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 静まり返ったエレベーターホールは、まるで自分を馬鹿にしているかのような雰囲気がある。それもこれも、堂々と居座っているこいつのせいだ。まるで我が物顔でこの場所を占拠しているのが気に食わない。
 丁度良いので残業の苛立ちをそれにぶつけようと、結城は燻らしていた煙草をエレベーターの扉に押し付けた。だが、そんなことで胸の怒りが収まるはずがなく、八つ当たりは、手元の煙草の火を消しただけに過ぎない。
 いや、立派な器物破損という犯罪をぺたりと自分の額に張り付けもしたな、と少しばかり汚れた扉の一点を見ながら結城は唇を上げた。何だか、そんなレッテルが付いた自分が少しばかり愛しくなる。確かに馬鹿だが、可愛いじゃないか。
 興味半分で犯した罪に興奮を覚えた子供のように、胸が少し高鳴った。遅くまで残っての仕事の疲れが軽減した気がする。
 指に挟んでいた煙草を床へと落とし、靴の下に挟みながら、結城は軽く喉を鳴らせた。それに応えるかのように、チンと軽い音を響かせて目の前の扉が開く。
「…あぁ。今晩は」
 浮かべていた笑みを微かな驚きに変え、結城は中に居た若い男に挨拶をした。自分とそう歳は変わらないだろうその男もまたこんな時間まで働いていたのかと思うと、親近感が湧いてくる。
 それは結城ばかりではなく、同乗する事となった男もそうなのだろう。
「お疲れ様です」
 と、にこやかに笑って応え、扉を閉めるためのボタンを押した。
 恋人程ではないが、この青年もかなりの美貌の持ち主だなと、結城はその笑顔に軽くはにかむ。だが、綺麗なものを嫌悪する趣味はないが、同性を愛でる趣味もないので、直ぐに視線を他へと流す。真夜中近くのエレベーター内は、けれども昼間以上に明るかった。疲れた目には、少し眩しい。
「1階で良いんですか?」
「ええ、済みません。ありがとうございます」
 カクンと振動したエレベーターが降下をはじめ、結城はだらしなく壁に凭れた。そして、他人が居る事を承知しながらも、深い溜息を吐く。無礼なのかも知れないが、出るものは仕方がない。
「…失礼」
 軽く手をあげながら結城が謝罪をすると、男は首を横に振った。
「遅くまで大変ですね」
「ええ、まあ。でも、お互い様でしょう?」
「自分は、ただ要領が悪いだけですよ」
 そう言って男は苦笑を浮かべた。謙遜なのだろう、顔がいいからと言うわけではないが、仕事が出来なさそうな人間だとも思えない。
 結城はそう思いながらも、ただ適当な笑みを返しておくだけにした。何処の誰かもわからない人間に、そんなことはないでしょうとその謙遜に付き合う必要はなく、またその気力も今はない。
 直ぐにエレベーターは地上に着き、男と並んで社屋を後にする。
「それでは、お疲れ様でした」
 駅に向かう自分とは逆方向だという男に頭を下げ、結城は踵を返した。自分はまだ、1時間近くかけて家に帰らねばならない。それを思うと、ただ偶然退社が一緒になっただけの男を少し羨ましく感じる。
 通勤にはすっかり慣れたのだが、それでもそう感じる程に、今夜の自分は相当疲れているということなのだろう。そう実感すると、更に疲れが増した気がした。そんな結城の頭に、ふと恋人である男の顔が浮かぶ。
 今から彼の部屋に行ったとしても、追い出される事はないだろう。だが、こんな時間に尋ねられる方は迷惑だろうし、何よりそう甘えてばかりもいられない。
 魅力的な選択を切り捨て、結城は足を前に進めた。恋人と言えども、保たねばならない距離はあるものだろう。楽だからといって、自分を甘やかすのもどうかというものだ。
 決心が鈍らないうちに早く帰ろう。
 結城は心でそう意気込んでみた。だが、しかし。
「――結城さん!」
「えっ…?」
 思わぬ呼びかけに、勢い良く身体の向きを返る。結城が振り返ると、一緒にビルを出てきた、別れたばかりの男がこちらを見ていた。
「あの」
「何で…?」
 小さな呟きは、少し離れた場所に立つ男には聞こえていないのだろう。だが、それに気付くだけの落ち着きを結城はもっていなかった。ただ、呆然と男に目をやる。
 社員証はつけてはいないし、今夜初めて会い言葉を交わしたというのに、何故名前を知っているのか。
 先程は整った顔立ちをした男だというだけの認識しか持たなかったその顔を、まじまじと眺める。だが、それに覚えはない。同じビルで仕事をしているのだから、ロビーなどで擦れ違ったことがあるのかもしれないが…。
「あ。…間違っていましたか?」
 自分が驚く意味に気付いたらしく、少し気まずげな表情をする男に、結城は軽く眉を寄せた。
「たしか、橋本さんがそう呼んでいたように覚えていたので」
「えっ、橋本? なんだ橋本と知り合いですか。ああ、あっていますよ。『大紀』で営業をしている結城といいます」
 離れた距離を縮めてくる男を見ながら、結城は軽く頭を下げる。
 何故名前を知っているのかと驚いたその答えは、意外なものであったが実に簡単なものでもあった。自分ではなく、自分の恋人と知り合いだというわけだ、名前を知っていてもおかしくはない。
 そんな結城と同じように、男もまた自己紹介をする。
「自分は、『菅原』の上原伸也です。橋本さんとは短い間ですが大学のサークルが一緒でして、良くしてもらいました」
