□ 9 □
□ 夕立 □
「かゆい。ヒゲがムズムズする」
「……ガキのような肌をして、何を言う」
お前のどこにヒゲがあるんだと呆れるが、相手には全く伝わらないようで、彼はしきりに指の背で口元を擦る。
眉は見事に垂れ下がっており、泣き顔だ。猫と言うよりも、ただのガキ。
そう考え、ああそうかと思い出し空を見上げ、納得する。
「…雨が降るのかもな」
「アメッ!?」
ただの予想の言葉だ。だが、過敏に反応した彼はビクンと身体を伸ばし、直立不動の姿勢から思い出したように飛び跳ね、可笑しな動きで歩き出した。脚の運び方を忘れたかのようなぎこちなさだ。そうして、最終的には俺の首にしがみついてくるのだから、堪らない。
「カイン〜ッ!!」
しなやかな筋肉に、俺はあの世へ送られようとしているのだろうか。…このまま絞められたら死ぬぞ?
「……暑い苦しい鬱陶しい。離れろ」
「ア、ア、アメだぞカイン! 帰る今すぐ雨ッ!!」
「夕立だ。降ってきたら、何処かにしこればいい。直ぐやむ」
全く言う事を聞かないので、無理やり引き剥がし、振り払う。買い物を今すぐ切り上げ帰路についても、どうせ雨には遭うだろう。頭の上の空は段々と暗くなってきている。遠くには青空も見えるが、そこに浮かぶのは大きな入道雲だ。慰めにはならない。
雨だ雨だと五月蝿い彼に「諦めろ」と真顔で諭すと、感じるところがあったのか、漸く俺の機嫌に気付いた相手はシュンと顔を伏せた。
項垂れる姿は、ガキというよりも、犬のようで…。
「……濡れなきゃイイんだろう? 傘、買ってやる」
「…カイン?」
「お前なら、黄色いカッパでもいいかもな」
キョトンとした顔で首を傾げる彼の髪をかき回し、俺は適当な店に向けて足を進めた。
雨も悪くないのだとコイツが気付けるのならば、何本でも、何十本でも傘くらい買ってやる。
だから、さ。なあ、アル。
もうあの日の記憶は、忘れてしまわないか…?
「トップdeお題」から
□ 熱帯夜 □
エアコンのタイマーが切れると同時に、室内の温度は急上昇したようで。暑いと目覚めた時には、大量の汗を掻いていた。寝続けていたならば、ボクはそのまま死んだのかもしれないと思いながら、水分を求めベッドから起き上がる。
月明かりだけが頼りの廊下をペタペタ歩きキッチンへと足を踏み入れると、先客に出くわした。暗闇に慣れた目が捉えるその輪郭から、直ぐにそれが誰なのかわかった。
「どうした若、怖い夢でも見たのか?」
「……水」
越智のからかいは今更なので流し、要求を口にしながら時計に目を凝らす。午前三時。流石に、幾ら越智と言えども、起き出す時間ではないだろう。
差し出されたグラスを受け取ると、越智は腕をさらに伸ばし、ボクの頬に触れた。厚い手でボクの汗を拭い、喉で笑う。暗闇の中でだと、軽く唇を引き上げる越智の独特のその笑いは、見慣れていてもちょっとおっかない。魔王のようだ。
「……ぬるい」
それでも魔王と言えども越智は越智なので、冷たくない水に意見する。だが、身体にはその方がいいんだと、取り合ってはくれない。やっぱり、魔王サマだ。
「ほら、早く戻って寝ろ。起きれなくなるぞ」
「…越智は?」
「まだ起きるには早いからな、俺ももう一眠りするさ。それより汗だくだな、ちゃんと着替えろよ」
「……めんどくさい」
反論ではなく、ただの感想だ。だが、キッチンを出るボクの後ろに越智は続いた。無理やりでも着替えさせる気なのだろう。
「……若」
部屋に入った途端、越智は低い声でボクを呼んだ。
「寒すぎだ! 一体、何度に設定したんだオイッ!」
