□ 8 □
□ キス □
「若!毎朝毎朝、何度言えばわかるんだ! 七時には起きて、八時には登校しろ!」
越智は親ではない。
「未だに誰かに起こしてもらうだなんて、恥ずかしくて情けない事だぞ!」
なのに、口喧しい。
「ハンカチ持ったか?ちり紙持ったか?」
越智は友達ではない。
「ゴムは持ってるか? つけずにヤるんじゃねぇーぞ」
なのに、下ネタトークでからかってくる。
「気ぃ付けて行って来い」
越智は恋人ではない。
「――っと、忘れもンだ。ホレ」
なのに、行ってらっしゃいのキスがマウストゥマウスなのはどうだろう。
ボクは常々それを疑問に思っているのだが、問いかけはしない。すれば、ボクの遅刻が確定してしまうから。
「……行ってきます」
今日もまた、流行のちょい悪オヤジのような男の笑顔に見送られ、ボクは玄関を潜る。
そして。
明日もまた、ボクはギリギリに起床して、越智のキスを受けて家を飛び出すのだ。
「トップdeお題」から
□ 花火 □
夜空にパッと大輪の花が咲く。遅れて、腹の奥底にまで響く重い音が届く。
俺の膝に乗る犬の身体が、ビクリと大きく震えた。休憩に入ったのだろう音が止んでも、小刻みに震え続けている。五分もすれば、また大音響の嵐だ。可哀相に。
「プー、大丈夫だよ」
身体を撫でても、いつもは可愛く俺を見上げペロペロと顔や手を舐めてくるのに、今は固まりきったままだ。まるで小さな子供のように、この犬は大きな音が怖くて仕方がない。人間ならばきっと泣き喚くのだろう程に、見事に怯える。
身体を撫で続けたお陰か、若干硬直が緩んだ時、打ち上げが再会されたらしく夜空にまた花が開き始めた。この世は、残酷だ。
「花火、綺麗だぞプー」
再び始まった地獄に、オシッコを漏らしかねない犬の耳を、気休めだが両手で塞いでやる。ついでに、頭からすっぽりと毛布をかけてやる。
可笑しな犬を抱きかかえ、マンションの室内から窓ガラス越しに花火観賞。
ちょっと、虚しくはないが、寂しい侘しい。
恋人の誘いを断り、飼い犬を優先させた俺。自業自得。むしろ、犬に負けたアイツが哀れと言うものだろう。
だけどさ。腹いせに友人達と繰り出さずとも、一緒にここに居てくれてもいいんじゃないか? 確かに夏祭り会場で見るよりは小さいけれど、ここからでも花火は充分に楽しめるんだしさ……畜生。
花火の音に紛れて鳴る玄関チャイムに気付いたのは、恋人に文句を垂れる俺よりも、音に怯える犬の方が先だった。
「トップdeお題」から
□ たいやき □
「なあ、アンタって、頭から食べるタイプ?尻尾から食べるタイプ?」
一匹のたいやきを手に、少年が真面目な顔で問いかけてくる。多分、顔だけではなく、頭の中でも真剣で重要な疑問なのだろう。
「そうだなァ。俺は、口から順番にゆっくりと食べるタイプだ」
ンな事どうでもいいだろうとは言えないので、真面目に答えを返してやる。だが、相手には余り伝わらなかったようだ。
「口?…クチってこれ? あ、よく見るとこいつタラコ唇だ。タイなのに、タラコ。可笑し〜」
つまらない発見がツボに入ったのか、アハハと笑い出した少年の手首を取り引き寄せると、たいやきを奪われると思ったらしく焦り声を出した。
「だ、だめダメ、まだ食べるな!」
「待てない」
「ダメだって、写メ撮るんだから――ンッ!」
力で引き寄せ唇を重ね合わせると、華奢な身体が大きく震えた。
「ン、アッ…!」
「頭からガブリもいいけどさ、美味しく頂くにはまずキスからだろう?」
「あ、ン…ちょっと、ァン! …ヤ、だから、待って…!」
「だからのだからで、待てないってば」
「で、でも…!ね、ゴンちゃん。ボクをたいやきに喩えるなんて、ヒドくない? 絶対ヒドいよ」
「……悪い」
突っ込む箇所はそこじゃないと思うし、全然全く酷くもないと思うが。上目遣いに見られ可愛く首を傾げられたら、謝罪は勝手に落ちるというもので。
「反省して、ね?」
思わぬ不意打ち攻撃を喰らった俺に、少年は満足げな笑顔を見せる。
恋人を食すのがお預けにされてしまったのは、言うまでもない。
「トップdeお題」から
□ 蒼い空 □
一体どれくらい歩いただろうか。ここには時間も距離もない。景色さえもわからない。あるのはただの地獄だ。
足元には人だった者達が横たわり、微かに聞こえる声は、腐臭を運ぶ風よりも弱く、重い。今ここで生きている事は、死を免れたわけではなく、地獄に突き落とされた事を意味するのだろう。
俺はその中を歩き続け何処へ行くのか。自分でもわからない。だけど、足を止めたならば、俺もまた地獄に落ちてしまう。
原形を止めない死体、身体を無くしながらも叫ぶ声、死へ旅立つ呻き。その中に加わっていないだけで、その中を進んでいるのだから、最早地獄に落ちているとも言えるのかもしれないが。そうだとしても、俺は歩く事を止められない。
もしかしたら、彼に会えるかも知れないから。
戦いたくない、誰も殺したくはないと言っていた彼は、今はもう永久の安らぎを手に入れているのかもしれないが。「もう一度会おう」と最後に交わした約束を守るため、俺と同じ様にこの地獄の中で足掻いているのかもしれないのだ。足を止められるわけがない。
腹から下が大量の瓦礫に押し潰された、身体半分埋まった老人と目が合う。
俺だって、本当は誰も傷つけたくはない。けれど、言葉だけではどうしようもない事が、この世には多い。
「……最後の一発は、自分のために残しておきたかったんだけどな」
仕方がないと苦笑し銃を構えると、老人はすまないと呟いた。
乾いた音が消えると同時に、俺はまた歩き始める。空になった銃を、道に捨てる。
ずっと捨てられなかったものを捨てられたからだろうか。パアッと目の前に光りが射した。顔を上げると、俺の眼に蒼い空が飛び込んでくる。
彼の瞳と同じ色の空を見ながら、俺は歩く。何処までも。
「トップdeお題」から