実だろう。ここまで構ってのその結果は、なんだか面白くない。だったら、最初から気にせず、さっさと見切りをつけ放って置けばよかったというものなのだから。
「誰か呼んできてやろうか?」
男の拘束がなくなった今ならば、トラ公に頼まずともそれは可能だ。どこに誰が居るのかは知らないが、適当に回ればどうにかなるだろう。
なにせ、対象は王様なのだから、伝えれば誰もが速攻で動いてくれるだろう。たとえ、寝ているところを起こされたとしても、不機嫌にもならないに違いない。
そのつもりでオレは軽く声をかけ、ちょうどトラ公に置いていた手を利用し、よっこらしょと硬くなった腰をあげる。
が。
「必要ないと言っている」
背中に向かってきたのは、そんな可愛くない声で。構うな、と続いた言葉に今朝の事を思い出し、我慢などするよりも早く、反射的に舌打ちを落としてしまう。
だーかーらー! なんで、この男はこうなんだよッ!
「…だったら、オレの前で、構わなきゃならないようなことをしてンじゃねーよ」
ナニ偉そうにしてンだ、酔っ払い。国王が地べたで寝ていて、構うなも何もないだろう。
そんな事もわからないのかよ!? そこまで横暴なのヤツなのかよ!?
「ひとりで帰れるのなら、さっさと帰れ。今すぐに!」
アンタがちゃんと部屋まで戻らないと、オレの寝覚めが悪くなる。このまま放っていったら、後々、王様が困っているのに見捨てたのか!なんて言いがかりが付くかもしれない。構われたくないのならばしっかりしろ。
そんな言葉を吐き落とし、ぞんざいな仕草で、顎を使ってオレは帰路を示してやる。
犬に命令するように、行け!と。
「…………」
……なのに、だ。
オレの不快感も露な態度など、微塵も気に掛からないようで。
ほんの少し首を傾けた状態で後頭部を木に押し付けている男は、そのままの姿勢で上目遣いにオレに視線をあてたまま、動かない。今さっきの、虎と一緒だ。
ったく、どいつもこいつも、反応がクソ面白くない。
無言で、視線だけで、相手が意を汲み取ってくれるなどと思うのは、大間違いだと誰かコイツらに教えてやれってものだ。
「…無視かよ、オイ。それとも、また寝たのか?」
眼を開けたままとは器用な事で、と嫌味を返せば。
「…寝てなどいない」
肩を揺らしながら大きく溜め息をついた男が、漸くボソリと言葉を返した。
そして。
片手を少し動かす仕草だけでトラ公を傍らへ呼び寄せながら、「…どういうつもりだ」と掠れ気味の声で問いかけてくる。
どういうつもりも何も。だから、これはアンタの愚考によっての必然だ。オレだって別に構いたくないんだよ、と。
返したところで聞いていないんじゃないかと、また寝るんじゃないかという気持ちから、投げやりに近い言葉ながらも丁寧に、問いに対する答えを返してやったのだけど。
「お前、ここが嫌いだろう」
「は?」
言いたいことを言ったオレが口を閉めて、数秒後。人によっては考えているのかと思うような表情での沈黙だが、この男の場合、酔いで思考が鈍いだけなのだろう反応の悪さを発揮した後で。
何にどう繋がるのかわからない言葉を向けられる。
嫌いも何も、ただの庭に何があるというのか。ここは、地面の下には人骨が埋まっているとか何とか、人に避けられるいわくつきの場所なのか?
どうしてこの男を構う羽目になったのかを説明しただけなのに。マジで、何をどんな風に処理して、そんな断言をしているのか。呆れよりも驚きをもってマジマジ男を見下ろすオレに、再び言葉が飛んでくる。
「逃げ出さないのか」
…………いや、そもそも、オレ自身は嫌いだとは言ってないだろ。何故、逃げなきゃならない。
そんなに、ビビらなきゃいけない場所なのかよ?
