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□ 春 □

 ふとした瞬間、あいつの事を思い出す。その過去に囚われる事は今はもうないが、それでも思い出は一気に溢れ出し身を委ねてしまう。たとえ過ぎ去った月日であったとしても、偽りではないから。俺はあいつを想うのをやめはしない。
「今年も、もう桜が散るんだな」
 唐突な言葉。けれども全てを知っているとでもいうように、側の男は静かに応える。
「そうですね。早いものです」
「…あぁ、早いな」
 何が早いのか。なんて事はどうでもいいのだ。ただ、あいつを知る者が側に居る事実に救われる気がする。だから俺は、素直にあいつを想う事が出来る。
「無性に会いたくなった」
「仕事、して下さいよ」
 淡い色をした花びらが舞う中、彼は逃げませんよ、と堂本は笑う。わらかないぞ、と俺は言い返しながら、花吹雪に目を細める。

 お前と出会った季節が今年もまた来たよ、マサキ。

2004/04/12








□ 陽の光 □

 新緑の季節を迎えたと思えば、気付けばひとつ歳を重ねており、早くも夏を感じている。
 いつも、季節の流れをじっくりと味わう間はなく、過ぎた後で漸くその事に気付くばかり。その度に今度こそはと思うのだが、それもまた毎度の事で苦笑の一つもでてこない。
 だが、これが生きている証なのだろう。俺の場合は特に。
「今年の梅雨は短いらしい。この夏は水不足になるだろうか」
「多少困るとしても、雨が多いより、私はその方がいいですね」
「何故?」
「雨も悪くはないですよ。だが、それ以上に晴れの方がいい。それだけです」
 単純な答えで済みませんと苦笑を零す男に、俺もそうだなと笑い返す。多分、誰もがそうだろう。
 星空の下で、朝靄の中で。闇夜の静寂で、夕焼けに染まる朱色の部屋で。雨の寒さの中で、強い風が吹く街で。色々な場所での彼の姿が俺の中にあるのだが。
 陽炎の様に消えそうに揺らいでいたとしても、陽の光の下で見た彼の姿が、一番鮮やかに記憶に残っている。
 それは何故かと問うものではなく、ただそういうものなのだと言うだけ充分なものなのだろう。
 眩しい太陽を見上げた俺を、堂本が静かに笑っていた。

2004/04/26








□ 不戦敗 □

 呼べないかわりに、手を叩く。パシリと響いた音に、ゆっくりと男が振り返る。
「猫みたいだな、お前。そう静かに入って来るなよ」
 小言をいいつつも、僕を認めた途端、それまでの堅い表情を崩し笑みを浮かべる。それこそまるで、犬のよう。
 僕は決して忍び込んで来たわけではなく、至って普通に部屋に上がって来たのだ。集中し過ぎ周りに疎くなっていたのは自分だというのに、なんて言い草だろう。腹が立つ。
 だが、それでも。
 それでも、向けられる笑顔が嫌いではないから。他の者にはそう見せないであろう、無防備な姿がどこか微笑ましくもあるから。無邪気な笑いに、反論はせずにただ肩だけを竦めておくだけにする。
 僕がこんな風に妥協をしている事を、この男は気付いているのだろうか。
 なんとも健気なものだと自分を嘲笑い、そうして僕は全てを許す。

「おかえり、保志」
 ご機嫌な男に負けるのは、この場合仕方がない事なのだ。

2004/05/05








□ 夕闇 □

 ビルの向こうに太陽が沈み、今日もまた昨日と同じように夜が来る。
 夕闇の中、暗い夜の過ごし方を忘れた俺は心を震わす。まるで怯えるかのように。
 情けない。辛い。その思い以上に苦しくて悲しくて。暮れて行く空をただ、子供のように眺める事だけしか出来ない自分を消してしまいたくなる。
 だが、それを実行する勇気もない。
 だから卑怯にも、俺は願う。それに縋る。醜くとも、自分の為に彼を利用する。

