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□ 聖夜に響く音 □
クリスマスだからと言う訳ではないが、運良く仕事を早く切り上げる事が出来帰ってみると、玄関で保志が待ち構えて居た。さすがの恋人も人恋しくでもなったかと口許を緩ましかけ、そうではない事に気付く。付き合う内にわかるようになった、僅かな表情の変化。不機嫌そうに見える顔は、何故か緊張しているかのように強張ったものでもあった。
「どうした?」
悩んでいる素振りはないので放っておいたのだが、遂にキレたか?
思わずそう考えたのは、本格的に音楽で食べて行く為に色々とやっているようだが、それが必ずしも巧くいっている訳ではないようだったからだ。恋人は自ら相談にくるタイプではなく、聞いてみたところであまり語りもしない。
有無を言わさない勢いで居間のソファへ座らされる。何だとの問い掛けは無視されたが、楽器ケースに気付きぼやきを飲み込む。
そこで聴いていてくれと言うように保志は一度俺と視線をあわせ、演奏を始めた。この半月程触っているのを見なかったが、やはり恋人にはその楽器がよく似合う。
短い曲を一曲吹くと、感想を求められた。正直、何かを掴み上手くなったのか、ブランクの為下手になったのか、音の違いなど全く分からない。だが。
「お前のサックスはいつでも聴いていたいと思う。俺にとっては、お前の音は声みたいなものだからな」
それはとても心地良いものなのだと伝えると、保志は暫く考えるように視線を伏せ、顔を上げた時には笑みを浮かべていた。
俺の言葉が役に立ったようには思えないが、機嫌が治った事に調子に乗りもう一曲リクエストをする。
保志が吹いたのは、何年か前に流行ったクリスマスソングだった。先程とは違い楽しげなその表情に少し嫉妬をしたが、心地よいと言った手前、演奏を止めさせることは出来ず歯がゆさを覚える。それ程に、恋人は吹く事に夢中に見えた。
大人気ないと分かりつつも三曲目を吹かさなかったのは、ただの我が儘でしかなく。そんな俺の心の狭さに気付いたのか、唇を重ねたまま、保志は低く喉を鳴らして笑った。
とても、楽しげに。
2004/12/24
□ 彼が聴く声 □
サックスが嫌いになった訳ではないが、吹く気にならず触れる事もしなかった三週間。禁断症状が出ないのを良い事に、僕は自分の音から遠ざかった。
今まで吹きたいように吹き、それを認めてもらって来た僕にとっては、商業としての音楽が今一つ分からない。教えられるその言葉の意味は理解出来るし納得も出来るが、とても自分が実践する事など不可能なもので、辟易する事もしばしばだ。考えれば考える分だけ、サックスを吹く事が面倒になり、必要としなくなった。
結局は趣味以上にハマっていた訳ではないのだと、離れてみるとそれが良くわかり、吹かないという選択肢を僕は見つけた。
だが、しかし。
それは、今まで応援してくれた人達を馬鹿にしたかのようなもので、自分自身でもふざけた結論だと思う。意味のない悟りだ。
では僕にとって、自分の音とは何なのか。息を吹き込めば勝手に出て来るそれに思い入れは少なく、答えなどあまり分からない。ならば。聞く者にとってはどんなものなのだろうかと、僕は久し振りに音を響かせてみた。
帰宅早々突然捕まった男は、けれども文句を言わずに僕の音を聴く。この男は今どんな感情を胸に抱いているのだろうか。耳を傾ける男を見ているうちに、それがとても知りたくなった。
「俺には音楽の善し悪しはわからない。だが、お前のサックスはいつでも聴いていたいと思う」
一曲吹き終わった後どうだと問うように視線を向けると、筑波直純はそう答えた。
それは何故かと、僕は続けて問いかける。