「……いや、何があるのか、オレは知らないし…」
っつーか。だったら、お前はどうなんだ。座り込んでいて大丈夫なのかよ。
別に、ホラーが苦手なわけじゃないけれど。好きでもないので、態々関わりあいたくない。妙な話であるのならば、もうコイツを放置して帰ろう。
よし、そうしよう、と。一応、用心のためクルリと周囲を見回し、視線が男へ戻ったところで、「どういう意味だ」と真剣みを帯びる声で聞かれた。
復活の兆しになるのか、強めのそれにちょっと気圧されるも。そんな様子は微塵も見せたくないので、「アンタが言ったんだろう」とオレは顔を顰めてみせる。
「オレが嫌がって逃げなきゃいけない何が、ここにあるっていうんだよ」
「……お前は、俺が嫌いだ。そうだな?」
「……ナニ話を変えてンだよ…」
「この世界に来た事に納得などしていない」
「…おいおい、また無視かよ」
「その中で、自分で掴んだ居場所があった。なのに、引き離された」
「…………まだ酔っているのか?」
「二度出来たのならば、三度目を実行するのは難しくないのだろう」
「…だから、何の話をしているんだよっ」
帰るタイミングを失くすのをわかりつつも、付き合った会話は全く噛み合わなくて。
しかも、その発言がなんだか聞き捨てならないものであって。
いい加減、痺れを切らして怒鳴り半分で声を荒げてみれば。
「この王城から出て行かないのかと聞いている」
「…………。…………」
たっぷりと時間を掛けて、オレは、向けられた言葉を理解した瞬間に噴き上がろうとした感情をなんとか押さえ込み。何度か、その問いを頭で繰り返し、捏ねくり返して、ひとつ深い息を吐く。
成る程。うん。
つまり、だ。
先程の問いは、そう言うことか。ここが嫌いの、「ここ」は、この庭ではなく、王城のことだということだ。どういうつもりだというのも、牢屋からも軟禁部屋からも逃げ出したくせに、今は何故留まっているんだということか。
だったら、もしかしたら、その前の。ミサンガをぶっ千切ってくれた時にブツブツ言っていた問いも、こういうことだったのかもしれない。
だが。
そんな事は最早、どうでもいい。わかるように言えなどと酔っ払いに言ったところで意味はなく、そもそもこの男はいつもこんな感じだ。仕方がない。
むしろ、それよりも。
当然だが、重要なのは言われている内容である。
要約すれば、気に入らないのに出て行かないのは何故なんだ?という、この数日のオレに対するツッコミであって。それをしてくれているのが、オレをここに繋いだ相手というのは、どんなに考えようが、妥協できる部分はない話だ。
だったら。俺の対応はひとつしかない。
純粋に言っているのならば、じゃ出て行くわ、で退散するけれど。そんなわけがあるはずもなく。ならばこれは、オレに対する挑発みたいなものだ。
「それは、アンタはオレにここから出て行って欲しいと、そういう事だな?」
そもそも問われるような話でも、関係でも、状況でもない。事態は、ひとつの事実だけしかない話だ。
ならばコレは、嫌味か、遠まわしな通告か。そういった類だと判断し、確認のためというよりも、反撃の前段階として言葉を選びオレは落としたのだけれど。
「…そうは言っていない。ただ、わからないから聞いただけだ」
あろう事か、酔っているのが免罪符にでもなると思っているのか、王様はそれを素直な感情とでもいうように、純粋さを押し通す気のようで。
居直るようにではなく、確かに、理解できないと言った困惑が滲んでいた。
それでも、純粋に問う疑問の声とは違う硬さもあって、オレが感じるのは不審や不快ばかりだ。
「今更、何を…」
「俺には、お前がわからない」
言葉と同時に視線を落とし、傍らのトラ公を一瞥し、瞼を閉じる。
「わからないのは、酔っている今だからだろう。バカなこと言っていず、帰れよもう」
「何故、お前は…」
「……なんだよ」
「……」
「……」
闇に解けるようなほどに擦れた声は、深酒が原因でしかないであろうに、何だかとても深刻そうな響きをさせていて。
続かなかった言葉が、まるで苦しみに押しつぶされたように聞こえて。
オレもまた言葉をなくし、途方に暮れかける。
マジ、何なんだこの男は……。
嫌なヤツだなんだのと切り捨てていないで、リエムにもっと、上手い扱い方を聞いておくべきだったかもしれない、と。攻撃されれば反撃するが、微妙なコレはなんなんだと。心底、オレは今までと違った意味で男をもてあます。
性質が酔っ払いは今までも相手にしてきたけれど、コレは最強だ。酔ってもこの男は、最悪だ。大人しく寝ていてくれた方が良かった。トラ公が誰も呼んできてくれなかったのを、心底から恨みたくなる。
人も気も知らないで、酒が辛いのか、マジでオレの行動に悩んでいるのか、何なのか。軽く眉間が寄った端正な顔を捉え、オレは視線を横に移して、白い獣に念力を送る。
これはお前のせいでもあるんだ、暢気に座ってんじゃねえぞ虎!
トラ公! もう、首でも何でも、噛み千切る勢いでも止めはしないから。
ご主人様を連れ帰ってくれ!
2011/03/06