□ 7 □



□ 幸福 □

 筑波が目を開けると、恋人の頭がそこにあった。
 あともう少し目覚めるのが遅ければ、頭突きを食らっていたかもしれない。
 時たまだが、保志は確信犯かと疑いたくなるような寝相の悪さを発揮し、攻撃を仕掛けてくる。確率にすれば、おとなしく眠る方がはるかに多く、もしかしたら一割にも満たないのかもしれないが。その一割未満の攻撃が、睡眠という無防備な一時に加えられるとなると、数の問題ではなく質に対し重きを置いてしまうと言うもので。
 ただの寝相とは言えない恋人のそれを警戒するのは、当然である。
 筑波は意識するよりも早く身を離し、体を起こした。捲れ上がった掛け布団が、恋人の肩を覗かせる。白いそれを数瞬眺めた後、寒いだろうと筑波が腕を伸ばした時、保志が身動きし頭を突っ込んで来た。
 うずくまるように背中を丸めた保志の額に、筑波の指が弾かれる。
「……オイオイ」
 爪があたったぞと髪をかき上げ顔を除き込むと、うっすらと赤い擦り痕が眉間から額に浮かんでいた。親指の腹でそれをひと撫でし、肌が見えないようにしっかりと布団を掛け直してやる。筑波はそのまま両手で保志を軽く押さえながら、額に口付けを落とした。こめかみを伝い、耳から首筋へと辿ったところで満足しベッドから降りる。
 裸のまま寝室を後にし、浴室に向かう。シャワーを浴びながら本日の予定を組み立て、コーヒーを啜りながら電話で幾つかの指示を出す。いつもどおりの朝だ。だが、恋人が同じ屋根の下に居るのと居ないのとでは、何かが違う気もする。
 寝室に戻り部屋着からスーツに着替えても、相変わらず保志は睡眠を貪っていた。筑波は時刻を確かめ、ベッドサイドに立ち恋人を眺める。
 何事にも関心が薄く執着も弱い感じがするこの男が、こうして眠りこけている様子は、単純に凄いなと思う。無欲な男のそれでも確かにある欲に触れられるのが、眠る恋人を見るのが、筑波は好きだ。言葉にすれば、馬鹿だと本人に呆れられるのだろう。だが、それでもこれは特別で。もしかしたら、セックスと変わりない幸福さを与えられているのかもしれない。
「――行って来る」
 次に枕を並べて眠れるのが、三日後か一週間後かはわからないが。それでも起こす気にはなれず、筑波はそう言い置き部屋を後にした。
 額につけたマークに恋人は気付くのだろうかと笑いながら、今日という一日へと足を踏み出す。