「俺にとっては、お前の音は声みたいなものだからな。こめられた想いが読み取れる程音楽に精通している訳じゃないから偉そうな事はいえないが、お前の音は聞けない声のような気がする。俺にはとても心地良いものだ」
なるほど。そういう捉え方もあるのか。
音の色など二の次な、そんな聴き方もあるのだ。少なくとも、この男はそう感じている、思っている。ただ聴ければ良いと、そう。
思わず零れた笑いと共に、胸のつかえも吐き出た気がした。自分もこの男と同じように、ただ吹ければ良いのだと、それが一番の重要点だったのだと思い出す。悩んでわからないからとサックス自体から遠のくなど馬鹿げているのだ。
所詮、吹き手と聞き手の全てが同じ感性を持っている訳ではなく、また同じ知識や望みを持っているわけでもない。語りかけてくる音を好きな者もいれば、何の色もないただの音を好む者もいるのだ。それは吹き手である僕も同じ。
男が好むのは音の質でも中身でもなく、僕が生み出すそれであり、多分ひどい演奏をしたとしても受け入れてくれるのだろう。
そして。
僕はそんな男の為に音を響かせたいと強く思った。それが一時的な感情だったとしても、今はそれだけで充分で。
男がもう一曲とリクエストしてきたのを良い事に、僕は明るい曲を選んで演奏を再開した。結局、早くも男の為にではなく自分の為に吹いているなと思いつつ、けれど響いた音がとても心地よく満足する。もしかしたら今のような音をこの男はいつも聴いているのかもしれず、それが僕の声だと考えると少し気恥ずかしくなりもした。
「保志…」
不意に引き寄せ男が贈ってきたキスを何故か僕はご褒美だと感じてしまい、これが貰えるのなら多少の恥ずかしさには目を瞑り、また僕の声を聴かせよてみようと思ったりもする。
少し馬鹿げてはいるが、それを実行しても、多分きっと筑波直純は笑うはずだ。
そんな惚けた考えに気付いたのか、男の眉間に皺が寄り、僕は唇を重ねたまま喉を鳴らした。
2004/12/28
□ 新しい年 □
「明けましておめでとう。今年も宜しく」
お帰りと言った後に続けたその挨拶に、コートを脱ぎかけていた氷川さんは手を止め目を見開いた。
「ナニその顔。三日遅れだけど、別におかしくないだろう?」
何を驚いているのかと肩を竦めると、「別にそんなんじゃない」と軽く頭を振り深い息を吐く。
「おめでとう」
擦れ違う間際に返ってきたその声には、疲労が色濃く滲んでいた。大晦日の夜に呼び出され、三日間着替えにさえ帰って来ずに深夜の帰宅なのだから、疲れているのも当然だろう。
だが、それを差し引いても少し変だ。
そう気にもなりはしたが、さすがに訊くのは憚れ、俺としては放っておくしかない。
しかし。
「まだ寝ないのなら、少し付き合ってくれないか?」
そのまま休むのだろうと思っていたのに寝室から出て来た男は部屋着に着替えており、台所に向かいながらそう誘ってきた。俺が返事をする前に、日本酒と小さなグラスを二つ持ってやってくる。
「仕事はどうだ?」
「何とかやってるよ。思った以上に忙しくて大変だけどさ」
「そうか」
「あぁ、そうだよ。それよりさ、あんた寝ないの?疲れてるんだろう?」
「疲れ過ぎて、酒の力を借りないと寝れそうにない」
クイッと顎を逸らし酒を飲み干す仕種が彼らしからぬ乱暴さで、つい俺は笑いを零した。
「オッサンみたいだな、あんた」
「みたいなんてものじゃなく、俺はもう十分にオヤジだよ」
「あぁそうか。そうだな、失礼」
「……本当に、失礼だなお前は」
一瞬の沈黙後、二人で笑い合う。
どこかいつもと違う男の砕けた言葉や雰囲気に酔った俺は、漸く心の緊張を解いた。
家主が居ない部屋で独り過ごした三夜が思いの外長く、自分には堪えるものであった事を、彼の笑い声で俺は知った。
2005/01/04