□ 17 □
□ 未来永劫 □
約束の時間に遅れないよう、午後からの業務を急ピッチで進めていた夕刻。笑うしかない連絡が入った。先に定時を迎えた相手が、今夜の呑みをキャンセルしてきたのだ。しかも、その理由が、営業先の受付譲とデートを取り付けたからだと言う。
こういう奴だとわかってはいても、一気にモチベーションが下がり机に突っ伏す。「彼女と別れた俺を慰めろよ」と、繁忙期で残業続きの俺に縋り付き強請ったのはドコのダレだったのか。予定が空いたお陰で残業が出来るから問題ないと開き直り、休憩所まで根性で辿り付き携帯を耳に当てる。
悪いなと、陽気に謝るハイテンションな友人に、構わないと応える。
ユミちゃん可愛いんだぜと、性懲りもなく惚気る薄情者を、頑張れよと励ます。
忙しいのかと、思い出したように何度も説明した事を改めて聞く馬鹿に、大丈夫だと苦笑する。
無理するなよと、心ここに在らずな口先ばかりの想い人に、もう行けよと会話を終わらせる。
お前ってホントいい奴だ、と。通話を切る前に落とされた言葉に、笑いながらも顔を歪め、誰も居ないのをいい事に寝転がりソファを占領する。
調子のいい男の、単なる戯言。けれど、泣きたくなる。
騒がしい性格の割には女に奥手で、気になる子がいるといつも協力を求めてくる。頑張っている割には空回りばかりで、付き合いはじめても半年ももたない。振られる度に慰めては、次の恋へと送り出す。
そんな男にとって、いつでも、いつまでも親友でしかない俺は、けれどもそれに異論はない。それ以外になる気もない。
彼女だと紹介されれば、笑って挨拶する。こいつはイイ男だよと仲を取り持ち、上手に付き合ってやる。それこそ、いつか結婚を報告されたとしてもそれは変わらずに、新婚家庭にお邪魔し冷やかしたりもするだろう。子供が生まれたら、両親以上に可愛がってやる。
だけど、それとは別に。別だけど、確かに心の中で。
いつでも俺は、別れてしまえと思っているのだ。これからの未来も永劫に、昔からと同じように、今と同じように。親友の不幸を願うのではなく、ただ俺の気持ちとして。アイツに俺以上の存在が出来ないように願う。
もしも、この心を親友が知れば。幾ら能天気な男でも、顔を顰めるだろう。けれど、どれだけ俺に頼ってきたのかの自覚があれば、怒る事は出来まい。
だからこそ、想いを悟らせる訳にはいかない。
「イイ奴でいるのも大変だ…」
覚悟なんてとっくの昔につけているのだけど、難しい。
煙草を呑みに来た同僚にからかわれるが、身体はソファから離れない。いつもの事でもあるのに、今日はヤケに堪えてしまう。
このままでは今日中に仕事は終われないだろう。
それでも俺は、ダラダラと。親友のデートが失敗しろと念をかける。
オレをぬか喜びさせた罰だ。
これくらいは、許せ馬鹿。
「トップdeお題」から
□ 降臨 □
1999年の7月に大魔王が降臨し世界は滅亡する、なんて。
まだガキだった俺は、世間が熱狂しているのは感じていたが、内容など全然わかってはいなかった。それよりも。
生まれたばかりの弟に夢中だった。
その夏の記憶は、小さな命に向けた愛情ばかり。
けれど。アレから十年経って、漸く気付く。いや、確信する。
大魔王は、確かにあの夏に降臨していたのだと。
「それが、弟クンだというわけだ?」
バカだねお前と笑う同僚達に、けれども俺は知らないから笑えるんだと首を振る。小学生だと侮れば、こちらが痛い目を見るだろう。現に、俺は何度もそれを体験してきた。
そして、最近、特にそれが酷くなっている。
「歳の離れた弟の悪戯なんて可愛いものだろう。本気になる方がどうかしているぞ」
「そうそう。玉木くんの弟が魔王なら、私の弟なんて悪魔だよ」
「俺のとこも、妹だけど同じさ。ちなみに、三匹も居るんだぜ。煩くてかなわない」
四人兄妹なんて凄いねと、早くも会話の中心がずれ始める横で、俺は一人溜息を吐く。本当に、あいつの事を知らないからそんな事が言えるのだ。グラスの底に残っていたビールを飲み干し、同じモノを店員に注文する。
昔から、ずば抜けて賢い子供であった。それは何よりも家族の自慢であったのだが、一体いつから恐怖に変わったのか。
いや、今も両親にとっては、賢い息子なのだろう。彼らは気付いていない。しかし、いずれ気付かされる。
小麦色の中で踊る気泡の向こうに、秘密にしてくれるよねと小首を傾げた弟の笑みが映る。両親の背中に向けた、冷めた横顔が映る。
時折感じた、ほんの少しの違和感を集めてしまったせいで。気付いてはならなかった事に、気付いてしまった。その代償に、俺は素直でイイ子な弟を失った。彼との取引により、表面上は今まで通りだけれど。始めは、まだどうにかなると、そこに希望を抱いていたのだけれど。