2006/05/26








□ 初夏 □

 暑い。今日が何月何日なのか、知らないんじゃないか高気圧よ。まだ少し、出張って来るには早いぞ。梅雨はまだ九州までしか来ていないんだ、もうちょっと待て。それとも何か?お前は今年、本州に恵みの雨をもたらせないつもりか? 何が冷夏だ。現時点で充分に猛暑だ。気象庁は国民をナメているのか。明日の天気すらまともに当てられないのに、見栄を張って出来ない予想をするんじゃねぇ。ここ数年、夏も冬も長期予報はハズレてばかりだろうが!
「怒ると余計に暑いよ」
 ブツブツと悪態を吐いていた俺に、前の席に横座りした名倉が下敷きを団扇替わりにしながらサラリと言った。ペコペコと、赤いプラスチック板が間抜けな音を上げる。その色もその音も、闘争心を煽ってくるものだ。だが、一瞬ムカつき「うるせぇ。お前も暑苦しいんだよ、その長い髪を切れ」と声を上げようとしたが。
「……あぢぃー」
 怒鳴る為に吸い込んだ空気が熱くって…。その不快さに気力を抜かれてしまい、俺は机に突っ伏した。若干だが体温よりも冷たかった机板は、けれども直ぐに温くなる。
「わざわざ今日この日に点検なんてしなくていいのにねぇ、…ア」
「うひゃッ!」
 名倉がふと顔を上げた瞬間、俺の首筋に何かが押し当てられ、突然のそれにおかしな声を出してしまった。その何かがペットボトルを凍らせたものだと悟り、漸く冷たいと気付く。
「な、何だよ…!?」
 驚かされた文句を言う俺に、悪戯を仕掛けて来た千束は涼しい顔で「やる」との簡潔な一言を落としてきた。
「はァ?」
「暑いだろ、要らないか? 名倉もどう?」
「僕にもくれるの?やったー!」
 名倉の喜びに、脇に下げていたコンビニの袋を机の上に乗せ、千束は好きなのを選べよと笑った。袋の中には、中身が固まり少々歪な形になったペットボトルが数本入っている。スポーツ飲料にジュースにお茶に、色々だ。
「どうしたの?」
 レモンウォーターを選び取りながら、名倉が千束に聞いた。
「いや、別に。欲しいかなと思って持ってきただけ」
 どうやら、点検作業の為に冷房が停止する事を忘れずに、この男は連れの分まで冷たいドリンクを用意してくれたらしい。気のまわる奴だと、離れた席に座る仲間のところへ向かう千束の背中を見ながら、俺はシミジミと思う。まるで母親のようだ――なんて褒めても、本人は嫌がるのだろうが、まさしくそんな感じ。
「千束って、大人だよね」
 名倉がボトルの封を切りながら言う。
「兄貴!って感じじゃないんだけど、頼れる兄ちゃんなんだよねェ」
「お前、ジュース一本で魂を売るなよ」
 あいつは前から俺らより年上だろうと呆れると、そうじゃないよと名倉は頬を膨らませた。
「違うよ、もう。年齢じゃなくて、マジな話かっこよくなったと思わない?きっともっとかっこよくなるよ」
「あン?予言か、告白か?ついに暑さで脳ミソが腐ったか?」
 冷たいボトルを額に当てながらからかうと、「立原だって気付いているくせにサ」と名倉は肩を竦めた。確かに、千束は変わった。顔つきや性格がではないので気が付き難いが、ちょっとした時に深みが増したなと思う。本人からは聞いていないが、多分彼女でも出来たのだろう。
 千束は出会った頃に比べれば、中身に芯が出来た。きっと、恋人は本気で守りたい相手なのだろう。名倉の言うとおり大人の男になっていっている感じだ。だが、かっこ良くなるかどうかは、まだわからない。年が上とは言え、まだ俺達と同じ学生なのだから、幾らでも変わるというものだ。
 だけど。
「だったら、俺らも負けちゃいらんねぇ、つーもンだな」
「暑さに負けきっている奴が、ナニ言ってんの」
 折角気合を入れようと発した言葉が、遠慮もなく踏みつけられる。この天邪鬼めがと笑う名倉をボトルで小突くと、それは凶器だボクを殺す気?と首を竦めながらまた笑う。ホントにコイツはもう、どうしようもない。
「お前こそ大人になれよ、ガキ。ヘラヘラすんな、髪を切れ、野菜食え、誰かれ構わず懐くな」
「暑いと説教オヤジになるんだねぇ」
 何を言っても効果のない名倉の向こうで、俺達のやり取りが聞こえていたのだろうか、千束が呆れたような顔で笑っていた。

2006/06/05








□ 黒夜 □

「もしも、さ」
 どこか遠くを見ながら、彼は言った。
「もしも、オレがアイツと切れたら……ここに置いてくれるか?」
 星も月もない空を見ているのか。光りが溢れる街を見ているのか。窓辺に佇み、ガラスに囁き掛けるように呟く。
「お前はオレを扱い切れるんだろうか…?」
 回した首は、振り返る前に止まった。窓から入り込む光りが、彼の横顔に影を落とし、睫を煌かせる。
「…直ぐに、面倒になるんじゃないか?」
「……そうだな、そうかもしれない。だが、違うかもしれない」
「いい加減だ」
「ああ」
「開き直るのか?」
「うん。でも、なぁアキ。お前が今ここに来るのならば、俺はこの手を広げられる。この腕を貸せる。それじゃ駄目なのか?」
 その問いに顔を戻した彼の答えは、背中が物語っていた。それでは足りないのだと。
 だけど、今の俺にはそれ以上のものは与えられないのを、誰よりも彼自身が良く知っている。

 ゴメンな、アキ。
 俺はお前を守る事は出来ても、愛してやる事は出来ない。

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