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「そのコ捕まえて!」
 突然の声に何だ?と辺りを見回すが人影はなく、代わりというかのように一匹の猫がいた。だが、居たとしても、猫が喋るはずもない。声の主は何処だともう一度首を回したところに、再び声が落ちてくる。
「そのコだよ、そのネコ!」
「……」
 首を仰け反らせたところで、漸く大和は声の主を発見した。何て事はない、三階の窓から顔を出した少年だ。入院患者なのだろう、窓外へとはみ出している身体を包む服は遠目にもパジャマであるのがわかる。
「ねぇ、ちょっと! 聞いてる? 聞こえてるよね!?」
「……あ、うん」
「じゃ、ネコ、頼んだから!」
「…………」
 頼まれたとしても、出来る事と出来ない事がある。
 念押しされ促されるように顔を向けた先には、まだちゃんと猫は居たけれど。アレを捕まえられるかどうかは疑問だ。
 自分でしろよと見上げた窓には、もう既に少年の姿はない。他人に無茶な事を頼んでどこへ行ったのか。止めた足のまま、どうしようかと暫し悩む。その大和の目の先で、猫は優雅に歩いている。
「……ニャン」
 追いかければ逃げるだろうし、かといって興味を引けるような玩具も餌も持ち合わせていない。
 そもそも、病院に住み着く野良猫の捕獲に自分が何故協力せねばならないのか。疑問に思いながらも、一方的な頼みとはいえ無視して立ち去るタイミングを失っているので、正直に言ってどうしようもない。呼びかけにも無反応な猫を前に、大和はもう一度、高い窓へと顔を向けた。
「捕まえた?」
「え?」
 誰も居ない窓に吐き掛けた溜息は、先程よりもずっと近くで発せられた声に驚き引っ込んでしまう。後ろを振り返ると、直ぐ側の給湯室の窓から先程の少年が顔を覗かせていた。
「あぁ、もう、ネコちゃん行っちゃったじゃん」
 自分の身体越しに去って行く猫を発見したらしい少年が不服げな声を上げるのに対し、大和はその理不尽な態度に眉を寄せる。無茶な注文を押し付けておいて、一体何なんだ。文句を言われる筋合いはない。
「知るかよ、そんなの」
 つっけんどんに言い放った大和に、少年は視線を置いて言った。
「頼んだよね」
「俺は、捕まえるなんて言っていない」
「うん、って言ったじゃないか」
「言ってない」
「言ったよ」
「言ってない! 第一、人に頼まず自分で捕まえればいいだろ」
 今からでも追いかければいいじゃないかと、大和は小さくなった猫の姿を指さす。だが、少年はそちらを見て曖昧な笑みを浮かべるばかりで動こうとはしない。
「…行けよ」
「うーん」
「逃げるぞ」
「まあ、またそのうち来るからいいよ。あのネコの散歩コースなんだよココ」
 その言葉に、そう言えば野良猫が集まるのはココとは真逆にある建物だったと思い出す。当直室などが入った別館が猫達の溜まり場だ。看護婦達が餌をやっているのもそこであり、この辺りでたむろっている姿はあまり見ない。
「だったら、いきなり頼んでくんじゃねーよ」
 ただのちょっとした思い付きで注文してきたらしい事に気付き、大和はぶっきらぼうにそんな言葉を吐き捨てた。睨み付けた相手の少年は、キョトンと目を丸めて驚いている。その態度はどう言う意味だと、苛立ちが募る。
「なんだよ、その顔。ムカツク」
「あ、いや、その…ね、もしかして怒ってる?」
「……怒ってないよ」
 当たり前だろう!と心では声を上げたが、実際に言う事は出来なかった。本気で怒っているのかと聞いて来る相手に毒気が抜かれたわけではなく、怒るとは思ってもみなかったらしい相手の驚きに、自分が不必要な感情を抱いているような気持ちにさせられたからだ。どうして俺が遠慮しなきゃいけないんだよと思いつつも、大和はぐっと我慢を自身に強いる。
 けれどもそれは、とても慣れたものだ。いつでも自分は何かに耐えている。きっとそういう運命なのだろう。
 だが、初対面の少年に対してせねばならないものなのかどうか、次の瞬間にはわからなくなる。
「ホントに?」
「…怒ってない」
「ホントにホント?」
「しつこい! 何だよお前、俺に怒って欲しいのかよ!?」
 そこまで聞くのだったら本気で怒るぞと。絞めたばかりの緒を緩め掛けるが、少年は違うよと笑いながら首を振った。
「怒ってないのなら、協力してよ。あのネコ、暫くしたら戻ってくるからさ」
 その時に捕まえて。
 頼んだよと、人差し指一本だけが立てられた右手が、あろう事か真っ直ぐと大和に向けられた。この状況で命令かよと、口の端が思わず引きつる。一体、こいつは何だ。頭がおかしい人間か?
「…意味わかんねぇ」
「難しくないよ。キミはただあのネコを捕まえればいいの。簡単だろう?」
「……」
「心配しなくても、ネコの見分けがつかないのなら僕が教えるからさ。問題なしだよ、ね?」
「……ンな説明、誰も訊いてねぇーよ」
 意味がわからないのは、命令ではなく少年自身だ。だが、その勘違いを訂正し、本来の疑問の解説を望んでいるわけでもない大和は、「じゃ、何がわからないの?」と首を傾げる少年を見なかった事にする。それでなくとも、アホに付き合っているような暇はないのだ。近道を選び帰路に着いている意味がなくなる。
「自分で捕まえろ。俺は知らない。じゃあな」
 踵を返し背中を向けると、足を踏み出す前に「ケチッ!」と詰られた。暴言を吐いてきた少年に、大和は顔だけで振り返り「ふざけんな、クソガキ!」と声を低くして唸る。
「いきなり一方的に変な命令して、誰が聞き入れるかよ! バカじゃねえのお前!?」
「命令って何だよ。僕はちょっと頼んだだけだよ!」
「ああ、そうかよ。だったら、人に頼まず自分でしろっていうんだよ!」
「出来るのならしているよ!」
 そうかもしれない。何故入院しているのか知らないが、まだ寒い日もある春先にパジャマ一枚で外へ出れば体調を崩すかもしれない。まして、綺麗かどうかもわからない野良猫を捕まえるなど、入院患者としてはもっての外だろう。だが、だからって他人に迷惑を掛けていいわけがないと大和は顔を顰める。無視をしたわけでもないのに、相手をしてやってキレられる意味がわからない。
「自分で出来ないのなら、諦めろ」
 至極当然の意見として口に出したそれに、けれども少年は軽く笑いながら首を振った。
「バカなのはそっちだよ。諦められるのなら、頼まないだろ。諦められないから、頼んだんだよ」
「……マジ、ムカツク」
「奇遇だね、僕もそうだよ」
 窓枠に肘を尽き、手に顎を乗せ少年が悠然と笑う。
「第一、年下にガキとか言われたくないんだけど」
「年下?」
「だってキミさ、ピカピカの制服を着ているんだから、一年坊主だろ?」
「……」
「僕、ホントならこの春で中二だから。ひとつ上」
 言うなれば先輩だよ?と微笑む少年の表情に嫌味が見えていたのならば、付き合えないとそのまま帰ったのだろう。だが、生命力が溢れているかのようなその笑顔に、大和は完全に毒気を抜かれてしまった。
「……変なヤツ」
 それはとても素直な感想であったのだが、少年は大和の言葉に「それ、失礼だよ」と眉を寄せた。

 それが、大和と美弥の出会いだった。

2009/02/16
Special Thanks to Akemi_sama