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□ 心の七つ道具――糸 □

 昨夜見た夢は、自身がこの手で、父親を殺すものだった。
 ただの願望か、それとも予知夢か。まさか、現実では叶わないからこそせめて夢だけでもと、何処かの神が哀れんでのことではあるまい。
 仁科が紙面の字面を追いながらも、今なお薄れず記憶に残るリアルなその夢の事を考えていると、不意に新聞を持つ手に違和感を覚えた。
「あ、気にするな。読んでろよ」
 見ると、いつの間にか小竹が傍に来ていて。何を考えているのか、仁科の小指に赤いリボンを結ぼうとしていた。
 どうせくだらない事だろうと何度か振り払うが、めげずに追いかけてくる。流石に数度も繰り返せばそれさえも面倒になってきて、仁科は指の間を滑る違和感をやり過ごし、新聞に意識を戻した。
 読んでいた記事を読み終え、傍らを確認すると。器用な事に、小竹が自分自身で己の指にリボンを結びつけたところだった。視線を感じたのか顔を向け、ヘラリと笑い口を開く。
 男が何かを言う前に、仁科は手でしっかりとリボンを握り、思い切りそれを引っ張る。
「イッ! イタイイタイ、イテー!! 千切れるッ!!!」
 今時、小学生の女の子でもしない事をする大の男に掛けるような情けはない。
 振り回してもなかなかリボンは外れず、引っ張られる痛みに叫びながら、小竹は仁科の操るままに身体ごと揺れ動く。鬱陶しくなったのでその腹に蹴りを入れて、その勢いでリボンを引き千切ろうと思ったのだが、これも上手く行かない。
 叫ぶ男の声も不快になりつつあったので手の平に絡めていたリボンを外し、蝶々結びを解いて仁科は小指の戒めを捨てた。
「お前なァ……ああ、折角の赤い糸が…」
 理不尽な文句と、愚かな発想を黙殺し、仁科は置いていた新聞を取り上げる。だが、再び開いた紙面で字面を追うよりも先に、過去の記憶が蘇った。

 あなたは一人じゃないのよ。あなたの手の中には沢山の糸があって、それはみんな誰かに繋がっているの。私とあなたが繋がっているように。今は先が見えない糸があっても、必ずあなたの前にその人は現れるわ。
 だから、その時の為にしっかり生きなさい。

 他人に対しても、世の中に対しても、己の命に対しても。淡白過ぎる甥っ子に、彼女は良くそんな風な事を説き伏せた。その中には、運命の赤い糸も含まれていただろう。
 今、その甥っ子の小指に繋がる糸の先に居たのが、救いようのない馬鹿だと知ったら。あの伯母はどんな表情を作るのだろうかと思いながら、仁科は隣の男を窺う。
「その細さでも、首を絞めるには充分だな」
 結び目が思いのほか固く絞まったのか、己の小指に巻きつくリボンを外そうと苦労している横顔に言葉を落とすと、小竹は困ったような笑いを浮かべた。
「そういうプレイはちょっと気が進まないなァ」
「奇遇だな俺もだ」
 だから一人で勝手に遊んでいろと捨て置き、仁科はソファから立ち上がる。
 夢の中で父親の首を締め上げた手は、間違いなく自分のものだった。そんなこの手に握られる糸が今何本あるのかわからないが。もし、現実で父親と向かい合い、そのチャンスが来た時は。
 最後の一本までをも手放す事になったとしても、俺は手を広げ、あの自分に似た男の首を掴むのだろう。
 それを確信しながらも、仁科はリビングを出る直前で足を止め、己の手を見下ろす。
「……」
 もしも、それでも一本だけ、誰かと繋がる糸を得られるのならば。
 俺は――

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□ 心の七つ道具――チョコレート □

 職場へ向かう途中に受け取った配布物には、小さなチョコが入っていた。普段はそう言う類いは殆ど貰わないが、擦れ違った少年達がチョコだと騒いでいたのが耳に残り、何となく差し出されたそれを手にしたのだ。
 何故、自殺撲滅キャンペーンでお菓子を配るのだろうか。
 道すがらにそれを確認すれば、『エネルギーを補給して。自分自身を大切に』とのメッセージが付いていて、何となくだが納得がいく。
 厳密に言えば、自分が大事だからこそ自ら命を絶つ者も居るのだろうけど。そンな事を言ってはキリがない。
 先程降りた電車で乗り合わせた、痴漢に遭って泣きそうな顔をしていた少女を思い出す。
 彼女が降りた駅でも、同じイベントが行なわれていればいいと単純に思う。
 時刻を確認すると、少しまだ就業時間に余裕があったので、コンビニに足を向ける。適当に甘い菓子を買い、職場への差し入れにする。
 そして。
 甘くないチョコレートは、あの男に。
 何の脈略もなく、突然僕から渡されるこれを筑波直純はどう思うのだろうか。あの男のことだから、本気で可笑しな憶測をし始めるかもしれない。
 だけど。
 案外、甘いものもいける口であるのを知りながらも、カカオ率の高いそれを選んだのは。エネルギーを補給したいのは僕自身だからだとの真実に辿り着く事はないのだろう。
 無駄に訝るのだろう男を想像するだけで、僕は満たされる。
 仕事を始める前から家に帰りたいと思うような事があるのだから、僕の人生、悪くはない。