それでもお兄ちゃんだからと、彼は悪魔のように微笑んだ。だから、余計な事をする度に、別な誰かに消えてもらう事にするよと。お兄ちゃんには手を出したくないからねと、少年は嘯いた。
たった十歳の子供が、世界を崩し始めた。今はまだ小さな歪は、けれども何年か先には修復不可能な大きさになるだろう。
既に、俺の世界は、もう終わりに近い。消えた知人が、友人が、恋人が、それを如実に表す。
「彼女にふられたくらいで、いつまで沈んでんだよ!」
折角こうして慰め会をしてやってるんだから、元気を出せよ。俺達の未来はこれからだ。
一人の声に、残りの者達が一斉に「オー!」と吼える。
ただ、ふられただけならば、どんなに良かっただろう。
俺に見えるのは、彼だけが笑う未来しかない。
その大魔王に選ばれた人間は、今のところ俺だけなのだ。
「トップdeお題」から
□ オヤスミ □
朝起きたら、水木が居た。
別に、ここは水木の家なのだから、家主が居ても間違いではないのだけれど。
帰れない、会えないと言っていたのは当の本人であるというのに、これはどう言う事なのだろう。
エアコンも入っていないリビングのソファで、コートを脱ぎもせずにソファに座る男を離れた場所から眺め、首を傾げながら唸る。
はたして、どうするべきなのか。
このまま寝かせておくのもどうかというものだろう。だが、時間があるのならばきちんとベッドで休んだ方がいいに決まっているが、直ぐに仕事に向かうのならば少しでも眠る方がいいとも思う。帰宅時間がわかれば決めやすいのだが、流石に七時前から誰かに電話を掛けて尋ねるなんて事は出来ない。迷惑もさる事ながら、呆れられ笑われるのがオチだ。
とりあえず、このままじゃ俺も風をひくからと、遠回りで部屋を横切りエアコンのスイッチを入れる。だが、直ぐに温風が吹き出すわけではない。広いリビングが暖まるには、少し時間が掛かる。
そう、この広さが悪いんだと。我慢出来ずに、そろりとソファに近付き、ゆっくり水木の隣に腰を降ろす。
だけど、流石に腕の中に潜り込めはしないので。数センチの距離は我慢し、膝を曲げソファに上げた爪先を両手で包み、縮こまった体勢で寒さが弛むのを待つ。
明るくなっていく外を眺め、静かな部屋を眺め、隣の男の顔を眺める。
腕も足も組み、結構深めに座っているその姿勢。見ているだけで、身体が痛くなりそうだ。
いい加減起きろよなと、慮っていた気持はどこへいったのか、つい焦れてしまい手を伸ばしてしまう。部屋が温もり身体も解れた俺は行動的なんだと、意味のない理由を言い訳に、眠る男の肩に両手を起き顎を乗せる。
「こんなところで寝るんじゃねぇーよ」
低い声を目の前の耳に吹き込むと、ゆっくりと静かに水木の瞼が開いた。首をまわし、寝起きの顔を覗き込む。
「風邪ひいたらどうするんだよ、若林さんに怒られるぞ? 一体、いつからここに居るの。着替えも出来ない程なら、無理して帰って来なくてもいいのにさ、疲れるだけだろ」
「…大和」
「なに?」
俺の勢いを受けても目は覚めないのか。名前を呟いたきり、水木の口は止まる。身動きひとつもせずに間近で見詰め合う事に飽き、俺は体勢を直し立ち上がる。キッチンでケトルが憤慨中だ。
「コーヒー、飲む? それともシャワー?」
「……何時だ」
「七時」
「九時まで寝る」
了解。オヤスミと、寝室に向かう背中を見送り、キッチンへ入る。火を止め、今度は迷わず水木のところへ直行する。
服を脱ぐ男の後ろをお先にと通り、俺はベッドへと潜り込んだ。
「トップdeお題」から
□ あの日々 □
職場の遣いで出向いた本屋で、思い入れのある本と再会した。
特集コーナーに平積みされた写真集の中に、古椎さんに貰ったものと同じ月の本が置かれていたのだ。
考えるよりも早く手を伸ばしページを捲ると、胸が反応するようにざわめく。
あの本は、どうなったのだろう。
あれから季節は変わり、オレを取り巻くものも変わった。
今なお、全てを置いて出てきた事に対しての悔いはない。
だけど、それでも。彼に貰ったあれだけは、この手にとどめていたかったのかもしれないと。今になってそんな気持ちがどこかにあった事にオレは気付く。ざわめきがそれを教える。
あの頃は知らなかった寂しさを胸に眺める月は切なくて。
本を閉じると同時に、オレもそれに蓋をする。
人込みの中職場へと向かいながら、少し前の事なのにとても遠くに思える日々を呼び起こす。
懐かしい。
愛しい。
けれど、二度とは手に入らない。
それでも、オレの中で今なお息づいている。
遠いけれど、何よりも近い記憶。
冬の近付きを覚えさせる晩秋の風が頬を撫でる。
あの時と違い、髪は短いけれど。
寒さの中で感じた男の手の記憶が、オレの中で蘇る。
2008/10/17