ボリュームを落としているが、叱責でしかない勢いのある声が暗闇をとぶ。確かに、汗を吸ったパジャマが一瞬でスッと冷えるくらい、部屋は良く冷えていた。だが、怒ることはない。これはこれで気持ちがいいじゃないか。
「…もっと低くしたら、雪が降るかもね」
「降って堪るか!これじゃ、先に凍る! って、オイコラ、寝るんじゃない着替えろッ!!」
越智は夢がない。雪が降ることはないのは、ボクだってわかっている。だが、ボクは夢を見たいのだ。それも、今すぐに。
けれど越智がウルサイので、仕方なくボクは上着を脱いだ。だが、変えのパジャマを物色する越智を放って、タオルケットに身体を包み横になる。待ってなどいられない。
「若ッ!」
まだ他の皆は寝ているのに、静かにしなきゃ駄目だよと思いながら、越智の声を子守唄にボクは眠りに落ちる。
これでは何だか越智の夢を見てしまいそうだなと気付いたのは、暗闇の中にダイブする直前のことだった。
魔王でもなんでもいいから。
夢の中の越智は、本物よりももう少し優しければイイのになと思いながら、ボクは眠りにつく。
「トップdeお題」から
□ ジゴロ □
出先から戻り、デスクで一息つきコーヒーを啜ったところで、隣の席がまだ片付いていないのに気付く。オレは腕時計で時刻を確かめながら、室内にいる同僚達に声をかけた。
「保志くんはまだあがっていないのか? ドコだ?」
問い掛けに、そう言えばそうだなと、定時を過ぎているのに仕事を終えていないアルバイトスタッフの存在に気付き、幾人かが顔をあげる。
「生徒につかまっているのかも」
時間割ボードを指差した一人がそう言い、苦笑した。充分に有り得る――ではなく。絶対にそうだろうと誰もが確信を持ち、軽い笑いが拡がっていく。
ちょっと見てくるよと、降ろしたばかりの腰を上げ、オレはエレベーターへと足を向けた。
声が出せないバイトくんは、やんちゃな小学生どもにウケが良い。
軽やかな音で奏でられる短いメロディに目的地への到着を教えられ、小さな箱から静かな空間へと降り立つ。直ぐに、空きであるはずの教室に明かりが点されているのに気付き、口元が自然に弛む。予想は的中したようだ。
「ホシ!次はゴーゴーレンジャー!」
「え〜、ダメだよコウッ!次はね、ミクが決めるの!」
教室に入ると、子供達のやりあいが聞こえた。コウタとミクが、ピアノの前に座る保志の両隣で騒いでいる。
「コラ、コウタ。先生を呼び捨てにしたら駄目だろう」
声をかけると、三人が同時に振り返った。
「ホシはセンセーじゃないもん」
若干不服そうではあるが、大部分は不敵にそう言い放つ小学生に向かい、オレは顔を顰めもう一度駄目だと諭す。怒られプクーとフグのように頬を膨らませるコウタの姿に、自身の勝利を確信したのか、いつの間にかミクが保志の腕の間に入り込んでいた。
「えっとねー、あのねェ」
なかなかリクエスト曲を決められずにいる少女の髪を撫で、剥れた少年の頬を指の背で軽く叩いた青年が、鍵盤の上で指を踊らせ始める。
保志が奏で始めたのは、オレが好きな曲だった。
「トップdeお題」から
□ 17歳 □
「保志センセ、お仕事終わり?」
じゃ一緒に帰ろ!と、ピアノの前から離れ駆け寄ると、先生は片方の口元だけを上げて笑った。
笑うと言っても、「鼻で笑う」と表現するような、軽いもの。見ようによっては、ガラの悪い人に感じてしまう。正直言って、ヤな感じ。
けれど、不思議な事に、気にはならない。そんな笑みだと言うのに、先生はそれを何でもない事のように思わせる力を持っている。
