□ 12 □
□ 100g □
携帯電話を忘れたと気付いたのは、駅に向かっている時だった。ここからならば戻っても、10分もかからずに取ってこられるだろう。仕事に遅刻する事はない。だが、面倒だ。どうにかなるだろう。幸いにも、今日は仕事以外に用事はない。連絡を取らねばならない事もない。
迷ったのは一瞬で、保志は足を止める事もせず道を進む。
常に身につけているものが無くなるのは不安だという者もいるだろう。だが、実際には何ら変わりなく、むしろ歩く足は軽くなったような気さえする。全ての繋がりから解放され、自由になった――などとは言わないが。たった100グラムの重みがポケットに無いだけで、いつもよりも多く歩けそうに思う。
単純だ。意味無く高揚しそうになる気持ちをその言葉で抑え、保志は地下鉄への階段を駆け降りた。
珍しく職場に現れた男を見た時、直ぐにはその理由に思いつかなかった。忘れるなと、これまた珍しくグチのような小言と共に差し出された小さな機械に、ああそれで来たのかとそこで漸く保志は納得する。手を差し出すと、筑波はそれを落とすようにそこへと乗せた。
「大事なモノだろう」
その言葉に口の端を少し上げ笑うと、相手は眉間に皺を寄せる。
「俺も暇じゃないんだ、気を付けろ」
じゃあなと呟くように零したそれには、溜息が混じっていた。客の間をすり抜ける背中は振り向く事もなく、そのまま自動ドアを潜っていく。男の不機嫌さを教える態度。けれど、本気で怒っているのならば、ここには来ていないだろう。
ホントは結構暇なんじゃないかと喉を鳴らし、雑路の中に消えていく男の姿を可能な限りまで目で追う。
ポケットにやって来た、小さな重み。このくらいの枷が丁度いいのだろう、ここへと自分を繋ぐ確かな重み。
不安になったのは彼の方だったかと思い当たり、保志は口元に笑みを浮かべた。
だったら、これからは。出来る限りは気を付けよう。
彼を不安にさせないために。
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□ 敗北 □
小さいけれど確かな温もりを腕に抱き、ほっと息をつく。首筋に鼻を埋め大きく息を吸うと、甘い匂いがした。
生き返る。
「ヤマトくん、くすぐったい」
「あ、ごめんごめん。大丈夫?」
「だいじょーぶー」
きゃっきゃと笑いながら答えたリュウが、今度は自ら首へとしがみついてくるのに甘え、もう一度俺は小さな身体を抱きしめる。気乗りしないままに連れてこられたヤクザの住処。幾人かの知り合いで特殊な彼らに慣れたとはいえ、やはりここは総本山。数度の訪問では、馴染めきれない空気。頼りの男は来た早々にどこかへ消え、俺はと言えば、言われたとおりにヤクザの中を突き進み、漸く会えた子供を腕に脱力状態。俺の方が全然、大丈夫ではない。
何故どうして俺がこんなところに来なくてはならないのだと、毎度毎度同じように顔を顰める俺は薄情なのかもしれないが。それでも、こうなってしまうモノは仕方がなくて。怒りと情けなさに泣きたくなってしまったりする。
「ヤマトくん?」
小さな子供は何かを感じ取ったのか、だいじょうぶ?と先程とは違う声音で零されたそれと同時に、頭にポンと衝撃が落ちてきた。声の主とは違う、大きく重いそれに顔を上げると、屋敷に入ると同時に居なくなった裏切り者がそこに居た。宥めるかのように、くしゃりと髪を掻き回してくる。
「…………」
そんな事で許してやるかと思うけれど。触れる手に安心してしまうのは事実であり、それを払う事は出来ない。
「……リュウくん、ちょっとゴメンね」
抱き上げていた子供を降ろし、小さな頭を押さえて視界を塞ぐ。
バカヤロー。腕を引き近づけさせた顔に小さく呟き、軽く唇を重ねる。一人にするなよと、離した唇を隠すように俯きながら、ネクタイを睨み口から零す。不安なんだ、寂しいんだ、判れよ馬鹿。声にはせずに態度で示し、鼻を胸に近づけ匂いを嗅ぐ。幼子のように甘くはないが、何よりも安心するこの香り。
「リュウ、もう少し我慢しろ」
