□■ 1 ■□

 教えた訳ではないというのに何故か暗証番号を知っているその男は、直接部屋のチャイムを押し、来訪を告げる。
 筑波直純が不快な音の攻撃を受けたのは、まだ朝の八時をまわった時の事だった。リビングに備え付けられているインターフォンに向かい「…うるさい、今行く」と声を吹き込んだが、玄関に辿り着き迎え入れるまで訪問者は一定のリズムで呼び出しボタンを押し続けた。
 こんな事をする知り合いは、一人しかいない。
「遅い。朝っぱらから盛っていたのか?」
「……どうした、帰りか?」
 普段のこの時間ならば寝ている筈の四谷クロウに、筑波はそう問い掛けながら玄関の扉を大きく開き幼馴染みを招き入れた。開口一番発せられた言葉は、完璧に無視をする。実際には本気で遅いと思っているわけでも、ナニをしていたと考えているわけでもないのだから、否定は必要ないだろう。それこそ、言葉を返す方がからかわれるとわかっているので、筑波は当り障りのない質問に摩り替えた。
 だが、今朝に限ってそれは失敗だったのか、「アイツ居るんだろう?」と四谷は話を元に戻す。
「寝ているのか?」
「いや、起きている」
「なら、貸せ」
「……何だって?」
 徹夜明けで機嫌が悪いのかと考えていたところに落とされた言葉に、一瞬ついていけずに筑波は足を止めた。だが、四谷はそんな後ろの相手を気にする事はなく、さっさとリビングへと入っていく。その後を追う形で筑波がそこに足を踏み入れた時には、四谷はキッチンにいた人物に命令を下していた。
「お前、今日は休みだろう。俺に付き合え」
 コーヒーカップに口をつけた姿勢のまま、朝早くからの訪問者を見上げる保志翔の目は、別段何も語ってはいない。どうしたものかと筑波に助けを求める事も、何を言っているんだと四谷を馬鹿にする事も無く、数瞬後にはそれまでしていたように、再びテーブルに広げた新聞に視線を落とした。相手が幾ら神か天使かと見紛うような外見はしていても、中身がそうではない事を知る彼としては、先程の自分と同様に取り合う事を選ばなかったのは納得出来る。だが、それでももう少し反応を示すものではないだろうか。こんな風に扱われる四谷は兎も角、保志のこれは人としてどうだろうと今更ながらに筑波は思う。
 この恋人は、何でもかんでも自己完結をし過ぎる。
「まあ、そういう訳だからさ、筑波。お前は気にせず仕事に行け」
「…行かねぇよ」
 思わず突っ込みを入れたのは、四谷の傲慢さか保志の無関心さかに呆れたからだろうが、どちらがその答えなのかは敢えて追求したくはなかった。溜息をひとつ落とす事で胸の中に生まれ始めていたモヤを吹き飛ばし、筑波はキッチンへと入りながら四谷に問い掛ける。
「クロ、保志に用なのか? 今日は俺も仕事が休みだから、お前に貸したくはないんだが」
「ほお、休みか。ならば都合がいい、お前も付き合え」
「何?」
 客用のカップにコーヒーを注ぐと、横からのびて来た手にそれを奪われた。四谷がカップを片手に腰を下ろしたのは、当然のように保志が座る向かい席である。気にする様子もなく広げられた新聞の上に一口中身を啜ったカップを置くと、ご丁寧にその横に両肘をつく。ちらりと視線を上げそんな行動をする男を見る恋人の横顔を眺め、筑波も飲みかけのコーヒーを口にした。だが、それは闖入者のお陰ですっかり温くなっており、顔を顰める。
「何処かへ行くのか?」
 何やら無言で攻防をしているように見つめ合ったまま動かない二人に呆れながら、筑波は残ったカップの中身を一気に喉に流し込み、四谷に尋ねた。本来なら放っておきたいものだが、この男相手ではそれをする方が何かと厄介であるのは身をもって知っている。何より、恋人が絡まれているのだから、薄情な事も出来ない。
