君を呼ぶ世界 181


 失敗しようが、腹立たしかろうが、負けようが。
 なかった事になど、出来ない。しない。

 アレコレ言い過ぎたと思わないこともないので。これは文句ではなく、前向きに事態の改善策としての発言なんだ、と。多少の白々しさはるが、仲良くする為に話し合っているんだろう?と、そう言ってみれば。
 そのちょっとした冗談は全く通じず、男は理解不能者の烙印を押してくれた。
 まあ、確かにオレも、無茶なボケだとわかりつつかましてしまったわけで、やっぱりダメか…なだけなんだけど。
 それでも、遊び心がないそれに、ついつい自分の無謀を横に置いておいて。話の流れをわからないのは酔っ払いだからだと、呆れて見せて、強気を崩さずに責任転換を図ってみれば。
 流石に、誤魔化されはしないらしい男が、睨みつけてきた。
 だけど、小芝居を打った手前ここで匙を投げるのも、竦まされるのも腹立たしく、気付かぬふりでトラ公に視線を戻し、軽く尖った耳を指で挟むようにして弄ってやる。
 うん、トラ公。お前は、オレが頼んだとおり噛み付かないなぁ。偉いエライ。それに比べて、お前の主人は全然人の言うことを聞かないなぁ。
 さっきの、ガブリッ!な首への噛み付きは、止めるべきじゃなかったのかもしれない。
 いつか、オレの方が首を閉めあげたりするのかも、と。現実逃避気味に妄想したところで、ふと思い出す。
「あ、それはそうと。こいつ、名前なんていうの?」
「……。…………ない」
「……子供じみた意地悪言うなよ、大人気ない」
 歩み寄ってはいないが、殺伐とした険悪ムードでもなかった空気を取り戻すために。ボケを外した責任を取って、当たり障りのない話を向けたというのに。
 オレの努力を踏みにじるよう、睨みを弱めつつも愛想なく、会話を遮断させるような返事をしてくれた。マジで、締め上げ揺さぶってやりたい…もしくは、ハリセンでバチッと一発後頭部を叩いてやりたい気分だ。
 なので、つい。反射的に。
 低い声で、だからそう言うところが嫌なんだと、さすがに手を上げるのは我慢したが口までは止められず、真正面から不満を向ける。
「たかが動物一匹の名前で、ケチくせぇ」
 ホント、アンタってクソ面白くないよなと。おチャラけるわけではないけれど、多少は道化のようにボケたりして何とか会話を維持していた自分の努力が、なんとも空しい事態に変わるような発言にカチンときたというか、なんというか。
 そんな事言わずに教えろよと、軽く笑って言えばいいだけのことだと思いつつも、嫌気交じりのため息とともに、穿き捨てるように言ってしまう。
 どこかで、瞬時に己の失敗を悟り、こうなったら仲良しムードに持っていくのではなく、やはり最低限の改善を求めて真面目に交渉しておくかとさえ思いもするが。
 実際には、現実なんて思うように行くわけがなく。
「……って、悪い」
 一瞬放った鋭い視線を、見透かすような静かなものに変えてきたそれに、頭の片隅の計算なんてものは意味はなく。不服はあれど、大人気ないのは自分も同じだと、先程の自身の発言を省みて、これまた反射的に謝罪を口にする。
 ……いや、もう、訳がわからない。何だコレ、だ。謝ってんなよ、オレだ。
 でも、沸いた怒りは腹の中で勝手に消えて、その名残が気まずさを生んだのだから仕方がない。
 男との距離が上手く取れない不確かさが、オレの心をも揺らがすようだ。嫌いな男と不可思議な事態になっていて、どんな態度を取ればいいのか、一瞬一瞬でわからなくなり、決めかねて。なんだか、無様に踊ってしまう。
 自分でも、この男とどうありたいのか、わからない。
 そもそもこの男の思考回路は謎過ぎる。何故怒るのかだとか、何故話しかけてくるのだとか、何故酔って彷徨っているのだとか。何を考えているのかホントわからないし、見える態度も何故そうなるのかわからない。怒ったり睨んだり、不貞腐れたりしたかと思えば、困ったように口を閉ざす。オレなんかに、迷いを見せる。
「今のは、ヒトコト多かった…ゴメン」