先生の周りには、緩やかな空気がいつも存在しているように私は思う。しかし、その空気には温かさだとか柔らかさだとか、そんな風な和める感触は皆無だ。だから、独特のその雰囲気に慣れるまでは、先生の笑みは私は苦手だった。
だけど、今は結構好きだ。もっとちゃんと笑って欲しいとも思うけれど、これはこれでイイ。これが、保志センセなのだから。
声が出ないからだけではなく。先生は、普通の人とは少し違う。
ドコが、ナニがとは、詳しく説明出来ないけれど。他の大人達とは、全然違う。
夜の街を並んで歩く。話をするのは当然、私ばかり。先生は時々、唇を歪めるだけだ。けれども、私は満足で。それだけの事に、ドキドキしたりする。
受験生になったらピアノ教室は辞めると、ずっと前から決めていたのに。三年になった今も続けているのは、先生がいるからだ。
だけど。これは、恋じゃない。
お兄ちゃんのようだとは思っていないし、友達だと言うのとも違うけれど。これは恋ではない。
憧れてはいるけれど、恋とは違う。この気持ちを何と言えばいいのか、わからない。だから、いま言えるのは、私は保志センセが大好きだということだけで。それ以外には何もない。
だけど。
このままいけば、もしかしたらこの心は恋に変わるのかもしれない。私は先生に恋しちゃうのかもしれない。
隣を歩く先生を感じながら、愛しちゃったりするのかな?と考えると、恥ずかしさよりも幸せ感が胸に広がる。
それは悪くはない未来だから。
だから、今はこのままで。答えが出た時に、笑えばいい。
先生のように。
「トップdeお題」から
□ カタチ □
別に約束をしていたわけではない。
だが、会ってみたいと言っていたのを思い出した瞬間、会わせてやろうかという気になったのだ。ただそれだけの事で、理由など特にない。タイミングが合わなければ、態々男を迎えに行き、街を引き連れ、面白くない店にまでやっては来ない。
そんな俺と同様に、どこかの何かがヒットしたのだろう。女子高生と仲良く並んで帰途についていた保志もまた、俺の誘いに乗り大人しく付いてきたのだから、タイミングと言うよりも奇跡が起こったようなものだ。同じ事を後日にしたところで、この結果は得られないだろう。
己よりも遥かに恋人との付き合いが長い女を前にしても動じる事の無い保志は、全くもって面白くはなかったが。茶化して遊ぶ気にならなかったのは、逃げる事無く同行した保志の気紛れに、それなりの敬意を表したからだ。あとは、隣に並び酒を啜るその横顔に、幼馴染の姿を見たから、か。
いつの頃からだろうか。保志の中に、筑波の空気が溶け込み始めたのは。
「クロ。本当は嫉妬したんじゃない?」
「嫉妬だと?」
「保志君によ。ナオを取られて、寂しかったんでしょう」
「ナニ言ってんだお前、馬鹿言うな」
舌打ちと共に酒を飲み干すと、新たな水割りがカウンターに出てきた。無言でそれを受け取り、続けざまにグラスを空ける。物心ついた頃から一緒に生きてきた仲で、恋人の一人や二人の出現で今更何が変わるというのか。有り得ない。
だが、嫉妬ではなく、単純に。
筑波と保志が互いを見付け、隣り合っているその事実には、憧憬を覚える。
俺には得られないものだから。ただ、それだけ。他には何もない。
「私はしているわよ、嫉妬。保志君もナオも羨ましい」
「俺はしない、羨ましくない」
アレは、あいつ等だからこその形だろう。
温もりが消えた隣の席を視界の端で捉えながらそう溢すと、カスミは「そうね」と小さく笑った。
そう。保志や筑波にそれがあるように。
俺には、俺のカタチがある。
「トップdeお題」から