「ああ、そうなんですか。なら、K大ですよね。学部は? 何期?」
「法学です。52期ですね。5回生までしたので、『菅原』にはこの春に入社したばかりなんです」
「ならひとつ下か。俺もK大なんだ。51期の政経ね」
「え? そうだったんですか。知りませんでした」
「ま、そんなもんだろう。橋本とも『大紀』にはいって知り合ったんだからさ」
「でも、結城さんも俺の先輩になるんですね、それじゃあ」
 総合大学なのだ、学部も違えば卒業した身で先輩後輩もないだろうと結城は思ったが、「ま、一応そうなるのかな」と肩を竦めておいた。有名大学のような格式も何もないけれど、それなりのレベルにはある大学であるし、今ここで互いの見解を語り合う気にもなれない。
「同じビルですしこれから顔も会わせると思いますが、よろしくお願いします」
 同じ大学ということで心が軽くなったのだろうか。ニコリと笑った上原のその顔は、夜には似合わない程の爽やかなものだった。だが、どこか嘘臭さもある笑顔だ。しかし、疲れた自分にはいい薬でもあるなと結城も同じように笑い返す。そして、さっさと帰ってしまった後輩をふと思いだす。
 鈴木の笑顔は本物だ。いくら顔が良くても、上原の方が負けている。だが、その後輩がいない今の代用品としては、申し分のないくらいに上等なものだろう。贅沢はいっていられない。
「橋本の後輩か。あいつ何も言わないから全然知らなかったよ」
 そもそも、この見目のいい男を代用品などという方が、世間一般的には贅沢と言うものだろう。罰が当たるかも知らない。
 そんな馬鹿げた事を軽く考えながら、結城は言葉を繋いだ。確かに橋本はあまりペラペラと喋る性格ではないが、それでも一言ぐらい教えるのが普通ではないか。何だか少し癪に障るな、と結城は嘆くように肩を竦める。
 だが、しかし。
「あ、いえ。多分、橋本さんはまだ知らないんだと思います。俺が『菅原』にいる事は。顔を会わせた時に挨拶をしようと思っているんですが、なかなかなくて…」
「何だ、そうなのか」
 自分で思う以上に不貞腐れた表情をしたのだろうか。
 慌てて否定する上原に応えながら、結城は心で苦笑を漏らした。どうやら、煙草で悪戯をしただけでは憂さは晴れていないようだ。こんな時は、ついあの男にからみたくなるのが癖になってしまっているらしい。
 だが、要領が良いのか悪いのか、結城にとっては至極残念な事に、その橋本はここにはいない。いるのは、ただの彼の後輩だ。絡む相手ではないし、それをして良い者でもない。
「ま、あいつは外回りとかはあまりしないし、捕まえられるのは朝ぐらいかな」
「そうなんですか。って言っても、少しの付き合いなので、俺、覚えてもらっているのかもわからないんですけどね」
 誰かに忘れられてしまう事なんてないだろう、と言った顔をしているというのに、謙遜なのか何なのか上原はそう苦笑した。橋本のように、自分が他人に与える力に無自覚であるというわけではなく、この男の場合は自らの魅力を知っているだろう。
 ならば、新人だとは言え、上原の方が世の中に慣れているというわけか。
 こうして考えると、普段自分の事を餓鬼のように言う恋人だが、彼の方が擦れていないと言うか、純朴だというか、子供っぽいのかもしれないと結城はほくそ笑む。その頬に、生暖かい風が当たった。
 日中の熱気を溜め込んでいたかのようなそれは、疲れを倍増させる気がする。先日まで夜になれば過ごしやすかったというのに、これからは熱帯夜ばかりのようだ。
 身体に良くないのだろうが、冷房が恋しくなる。結城は無意識で腕につけた時計を眺めた。その仕草に、上原が謝罪を口にのせる。
「ああ、済みません、お疲れのところに時間をとらせてしまって。電車、大丈夫ですよね?」
「まだ終電までには時間があるよ」
「それじゃ、おやすみなさい。お疲れ様でした」
「あ、橋本に言っておくよ。えっと、上原…伸也さん、だよね」
「ああ、はい。では、ご無沙汰していますと宜しくお伝え下さい」
 そう言って上原は結城に名刺を差し出した。ご丁寧にどうもと頭を下げて受け取り、結城も名刺を渡す。
 それではと踵を返した上原の姿を暫く眺め、結城は漸く家路への道を歩みだした。
 同じ大学に通っていたとはいえ、在学中は互いに存在を知らなかった。上原に言ったように、会社に入ってから橋本と知り合ったのだ。当たり前だが、結城は恋人がどんな学生だったのかさえ知らない。
 同窓生の話を何だか聞いた限りでは、今と変わらず、相変わらず冷めた男だったようだ。だが、幼い分、もしかしたら今よりも可愛かったのかもしれない。
 結城はそんな事を思い軽く笑いながら、煌々と明るい光に吸い込まれるように、駅構内へと足を踏み入れた。朝は人が溢れかえっているが、流石にこの時間ともなれば閑散としている。
 だが、幾人もの浮浪者や若者が床に座り込んでいたり、酔ったサラリーマンが千鳥足で最終電車を目指していたりするのは、朝の機械じみた光景とは違い人間味を感じられるので、結城はこの雰囲気を結構気にいっている。靴音を響かせながら颯爽と歩く美人な女性は、今からが仕事なのだろうか。
 いい女だとその姿を眺めながら、結城は大きな欠伸をし、上着のポケットに手を入れる。
 定期券を取り出そうとした手に、先程貰った名刺が当たった。

2003/07/01
Special Thanks to Michiaki_sama