 そもそも、何度も繰り返すくらいだから口先だけではなく、こいつがオレの事を考えているのは本当だろう。それなのに、茶化したのはオレだ。王様相手だとか関係なく、言い過ぎたのは確かだ。こっちがふざけておいて、名前ひとつ秘密にされたくらいでフテるのもないだろう。
 非まであるとは思わないが、折角の雰囲気を壊すきっかけを作った気まずさに、再度謝りながらオレは男から視線を外す。
 何がそんなに相手の気に触るのか判らない歯がゆさもあるが、それ以上に、自分の不手際がなんだか情けなくて。
 オレってダメだなぁと、反省しながらふかふかの毛並みの中に指を立て、トラ公の耳の後ろを掻いてやる。心底、お前のご主人さまは難しいヤツだなと、胸中で語りかける。
 だけど。
 最近良く思っている気がするが。こうして上手くいかない時に。言葉ひとつで変えてしまう時に、考えはそひとつの事実へと向かう。
 この男とリエムは上手くやっているのだ、と。
 たぶん、ラナックとも、と。そして、弟のハム公だって、兄であるこの男を慕っていると。
 オレには見せない、見えない一面がこいつにはあって。それが、周囲に王として認めさせているのだろう。少なくとも、今夜こうして、酔っているとはいえ怒っているばかりではない、歳相応の顔を見て。オレの王さまに対する認識は、良くも悪くも変わり始めている。知らないそれなど関係ないとさえ思っていたが、こうして見せられたら、無視は出来ないものとなっている。
 オレが考えるように。ほんの少しだけだとしても。それが好意なんかじゃなかったとしても。この男は確かに、オレのことを考えているのだ。わからないと、本人に言うほどに。
 オレが思い描いていたような男ならば、酔っていてもそんなこと、その矜持がさせていないだろう。
「……あのさ、」
「聖獣に名前はない」
 リエムが言っていた、王がわざと強い態度を取っているというアレが何割かは本当であるとして。今のこの不確かな発言と、不安定な態度を見れば。
 それが、とても100パーセントの近さであるように思えてしまい、改めて何を考えているんだと疑問が募る。
 それが本当だとしたら、更なる怒りがわくだけだと思ったが。ただただ、この男はオレに嫌われ何を求めるのかと思う。気になる。
 リエムが言うように。理不尽を身に受けた者には、恨む相手が必要なのだと本気で思ってのことなのだろうか。
 それは、自分がそう思ったから、自身の体験から、導き出した答えなのだろうか。
 今までの、オレに対する不満を演技だとは思わない。だけど、神子を望んだわけでもないのに、恨まれ役を買おうとするそれは、意思なくやれるものではないだろう。
 現に今、酔ったこの男のそれは、崩れている。
 今更だけど、ここに来て。こうして手探り状態ながらも遣り合っている事の意味を、見えそうな何かを意識して。オレは、色んなことをもっと考えなければと、何ひとつ見落としてはならないのではないかと、この瞬間の重要性を感じ取って。
 焦るような、興奮するような。身体の奥底から震えだし湧き上がる何かに押されるよう、それを言葉に仕掛けたのだけど。
 開いた口はそのままに、落とした音に重なるよう向けられた言葉に、間も置かず「はぁ?」と声をあげてしまう。聞かなければと思ったことがすっ飛ぶほどの発言であるわけではないが、意外であることに変わりはなく、当然食いついてしまう。
「ないって、どういう事?」
「昔から、神の獣に人間が勝手に名を付けるなど不敬とされている」
「……じゃ、何て呼ぶんだよ?」
「聖獣は、聖獣だ」
「……」
 ……確かに、言われてみれば、みんな聖獣さまと呼んでいた。だからこそ、オレは名前を知らず、こうして聞いたのだ。
 だというのに…何だこのオチは。
「そんなものなのかよ…」
 釈然としない思いはあっても、この世界の人間が言うのならばそれしかなく、それが正しいというものなんだろうけれど。だけれど、何に対する不敬かと、呆れもして。
「でも、人の言葉がわかるヤツにそれって、なんか寂しいな。逆に、聖獣は聖獣としてしか見ていなくて、こいつ自身を見ていないみたいで、礼儀に適っていない気もするけどな」
 そう、つい嫌味っぽく、変だと言い切ってしまう。
 でも、だって。名前って、情のひとつみたいなものだろう? 欲しくないか?