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□ 心の七つ道具――消しゴム □

 今までに何百回乗ったのだろう電車で、初めて痴漢に遭った。気持ち悪くて、悔しくて。何より、怖くて、恥ずかしくて。固まるしか出来ない俯いた私の前に、不意にケータイが突き出された。
【もしかして、触られてる?】
 小さな画面に打ち出された文字を読んで更に固まった私の頭に、ポスンと何かが落ちてきた。思わず反射的に顔を上げれば、思った以上に近い場所に男の人の胸があって。乗せられたのは手だと気付いた時には、揺れに逆らうようにして身体を引かれた。
「……ぁ」
 たった一歩、小さく動いただけで。小柄な私では身動きがとり難いほどに込んでいた車内で、その男の人との場所の入れ代わりが完了してしまった。
【もう平気だと思うけど、警察に言う?】
 驚きに目を瞬く私の前にまたケータイが出されて、そんな事を問われる。
 この人は痴漢が誰なのか知っているのかもしれないと思いながら、私は必要ないと首を振る。犯人を知るこの人がそう言うのならば、今はもう平気なのだろう。だったら、もう長引かせたくない。これで終わりにしたいというのが本音だ。触ってきた相手など知りたくもない。
 嫌な出来事は、消しゴムで消すようにしてなかった事にする。それが、賢明だから。
 だから、大丈夫。私はもう平気。
 そう思う余裕が出来て、緊張の糸が少し弛んだのか。不意打ちで視界が滲み出した。首を振ったまま、顔を俯ける私の頭にまた手が置かれて、今度はクシャリと少し強い目に撫でられる。
 溢れた涙を拭った時、降りる駅に電車が滑り込んだ。
「あ…私、ここなんです」
 そこで漸くきちんと顔を上げて確認した相手は、まだ若い男の人だった。他人を気遣う行動に、温かみがあるその仕草に、年配の人だと思い込んでいた私は、整った顔立ちをクールに保っている男性に驚く。予想外だ。
 だが、それは悪い意味ではなくて。じっと見下ろしてくるその視線に顔が赤くなるのを自覚する。
「あ、ありがとうございました…!」
 首だけで頭を下げ、開いた扉へ急ぐ。
 ホームへ出て振り返ると、閉まるドアの向こうでその人は私を見ていた。目が合うと、僅かに口元を緩めて笑う。
 ドキンと、胸が高鳴った。
 痴漢に遭ったのを吹き飛ばすほどの出会いに、私は現金にも、明日から電車に乗るのが楽しくなる予感を持った。

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□ 心の七つ道具――絆創膏 □

「ぁ…」
 やっちまったかと、資料を漁っていた手を止め指をみる。数度親指で擦ると、人差し指の第一間接辺りから血が滲み始めた。スッと引かれた赤い線がゆっくりと滲んでいき、小さく膨れ上がる。
 こういうのは地味に痛いんだよなと、溜息を吐きつつ指を咥え、空いた左手を伸ばし鞄を引き寄せる。キッチンにある救急箱を取りに行くのは面倒だし、何より床にも膝の上にも資料が散乱しているので動き難い。
 確かあったんだけどと鞄を探り、数日前に講義で貰った小さな袋を引き当てる。透明のそれには、「心の七つ道具」なるものが入っていて、それのひとつである絆創膏が存在を主張している。大学生に上げるにしては可愛らしい、キャラクターものだ。
 チャックを開けてそれを取り出し指に巻く。
 明日締め切りのレポートは、まだ半分も出来ていないのだけど。ちょっと息抜きに手を止め、袋を戻さずに中身を机に出してみる。貰った時にも見た説明書に、もう一度目を通す。
『貴方の心の傷を、これで癒しましょう。
 大切な人の傷に、貼ってあげましょう。』
 無表情なクマが乗った指で、俺は紙をパシッと軽く弾く。
「流石に、ピンクのこれは無理だって…」
 実際には、水木はそれが何色であろうと、どんなキャラものであろうと気にもかけないのだろうけど。そのミスマッチさを見なければならない者としては、却下だ。無駄なほどの男前にソレは笑えもしない冗談である。
 何より。ヤクザの傷など軽いものであるはずがなく、ちいさな絆創膏なんかでは役にも立たない。貼っても邪魔なだけだ。
 だけど、それでも。
「……ジャマでも、貼ってやろうかな」
 膝の上の資料を、今度はちょっと慎重に扱って、まとめて机の上に置く。
 キッチンに入り、コーヒーを飲むためにコンロに薬缶をかけ、湯が沸く間に救急箱を取り出す。
 シンプルなソレを一枚取ってリビングへ戻り、俺は他の七つ道具とともに袋へ詰めこみ鞄へ放り込んだ。
 使う事がないのを望みながらも。
 もしもの時の為に。
 自分が出来ることを。

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