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□ 弥生 □

 ひなあられを貰った。正確には、ひなあられ付きの雛人形だ。
 片手に乗る程の大きさのケースに、お手玉のような丸いぬいぐるみがふたつと、もうしわけ程度の菓子がついたそれを渡してきた生徒は、悪戯を成功させた子供のような顔で笑った。
「かわいいでしょ?」
 プレゼントだと渡してきたはずのそれを僕から取り上げ、ケースからあられを取り出し、御内裏さまと御雛さまの位置を正すと静かに蓋を閉める。中のぬいぐるみが滑らぬよう大事そうに持ち上げ僕の目の高さまで上げると、「これは、先生と私」と注釈をつけた。
 どちらかと言えば間抜けな顔をするカップルを眺め、自らの軽口に赤面する少女の額を指で弾く。
 痛いと抗議する細い指の中からそれを取りピアノの上に置くと、僕は菓子の袋を開け、不服に突き出された唇に黄色の小さなあられを押し付けた。
「…チョコがいい」
 次は、ピンク。っで、白ね。
 まさにヒナな少女の注文通りにエサを与えながら、僕は横を向き喉を鳴らす。
 黒いピアノの上で、一層の華やかさを見せる雛人形。
 これを持って帰り部屋に飾ったら、筑波直純はどう思うだろう。
 数日後の節句を祝うような事は、流石にしないだろうが。少しは何かを意識するかもしれない。
 それが何なのかなんて、僕にはわからない。今のところ関心もない。
 だが、このエッセンスは面白いと、最後のあられを小さな唇に押し込み甘い指を舐めながら僕は笑った。
 悪戯を企む子供のように。

2008/03/03








□ Winner □

 凄い男が居る。
 何が凄いのではなく、全てが凄い。
 それが正しいかどうかは、また別な話であって。とにかく、凄いのだ。

「俺はただ電車に乗っただけなんだ」
 そうかもしれない。だが、乗車しただけで警察に捕まりはしない。
「勝手に俺の靴の下に潜り込んだヤツが悪い」
 最初の非は向こうにあったのかもしれない。だが、ガキの鼻の骨を折った事実はどこへいく。
「靴汚れちゃったしさ、なんか周りの雰囲気も悪いしさ、ひと駅で降りようと思ったんだぜ?」
 多少は考えたのかもしれない。だが、ドアの前で座り込んでいた高校生を車内に足を踏み入れた瞬間にのしておいて、普通に下車出来ると思ったのか。するなら、逃亡だろう。根本的に間違っている。
「被害者は俺なのにさ、感じ悪いよなぁ。何か、アレだ。痴漢された女の気持ちがわかっちゃった感じ。みんなが気付いているのに、誰も助けてくれないのよ。見て見ぬ振り。流石の俺も、やさぐれちゃうって。なあ?」
 白い目で見られるのは当然だ。車掌相手にキレれば、余計にだ。
「注意を受けるのは、邪魔なところで遊んでたヤツだろう。何で俺が、捕まっちゃうかなぁ」
 警官相手に奇怪な発言を繰り返せば、それも当然だ。逆にそうでなければ、職務を怠ったとして警官達は周囲の非難を浴びただろう。
「ま、それでも。俺の魅力を持ってすれば、どうにでもなるからいいんだけど」
 何をどうやって、お咎めなしで釈放されたのか。想像さえしたくない。
「リンちゃん、怒ってる?」
 怒るよりも、呆れ果てている。構うな、放っておいてくれ。
「何で? 何かあった?」
 これ以上の事が、そうそうあって堪るか。
「リン。リーン。ね、どーした? 大丈夫か?」
 二十歳なんて当の昔に過ぎ去った大人の男を、頭を下げて迎えに行かねばならない俺の心情など、一生この男は理解しないのだろう。そもそも、この心に抱えるものすら気付きはしない。
「ま、何か知らないけど、さ。お前、笑わないと可愛くないんだから、笑えよ」
 ほら、なあ、と。促されてもそんな気持ちにはなれないのに。
 肩に置かれていた手が首に周り、背中に男の胸が張り付く。歩き難い。重い。周囲の視線が痛い。けれど。
 それなのに、仕方がないなと思って、俺は笑って許し諦めるのだ。