「お前がそれで気にしていないのなら、オレが気にする事じゃないんだろうけど…どうなのよ?」
 オレは心の中で『トラ公』と呼んでいるけれど。それをもし口に出したら、怒られるらしい。…まあ、そもそも褒められた渾名じゃないのだけれど。
 でも、その習慣は薄情に思えると。同意を求めるように、お前だってお前だけの名前があってもいいと思わないかと。大人しく撫でられているトラ公に同意を求めるよう口にすれば。
「ぅわッ、なに?」
 チラリと、トラ公の視線が横へ流れたのを追い、顔を上げたところへ。
 視界を覆う闇が目の前で広がり、続いて、重い何かがオレに圧し掛かってきた。主に、顔面に。
 何だと一瞬驚くが、腕で引き剥がし下ろしてみれば、なんて事はない。男が被っていた、トラ公が持ってきた毛布だ。
「……え? …いやいや、オレはいいよ。アンタが着てろ」
「必要ない」
「…でも、王様に風邪を引かれたら、オレが怒られるだろう」
「俺の不調が、何故お前の罪になる」
 なるわけがないと、怒っているような呆れているような…オレのその心配を取り除こうというのではなくただの事実を口にしているのだろうけれど、それ以外の何かも含んでいるような響きでそう言った男が、意外にしっかりとした動作で立ち上がる。
 そこまで言い切るのならば遠慮はしないと、ほんのりと温いそれを肩にかけながら見上げたオレは、「戻るのか?」と、一応確認をする。
 が。
「…名前とはいえないが、聖獣をその都度好き勝手に呼ぶ奴はいた」
「居たって…フィナさん、とか?」
「お前は、フィナを本当に恨んでいないのか」
「……」
 戻った話に、何となく強い意味を感じ、考えるよりも先に核心めいて放った言葉には、また答えは返らなかったけれど。
 見下ろしてくる目が、怖いほどにまっすぐで。
 男の問いに、とっさにイエスとは言えず、オレは視線を下げる。
「あ…、ちょ…ッ!」
 落とした視界の先を、脳が処理するよりも早く。傍らをすり抜ける存在に、焦りだけを覚えて反射的に声をかけるが。
 引き止めたオレは、けれども、数歩離れて立つ男を振り返り見た瞬間、何を言えばいいのかわからなくなって。
 散々言った、フィナさんを恨んでいないというその発言が、本当に正しいのかすら見失ってしまったかのように、オレの中からは何も出てこない。
「……あの、…いや、その…」
 ラナックか奇人に聞いたのだろう男の問いは、疑いではなく確認だとわかったが。いま、肯定せねばどんな印象を与えるかも、考えなくとも明白だったが。
 求められるものを返す何かが、今のオレにはなかった。
「……ごめん」
「…………」
「……」
 吐き出せたのは、何も言えないことへ対するそれだけだった。
 それなのに。
 王は身体ごとオレへと向き直り、オレを見て。まるで、それ以外の言葉を待つように沈黙を作って。
「長く付き合わせた」
 静かにそう言い、今度こそ立ち去った。
 それって、悪かったという意味なのか…?
 そう、意外な言葉に呆然している内に見えなくなった姿は、発見した時の不安定さはない足取りで歩んでいて。
 何故かとても、自分ひとりだけ置いてけぼりを食らったような気分になった。

 夜が明けても、今夜のやり取りがあの男の中に残っている事を。
 オレは毛布を握り締めながら、切に願う。


2011/05/05
180 君を呼ぶ世界 182