 口直しに新たなコーヒーを注ぎ、筑波は答えを促す為にその名を呼んだ。
「クロ」
「秘密。行き先がわかっていたら面白くないだろう?」
 それはどうだろうか。わかっていなくても、別段楽しくもない。寧ろ、不安だ。
「何処だ」
「そんなに聞きたいのか?」
 聞きたいというのは、語弊がある。それは安全の為のひとつの策に他ならない。だが、そんな事は百も承知の上での言葉のキャッチボールだ。何よりも無言が拙いと、筑波は「ああ、そうだな」と気のない声で返事をした。その答えに対し、四谷はニタリと唇を歪める。
「ならば教えてやろうじゃないか。イイか良く聞けよ。今から男三人で、楽しくディズニーランドだ!ここからだと、三十分もかからずに行ける」
「行かねぇよ」
 行けたとしても行く気はないので、簡潔に筑波は先程と同じ言葉を落とした。距離的には確かに、半時間もかからないだろうが。東京の交通事情を舐めるなよと言うものだ。しかし、突っ込みどころはそこではないので、四谷の時間配分に指摘はしない。すれば、最後。実践し結果を得れば良いと、連れ出されるのに決まっている。
「今直ぐ帰れ」
「帰るのならば、ここには来ていない。行く事はもう決定事項だ」
「…………」
「おい、保志聞いているか。楽しくだぞ、楽しく。たいした顔じゃないのはこの際我慢してやるから、シケた面はするんじゃないぞ。わかったな?」
「オイ…」
 たいした顔じゃないとはどういう事だと、四谷の言葉に素早く反応したのは筑波だけだった。言われた本人は、相も変わらず視線は手元の新聞の上だ。自分達の会話は、耳の側を飛ぶ蚊以下の存在なのだろう。筑波はふとそう思い、護衛にまわる気分が一気に殺がれた。実際、他人を貶す四谷が悪い事に変わりはないが、彼自身は嘘をついていないのだろうから、言われた側が気にしていなければどうにもならない。怒る意理由がどこにもない。ならば謝れと言ったところで無意味であるし、訂正を願ったところで、保志の容姿が四谷のようにずば抜けていないのは事実なのだから、結果は見えているだろう。この幼馴染が素直に言う事を聞くはずもなく、不毛に近い会話をただ垂れ流す事になるだけなのだ。反論はしまい。
 筑波はそう決め、溢しかけていた言葉を無理やり飲み込んだ。後味が不味いそれを更に流し込む為に、カップに口をつける。だが、最低限、言っておかねばならない事もある。
「……こいつで遊ぼうとするな」
 全てがこの一言に尽きる。だが、今は完全に逃げる為の発言だなと自分でも感じてしまい、筑波はそのまま溜息を吐いてしまった。何だかひとり振り回されているような状況が、釈然としない。確かに今更だが、それでも酷い事を言われているのに反応を示さない恋人が、無性にじれったくて仕方がない。
「そういうな、遊ばせろよ。独り占めは良くないぞ筑波」
「煩い、さっさと帰れ。保志は貸さない、俺も行かない。行きたければ一人で行って来い」
「怖いな、どうした?生理か?」
「…摘み出すぞ」
「冷たいなぁ、そんなこと言うなよ。ったく、昔はそうじゃなかったのに、いつの間にか意地が悪くなっちゃって。俺は寂しいぞ」
「昔って、いつの話だ。朝っぱらから押しかけて、いい加減な事を言うな。大体――」
 ディズニーランドに良い思い出はない、と。お前だってそうだろうと、特別なときにしか行かないじゃないかと言いかけ、今がその特別なのかと筑波は気付き口を閉ざした。余りにもその申し出が久々過ぎて、その態度が自然過ぎてわからなかったが、思う以上にこの男は今危ういのかもしれないと、筑波は幼馴染を見る。
