□ 14 □
□ いちについて □
「ヨーイドォーン!」
「えっ? あ!リュウくん!!」
何事かと理解する前に、合図らしきものを口にしながら走り出した幼子を、俺は慌てて追いかける。フライングをかまされたけれど、難なく追いついたリュウに手を伸ばし後ろから抱きしめると、ダメだよと強い口調で叱られた。
「ゴールはあそこなのッ!」
「あ、ごめん」
小さい手で示された、駐車場に停まるピンクの車。誰のものだろうと思っている間に身をよじったリュウが俺の腕から抜け出し、テケテケとそれに駆け寄っていく。「ゴォールー」と、到着する前から声を上げながら、ピンクのビードルによじ登るように抱きついた。
黒い厳つい高級車が並ぶ中でのそれは、ちょっと異常だ。天使のように可愛い男の子に、おもちゃのような丸い車。そこだけ世界が違う。
「ヤマトくーん」
満足したのか、車から離れたリュウは身体を反転させ、両手を広げたまま走って戻ってくる。
おかえりと小さな身体を抱き上げると、首にしがみ付いた子供は声を弾ませながら、身体を動かし喋る。
「あとはねェ。たまいれとぉ、ダンシュ、それと、ちゅなひきー!」
気持ちばかりが急いているようで全然舌が回っていないその言葉に、けれども漸く俺は何の事を云わんとしているのか気付き頷く。
「運動会なんだね、リュウくん」
「そうなの!」
こんな風に踊るんだと腕の中で実演してくれる子供を落とさないように注意しながら、見に行くよと約束をする。
今度の週末は、晴れますように。
まるで自分が参加するかのように、今日から俺もそれを願い、指折り数え楽しみにその日を待つのだ。
「トップdeお題」から
□ 十六夜 □
仕事を終える時間を見計らっていたかのように、駅へ向かう途中で携帯が鳴った。珍しく誘いを掛けてきた男に軽口を叩きながら改札を抜ける。
飛び乗ったのは、家路とは逆になる電車。電源を落とした携帯を握りしめ、自分が到着するまでに男の予定が変わらない事を願う。
指定されたホテルの最上階のバーに着いた時は、初デートをする中学生のようにドキドキしていたのだけれど。大人の意地でそれは顔に出さないように努め、案内されるままに余裕の態度で男の前に座る。恰好だけだと気付かれているのだろうけれど、構わない。ただの、ガキみたいな意地でしかないのだから、問題ない。
先にグラスを傾けていた男のそれと同じものを頼み、どういう風の吹き回しなのかと改めて尋ねるが、先程と同じように理由はないと流される。
別に、それならそれでいい。寧ろ、そのほうが嬉しい。だったらこれからもこんな風に、特に訳もなく思い付いた時に呼ばれるのかもしれないと。小さなハプニングのような未来の逢瀬に、胸の中だけで楽しみ、期待を持てる事が出来る。
小さいけれど、切実さも含む希望。そんな望みは、けれども口に出しては現実の厳しい風に負け溶けてしまうかもしれないから、心の中に留めて。ただそうかと頷き、運ばれてきたグラスを持ち上げる。
透明なグラスと透明な液体をすり抜けてゆく店内のライトを手に掴み、ふと気付き窓下に目をやり、その視線を空へ――
「――今夜は満月だっけ?」
地上に広がる無数の光から向けた先に、ひとつの大きな輝き。
今年は14齢だった中秋の名月は先月末の火曜だったはずだと指折り数え、既にもう過ぎている事に気付く。一日、遅い。
「なんだ、違うのか。でも、真ん丸だ。なあ?」
十六夜を肴に、辛い酒に口をつける。
特に口を開くわけでもない相手に、そんな風にポツポツ声を掛けながら。
ゆったりとたゆたうこの空気を、俺は楽しむ。
秋の夜は、まだ始まったばかりだ。
「トップdeお題」から
□ 拍手 □
出番の直前までミスしそうだと緊張し騒いでいた少女の演奏を聴きながら、不意に十年以上も前の事を思い出した。
ちょうど今と同じ、秋が深まるこの季節の事だ。
己の不注意で退部したクラブの定期演奏会に特別出演してみないかと誘われたのは、中学最後の年の事だった。三年だけのステージにお前も参加しろよと言ってきたのは、クラスメイトでもなかった生徒だ。
気乗りのしない返事にもめげず声を掛け続け、脈がない事に気付いた後は、だったら聴きにだけは来いよとチケットを渡してきた。
それでも行かなかったのは何故なのか。薄情にも覚えていない。
後日、彼にどんな言葉を返したのかも。
丸い印象しか残っていない、今はもう名前も記憶にない彼は、そんな自分を責める事もなくただ笑っていた。
あの誘いは独断だったのか、クラブ全体のの意志だったのか。それすらも気に掛けず流していた自分を思い出し、無事に演奏を終え拍手を受ける少女を観ながら思う。