子供の頭を抑える俺の手に、水木の厚い手が重なった。俺の手を通し押さえ込まれる小さな頭が哀れで、何のつもりだと驚き顔を上げたところで、顎をとられ唇を重ねられる。俺がしたものとは違う、情事を思い出させるような深いキスに、喉の奥が勝手に鳴った。
「ヤマトくん、お熱あるの?」
もぞもぞと動く子供に促され離れたが、顔が真っ赤だと無邪気に指摘され、子供の前で致した事実に眩暈を覚える。
大丈夫?と問うてくる声に、大丈夫じゃないとへたり込む。
小さな手に頭を撫でられ慰められている俺の傍で、水木は悠然と立っていた。
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□ 我慢は身体の毒となる □
「マジかよ、オイッ!? 絶対ウソウソ、嘘だよこれッ!」
ホントあり得ないからと、絶叫する声が部屋中に響く。振り向けば皆の注目を集める中、結城が検査員に詰め寄っているのを目撃し、橋本は軽く眉を寄せた。彼の同僚が、測定しなおしてくれと粘る身体を抱くようにして押さえている。
距離が、近い。
「たった1センチじゃないか、我慢しろよ」
「この歳で早くも縮んだんだぞ。これが真実ならば、ジジイになった時に俺はどうなっているんだよ!? 我慢てなんだよ、死活問題だろッ!」
「お前、体重は三キロも落ちてるじゃん。そっちを気にしろよ。縮んだのは栄養不足のせいじゃないのか? もっと食え食え」
「喰ってテメェみたいになったらどうすんだよ。あァン?」
押さえる手の中で身体を反転させた結城が、同僚の臨月並の腹を鷲掴みにし凄んだ。やめろよと逃げる男の声にビブラートがかかり、その情けない呻きに笑えばいいのか呆れればいいのか、室内の全員が戸惑う。
「橋本、阿呆は放っておけ。ほら前、呼んでるぞ」
じゃれ合う二人を睨んでいると、後ろに並んでいた阿部に肩を突かれた。ゴムバンドを両手に待つベテラン看護師の前に腰掛けながら、左腕のシャツを捲る。チクリとしますからと忠告を受けると同時に、消毒液を塗った箇所に注射針が刺さった。ふと、隣に気配を感じ顔を上げると、いつの間にか結城がそこに立っている。
「お姉さん、コイツ血の気の多い奴だからさ、3リットルくらい抜いても大丈夫だよ。てか、むしろ抜いて。最近生意気でね、それでちょっと大人しくなれば、俺は助かるんだけどなァ」
ね、ね、ダメかなお姉さん。にっこりと微笑む結城の後ろに、ヌッと現れた上司が迷うことなくその頭を叩く。
「いてえッ!暴力反対!」
「終わったのならさっさと外回りに行ってこい!」
「いや、まだです。問診の順番待ちです閣下」
「だったら大人しく並んでおけ」
「え〜だって〜、なんかやる気がなくなっちゃってさァ」
縮んだのはイタい、イタすぎると。シャツの襟首を捕まれ引きずられながら、隣の会議室へと移動する男を眺め、橋本は顔を顰める。だから近いんだ、と。くっつく必要はないだろう、と。誰彼構わずじゃれつくんじゃないと、胸中で舌打ちをする。
しつこい事に。別室に移動してもなお遊んでいるのか、結城と同僚達の馬鹿話が聞こえてくる。暫くは止まりそうにもない。
採血に続き行った血圧測定で、橋本は異常に高い数値を何度も叩き出し、検査員の顔を引き攣らせた。
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□ one wish――結城 □
吾輩は魔神である。
遙か昔より人々からランプの精と呼ばれているが、好き好んでこんな処に住み着いているわけではないので、精霊扱いをされるのは嫌いだ。吾輩は、由緒正しき魔神なのである。そこは間違えないでもらいたい。
しかし。
昨今の世の中は、無情だ。小さき人間は、どんどん心が廃れている。
「いや、そんなのどうでもいいし。てか、何であれ、ウケるねアンタ」
ひとりケタケタと笑いながらもどこか疲れた仕草で、若者は携帯電話を取り出す。
「そうだ写メ!写メ摂ろう…っと、何だよメール来てンじゃん」
「吾輩を呼び出したそなたの願いをひとつ叶えようぞ…?」
「うん、知ってる。それ今聞いたばっかりだからさ」
驚きのあまり、吾輩を呼び出した特典を聞き逃したのかと再度親切に教えたが、どうやらこの若者の関心はそれよりも吾輩の姿にあるらしい。ウケるとは、魔法のランプを擦れば魔神が望みを叶えてくれるシステムではなく、吾輩そのものか…。