「…………成京さんと何かあったのか?」
 禁句だろうかと思いながらも、聞かずにはいられなかった。四谷の不調に感づいてしまった手前、このままではそれに引き摺られてしまい、本気であの夢の国へと行く事になるだろう。自分ひとりならばそれも致し方ないが、今日は違う。恋人がいる事を考えれば、無駄だとわかっていようと、四谷には悪いが筑波としては抵抗せずにはいられない。この幼馴染みがあの場所を目指す時は、それなりの理由がある時なので、言動も行動もいつも以上にエキセントリックなのだ。そんなものに保志を付き合わせるのは、何としてでも避けたい。
 覚醒時まで、好き好んで悪夢は見たくはないというものだ。
「それとも、高山さんか…?」
 凡その問題はわかっているのだ。ならば、ここはストレス発散に付き合うのではなく、その件のもとに送り返そうではないかと、筑波は敢えて問い掛けを続けた。
 だが、幼馴染には何の効果もない。
「だったら何だ? まさか、アイツを呼び出し俺を引き渡そうと考えているんじゃないだろうな、筑波。そんな事をしてみろ、こいつがどうなっても知らないぞ」
 口の端を歪めながら、四谷ははっきりと目の前の保志を指差し脅した。しかし、直ぐに気が逸れたのか、「あぁ、そういえばさぁ」と間の伸びた声を出し笑う。一方、窮地に陥り掛けた筈の保志は、変わらずに新聞を読んでいる。興味のある記事など載っていないのだろうに、よく飽きないものだ。電池が切れて動けないロボットと変わりない。
「この前さ、面白いものを習ったんだ。丁度良いから、実験してみるか」
「何…?」
 一体、何がどう繋がり、丁度良いのか。脈略がないぞと、恋人に吐き掛けていた嘆息を悪友へと切り換え、筑波は深い息を落とした。急用で呼び出しを受けない限り、夜までは保志と二人でゆっくり休日を過ごせると思っていたというのに、朝からなんて落ち着かないのか。四谷と保志の性格は充分に知っているので、今更怒りはしないし、文句も言いはしないが。それでも、疲れが沸き起こるのは、止められはしない。
 勘弁してくれと胸中で嘆く筑波の視線の中で、四谷は財布を取り出し一枚の硬貨を指先に挟んだ。鈍く光るのは、何の変哲もない五円玉だ。ただし、細い黒い糸が結ばれている。
「オイコラ、逃げるな」
 話を聞いていたのか、危険を察知したのか。保志が椅子を引いた音に反応し、四谷の足が素早く動いた。両足を踏み付けられてはどうしようもないのだろう。痛みではなく不快に眉を寄せる恋人の姿に、筑波は口を開きかける。
 だが、しかし。
 四谷の思わぬ行動に、喉まで上がってきていた言葉は引っ込んでしまった。
「いいか良く見ろよ、保志。この五円玉を目の玉だけで追え」
「……おいクロ、それは、」
 ちょっと待てと続けかけた言葉は、事の外硬い声によって遮られてしまう。
「外野は黙っていろ。上手くいったら、お前の頼みも聞いてやる」
「……」
 いつもならば、賛同しかねるその言は、けれども今日ばかりは両手を挙げて受け入れたい気分になった。男二人が揺れる五円玉を間に挟み、顔をつき合わせているのだ。例え片方がそれを嫌がり自分に助けを求めてきたとしても、余り介入したくはない場面である。そして、保志がそれを請わないのだから、今は傍観者でも良いのだろう。
 四谷も相当なものだが、相手も負けてはいないので、自分がこれ以上進んで助ける必要はない。俺のそれが欲しいのならば、先程からの遣り合いの間に何らかのアクションをとっていただろう。無視し続けていたのだから、保志はこれで構わないという事だと、筑波は傍観を決め込む事にした。精神的な疲れが影響しているのかもしれないが、決して、幼馴染みが示した見返りに転んだ訳ではない。四谷に聞いて貰いたい頼みもない。