もしかしたら、彼らと共に貰えたのかもしれない拍手。
もしかしたら、彼らに贈れたのかもしれない拍手。
後悔はないけれど。人生の選択で生まれる小さなミスに気付くのも、全てが終わってからの事だ。
そして。
また、成功に気付くのも、その時ではない。振り返らねば、過去の判断が付かないのが人生というものなのだろう。
「先生! どうしよう、ミスしたのわかったかな?」
でも、間違えたけど楽しかったと興奮状態のまま飛びついてくる少女を落ち着かせながら、いい演奏だったよと賛辞を贈る。堂々としたあの音ならば、例え楽譜通りではなくても大丈夫だ。失敗ではない。
良かったと心からそう思い、口には出せない言葉の代わりに改めて手を叩き合わせると、ありがとうございますと少女は丁寧に頭を下げた。姿勢を戻したその顔に、満面の笑みが浮かぶ。
ありがとうと僕もあの時言えていたのならば。
もしかしたらこんな風に、大人になったあの少年の笑顔を見る事が出来ていたのかもしれない。
「トップdeお題」から
□ 故郷 □
『保志!お前今の試合見たか? いやァ、アイツはホンマええ男や、ええ仕事するわ。ワシの言うた通りやろが、なあ? おい、保志!聞いとんか?』
凄まじい大声に携帯電話を耳から遠ざけながらも、相槌代わりにカツンと爪で通話口を叩くと、酔っぱらいの言葉はどんどん続いた。
『そうかお前も嬉しいかァ。まあ、当たり前やな。なんやゆーても、あと三回勝てば優勝やからな。喜ばんヤツは居らへんわ』
止まる事を知らないような言葉を相変わらずだと懐かしく感じながら、リモコンを探しテレビをつける。残念ながら東京では、関西の野球チームの放映はされていない。まだ、スポーツニュースが始まる時間帯でもない。
けれど幾日か前にマジック点灯を聞き、近いうちにこうした電話が来るだろうと思っていたので、驚くべき事でもない。
『このまま行ったら、週末には優勝や。しかも、こっちでやで。めでたいのぅ。お前も来いや、なあ保志。仕事都合つかんのか?』
こんな時まで、仕事するアホは居らん。さっさと来い。
同じ言葉は繰り返すうちに、説教じみた命令に変わっていく。
本当に、相変わらずのようだ。
『冗談やないで保志。久し振りに顔も見たいしのぅ。ツラだせや、薄情モン』
そんなに東京の空気は美味いんかいのぅ。どいつもこいつもアカンタレや、おもろないでワシ。
僕へのものだけでなく、他の者への非難を、寂しさを口にし始めた男を宥める声が、電話の向こうで聞こえる。知らない声だ。けれど、若いそれはきっと、新しい従業員なのだろう。ウルサイ、泣いとらへんわ!との声とともに、勢いあまったのか唐突に切れた通話。思わず喉を鳴らしてしまう。
多分、切れたものは仕方がないと、切られた側の僕の事など気にする事なく、復活した男はまた新たに馴染みに電話をかけるのだろう。見なくとも、近くに居ずとも、簡単に想像できる光景。
遠く離れたところに居るというのに、一瞬で勢いに飲まれ、あの街で過ごした過去が甦る。
点けていたテレビから野球結果が流れ始めるまで、僕はその記憶に浸ったけれど。
彼が言うように薄情者なのか。
それでも。戻りたいとは、思わない。
「トップdeお題」から
□ 誕生日 □
着信に気付いたが、仕事中だったので取り合わなかった。
何より、メールではなく通話だったので、仕事中でなくとも無視をしたかもしれない。
片付けを終え、私室に戻って確認したケータイには、連絡を乞うメッセージが残されていた。小さな文字を眺め、何かあったのだろうかと思いながら、短い返事を送る。
大阪と東京の距離がどれだけあるのかは知らないが。スムーズに行けば数十秒で戻ってくる返信。
けれど、今夜に限っては、それはいつもと少し違ったものだった。
手の中のケータイが鳴り響く。光る画面は、通話による着信を伝えている。
『切るなよ』
間違ったのだろうと思いながらも耳にあて出た小さな機械から、少し笑いを含んだ声が聞こえた。
続けて、誕生日を祝う言葉が述べられる。
『お前が呆れるのはわかっているが、直接言いたかった』
付き合わせて悪かったなと、本当に言いたい事だけを言って通話を切った男に、僕が言うべき事は何なのだろう。
勝手だと、恥ずかしい奴だと、男が言ったように呆れながらも、想いを込めながらボタンを押す。
ありがとうございます。
たったそれだけの短い言葉も音に出来ない僕だけど。
それでも、この温かい気持ちが男に伝わるように。
心の底から、そう願う。
2007/09/03