「あー、悪いけど一本電話掛けるわ、ちょい待って」
「…………」
存在よりも姿形に負ける魔神ってどうなんだとヘコみかけたところを、当たり前のように軽い言葉で中断され、逆に怒気が沸き起こる。この者は、ただの阿呆だ。吾輩の偉大さを全然わかっていない。
なんと悲しき事か。
「もしもし、橋本? 電話くれたみたいだけどナニ? ――はぁ?なんだよそれ、知らねーよ。俺今マジ忙しいの。って、そうそう。お前ランプからイケてないジジイが出てくるのってどう思う? なんかさ、願い事ひとつ叶えますって言ってるんだけど、これってサンマの番組かな? 大体さ、ひとつっていうのは景気悪すぎって感じじゃねえ? そこからして夢がないよな。っていうか、マジ怠い眠い、呑みすぎたぁ。今すぐベッドへ入ってぐっすり寝てぇ」
「……」
「眠いぜ、クソ!」
「……」
ちょい待って――と言うのは、どのくらいだと。吾輩を待たせるとは何たる奴かと我慢の限界が来掛けた頃にこの発言。飛びつかないわけにはいかない。
これが本当に青年が望んでいる願いではないとわかっていても、咎める良心は今の吾輩にはない。
「…そなたの願い叶えよう」
まだ喋り続けている青年をベッドへ飛ばす為に、軽く指を打ち鳴らす。
え?嘘!マジかよッ!?と青年の声を遠くに聞きながら、吾輩は再びランプへと潜り込んだ。
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□ one wish――保志 □
吾輩は魔神である。
ランプに閉じ込められているが、人間よりも高等な存在である魔神だ。その中でも特に吾輩は魔力も強く、赤ん坊を世界の頂点に座らせる事も出来れば、この世を終わりにする事も出来る。ただし、それはランプを擦り吾輩を呼び出した者が望めばの話だ。
吾輩自身は、この力を使う事は出来ない。
しかし、それでも、吾輩の魔力は凄いのだ。
それなのに。
吾輩を呼び出した青年は、何も言わずにただ火のついていない煙草を銜え書き物をしている。願いを考えているような素振りはない。これは所謂、ムシという名の拒絶だろうか…?
「……そなたは何も望まぬのか?」
まさか、無いものにされるとは。初めて向けられるかもしれない態度だ。大抵の者は、とりあえず驚く。そして、信じずに呆れるか、不審がりながらも突然目の前に開けた可能性に逆上せあがるか、そんなものだ。呼びかけにも返事ひとつしないとうのは、珍しい。
本来ならば腹立たしい態度であるが、あまりにも新鮮で。思わず感心してしまう。
そんな吾輩に、青年は手にしていたメモを向けてきた。無視をしていたわけではなかったらしい。
だが。残念ながら、吾輩は字は読めない。会話は精神的な繋がりであるので、どの言語でも意志は交わせられるが、文字は無理なのだ。
「…………」
ここに来て、唐突に試練を突きつけられた気分に陥り、無言でじっとミミズのような字をみつめるが、判らないものは判らない。
「……そなたは声が出せぬのか?」
吾輩の問いに、青年はただ静かに頷いた。
話す相手の真実や嘘を見破れる程度の勘は持ち得ているが、心を覗く術は吾輩にはない。感じは出来ても、全てそのまま把握する事は出来ない。
これは、困った。
「耳は聞こえるのだな?」
問いへの頷きに、ならばこうして聞いていき望みを探るしかないと質問を向けかけた時。青年は口に咥え続けていた煙草の先を、人差し指で軽く叩くようにして示した。
「……火を付けろと?それが、そなたの望みか?」
口の端を上げてニヤリと笑う青年に、まさかと思いつつも問うてしまった吾輩の顔が瞬時に歪む。何でも、どんな事でも望めるというのに、この青年の願いはこんな事なのか。
それでも、望みは望みで。
拒む事は吾輩には出来ない。
「……それがそなたの望みならば叶えよう」
シュポッと煙草の先に火玉を起こし、吾輩はランプへ駆け込む。
負けた…と泣きたくなったのは、誰にも秘密だ。
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