 早く帰って来い、荻原。
 馬鹿な事を言って、俺を呆れさせてくれ。疲れさせろ。

 もう二度と、他の事を考えられなくなるくらいに。

2004/05/07








□ 傷 □

「何をしている?」
 そう問い掛けると、背中を向けていた青年がゆっくりと振り返った。
「別に、何も」
 白けたような表情を見せ、直ぐに顔を戻す。
 お前には関係ないと言っているその背中に近付き、俺は後ろから彼の手元を覗き込んだ。半ば予想した通りの光景が目に飛び込んでくる。
「…どこが、何もないんだか」
 どうやってそんな怪我をしたのか、青年の両手は傷だらけだった。まるで子供が転んだかのように、擦り傷から血が滲んでいる。
「そんな傷を作るとは、器用だな」
「うるさい」
「だが、手当ては下手糞だ」
 不器用だと笑った俺に、「黙れ」と低く唸る。
 けれど。
 貸してみろと消毒液を奪い骨ばかりの手首を掴んでも、青年は抵抗しなかった。仏頂面で睨むようにただ手元を見ている。
「大人しいな、腹でも空いたか?」
「無駄な事はしない」
 簡潔な言葉に、なるほどなと俺が真面目に頷くと、青年は文句を言う代わりに眉を寄せ顔を顰めた。しかし。
「悪い、助かった」
 処置を終えるとぶっきらぼうながらにもそう言い、着替えてくるからと部屋を出て行った。俺はその姿を見送る事しか出来ない。
 痛々しい彼の手の傷が、脳裏から消えない。離れない。

 お前は何をそんなに苦しんでいるんだ、マサキ。

 口には出来ない叫びが俺の喉を傷付け、彼と同じ赤い血を流す。

2004/06/06








□ 確信犯 □

 猛暑の近づきを感じさせる7月の朝。梅雨は昨日で終わりなのかもしれないと、夢現で無意味な事を真剣に考えている時、何の前触れもなく脇腹に衝撃が襲い掛かってきた。
 寝ぼけた思考など瞬時に吹き飛び、重く痺れる腹を片手で押さえながら飛び起きる。声が出なかったのは極度の緊張からであり、決して襲撃者に配慮した訳ではない。だが、ベッドの上に体を起こし静かな室内と傍の確かな温もりを確認し、己の身に起きた事を全て理解した時は、情けない声を上げずに済んだ事に胸を撫で下ろした。
 もしも、凶器が刃物か何かであれば、確実に彼岸を見たであろう。鈍い痛みを訴える腹を擦りながら、無自覚な犯人を見下ろす。暑いのだろう、軽く眉間に皺を寄せ、布団をベッドの下に落としているせいで惜し気もなく肌を晒す青年が寝息を立てている。
 疲れを溜め込んでいる時の恋人は、眠りが浅いのか深いのか、やたらに寝相が悪い。男だからかその性格からか、本気並の蹴りやパンチが飛んでくる。今のところは何とか無事だが、このままではいつかその内、俺は怪我を負わされるのかもしれない。
 けれども、一緒に夜を過ごせられるのは限られているので、俺は疲れているとわかっていても、我慢出来ずに恋人をベッドに連れ込んでしまう。だからこれは、そんな鬼畜な自分が受けるべき罰であり、文句など言えはしないのだろう。
 俺はそう納得しながら、リモコンを操作しエアコンのスイッチを入れる。少し考え、わざと低めの設定に。
 暫くすると、汗が冷えてきたのか、保志が猫のように体を丸めた。その上に布団をかけてやりながら、起こさないようにそっと抱きしめる。抱き枕には少し大きいが、腕の重みに満足し、俺は目を瞑る。
 次もまたこの恋人に起こしてもらう為に短い惰眠へと落ちるのは、眠る以上の安らぎと、その先にある確かな幸せをこの手に得られるからこそである。

2004/07/05



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