 本当にこの男は、凄い。

「トップdeお題」から








□ 春時々冬 □

 東京に雪が降るとニュースになる。三センチも積もれば、大事である。
 予想通りの連絡を受け時間が出来たので、散歩に出掛ける事にした。昼前から天気が良くなり温かい日差しが降り注ぐ中を、雪が溶け出し濡れた地面をゆっくり踏みしめながら歩く。道の端に残る雪も、きっと子供達が下校する頃には溶けきっているのだろう。
 まるで、冬から春へと季節が移る瞬間を凝縮したかのような雰囲気。古い町並みと共にそれを味わいながら、いつものコースを堪能する。
 交通手段の麻痺により出向くのが困難なので、打ち合わせを明日以降に変更したいと早々に申し出をしてきたのは三社。スケジュールに組み込まれていたのは、五社。残り二社のうち、一社はメールでの取材回答となった。そして、もう一社は、今のところ何も言ってきていない。約束の時刻までは、あと一時間もない。と言う事は、予定通りやってくるつもりなのだろう。
 事故になど遭わなければいいが。
 付き合いの長い担当者を思い浮かべ、彼女は頑張り屋だからなと空を見上げる。都心に比べれば青い空だが、まだくすんでいる。たぶん今夜にもまた寒波は戻り、積雪をもたらせるのだろう。今週いっぱいは寒いのだと繰り返している天気予報が頭を掠める。
 明日の打ち合わせも、もしかしたら流れるかもしれない。
 折角の逢瀬なのにねと、ちょっと茶化しながらも切実に心で呟く。年甲斐もなく。
 三十分程散歩を楽しみ帰路へつくと、自宅近くで顔なじみの猫に出くわした。縄張りを見回っているのだろう美人を呼び止め、寒い中ご苦労様とふくよかな体を撫でる。喉を鳴らす事はないが、目を細め愛撫を受け入れる彼女と道の端に座っていると、不意に日差しが陰り低い声が落ちてきた。
「せめて携帯電話は持ち歩いて下さいよ」
 突然の非難に顔を上げると、予定は明日であるはずの担当者が渋い顔で立っていた。余りの驚きに、指をすり抜ける猫に別れの挨拶も出来ず、ただ見上げる。耳と鼻が赤い。
「こんな天気ですからね。何かあったのかと、心配するじゃないですか」
「あ、ああ、済まない。でも、…こんなところで、ナニしてるの住田くん」
「猫は労うのに、僕にはそれですか」
 寒い中でアナタの帰りを待っていたというのに。
 青年の真っ白い溜息が空中に消えるのを眺め終え、漸く言われた言葉が頭に浸透する。待っていたと言う事は、私のところに来たというわけだ。だけど。
「…打ち合わせは明日だよね?」
「インフルエンザで京子さんがダウンしたようで、急遽、僕にお鉢が回ってきたんですよ」
 出先から直接来たのだという青年を家に招き入れ、台所でコンロに火を掛け、居間に取って返す。倒れたという馴染みの担当者には悪いけれど、私の心にも唐突に季節が巡り春がやってくる。
「泊まっていくよね?」
「どうしてそうなるんですか」
 前置きもなく向けた言葉に、青年は呆れるような顔をしたけれど。それくらいの融通はきくはずだと確信し、もう一度同じ言葉を繰り返す。
 頷くまで、何度でも。

「トップdeお題」から








□ 悪夢 □

 添乗員になって十年。
 まさか、こんなところに人生の落とし穴があるとは思ってもみなかった。
「鼻の下、伸びているぞ」
「……伸びていません、内海先生の錯覚でしょう」
 旅の開放感からテンションが上がる客のあしらいも、この十年で身に付けたはずなのに。嵐のような女子高生の一団が過ぎ去った後にやって来た男に、つい低い声を落としてしまう。俺もまだまだだ。だが、今回ばかりは仕方がない。
「油断しているとやられるぞ。あれでも一人前に女だ、手を出すなら覚悟をつけてからにしないと痛い目を見る」
「可愛い生徒相手に何を仰いますか。教師の発言とは思えませんよ」
「お前よりも俺の方が、ガキの事を知っているって事だ」
「貴方よりも私の方が、お客様への対応を心得ていますので、お気遣いは無用です」
 四泊五日の修学旅行。十七歳の客を相手にするのは確かに疲れるが、若さをわけて貰える分、中高年向けのツアーよりも楽しい。それなのに。
 今回は最悪だ。
 何故にこの男が女子高の教師をしているのか。本当に最低だ。
 過去に自分をふった男に、こんなところで再会するなど、誰が予測出来るだろう。
 ふられた腹癒せに仕返しをしたきり、一度も会う事はなかったのに。どうして、こんなところで現れてくるのか。どこまでも憎たらしい。
 しかも、無視するなり、表面的な付き合いをしてくれればいいのに。歳も立場も弁えず、何かと絡んでくる。これはもしや、あの時の復讐なのだろうか。大人気ない。
「客は神様ってか?」
「いえ、それは時と場合によります」
 なので、失礼。アンタは神じゃないと、早々に逃げを打つが、嫌がらせ実行中の男が呼び止める。微笑を浮かべ、「田路さん」と、真摯な声で呼び掛けてくる。
 昔はそんな風に笑いはしなかったくせに。
 俺をそんな風に呼ぶ事はなかったくせに。
 俺がした事を赦していないくせに。
 どうして、近付く?
 どうして、腰を抱く?
 どうして――キスなんてするんだよ?
「…何だよ、コレ」
「三十にもなってキスも知らないのか?」
「……俺はまだ二十八だ」
「訂正箇所はそこなのか?」
「うるさ――ンッ!」
 二度目のキスは、重ね合わせるだけじゃなく。腰を抱かれていなければ、崩れ落ちていたかも知れないほどのもので。
 進入して来た舌に口内をイイ様に弄ばれ、解放された時には俺の息はすっかり上がっていた。文句さえ吐けないほどに。
「ホントはあの時、俺は告白するつもりだったんだと言ったら。お前、信じるか?」
「……信じない」
「信じろよ」
「…………」
 クイッと間近で歪んだ唇に、不覚にも魂を吸い取られる。

 俺にとってはあくまでも仕事であって、これは旅行ではないのに。
 その一瞬見せた隙のせいで、今回は思わぬ土産を持って帰る羽目となった俺の最悪は続くのだ。

「トップdeお題」から



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