 しかし。
「お前もミッキーに会いたいよな? ミッキーだぞ、ミッキー。ミッキーは可愛いぞ。あの大きい耳も口もキュートだろ?それとも、垂れ下がった尻尾がいいか?あの4本指と握手したいだろ? だったら、俺と一緒に行くんだ。わかったな、保志。もう一度言うぞ、お前はミッキーが大好きだ。会いたくて会いたくて堪らない、恋しいミッキーさまのもとにゴーだ、GO!」
「…………」
 傍観にも、限度というものがある。流石に、四谷の馬鹿げた洗脳が始まった時には、やはり止めた方が良いのかと筑波は眉を寄せた。いつ保志がキレるか、わかったものではない。
「……もうそれくらいでいいだろう」
「そうか? なら、次はお前だな。さっさとやって、行くぞTDL!」
「お前、本気か…? 本気で俺にもそれをするのか」
「当然だ」
「いつからペテン師になったんだ。新興宗教でも始めたのか?」
「失礼だな。歴とした医療だ」
「洗脳が、か?」
「催眠療法だ、言わば暗示。洗脳だなんて人聞きが悪いぞ」
「……」
 外聞の心配よりも、まず己の行動の異様さを認識するべきではないだろうか。何が催眠療法だと、どちらかと言えばただの脅しでしかないじゃないかと、筑波は眉間に皺を寄せたまま瞼を臥せた。頭が痛い。視界が暗転しそうだ。
 金髪碧眼の美男が、五円玉を揺らして要求を口にするのは、ヤクザのそれと何ら変わりはない。
「あのな、おい。筑波さんよォ」
「…何だ」
「折角こいつを喋れるようにしてやろうと忙しい中、態々俺サマ自らが習ってきてやったというのに、何だその態度は。人の好意を踏み躙る気か? ったく、嫌だねぇ、これだからヤクザはさァ」
「……だったら、ミッキーなんてやっているな。そっちをしろ」
 どうせ出来ないだろうと、効果はないと理解しさっさと飽きてくれと、筑波は嫌味としてそう返した。だが、それをわかっているのだろうに、四谷はシャアシャアと言ってのける。
「馬鹿かお前。俺にとっては保志の声なんかよりも、ミッキーの方が大事なんだよ。覚えておけ」
 胸を張って言い切る幼馴染のその言は、決して覚えていたい類のものではない。ここで覚えたとしても、今後それが役立つ事はないだろう。記憶するのは無駄であり、虚しいものだ。
「お前なぁ…」
 いい加減な事ばかり次から次へと言いやがって。そう呆れ果てる筑波の視界に、ペンを手にする保志の姿が入った。
「どうした、保志?」
「ン?」
 シンクから体を起こし近付いた筑波は、保志の背後から。四谷は少し前のめりになる格好で。それぞれ喋れない青年が記していく文字を追う。
【僕は、ミッキーよりもドナルド派です】
「……保志」
「へぇ、水兵ダックが好きなのか」
【あのお尻は絶品です】
「おっ、お前もなかなかイける口だな?」
「…………」
「よし!なら、決定だ。さあ行くぞ!」
 四谷の言葉に頷き立ち上がる保志とは逆に、筑波はその空いた席に腰を降ろした。一気に疲れたように感じるのは、ただの気のせいではないだろう。
「――絶品って何だよ、オイ…」
 掠れた声で落とされた呟きは、キッチンを出て行った二人には届かない。一体恋人は何を考えているのかと、筑波は頭を抱え深い溜息を落とした。

 とりあえず今わかるのは、四谷の催眠術はやはり効きはしなかったかという事だけだ。


□■□


 何が悲しくて、平日の昼間のテーマパークに男三人で来ているのか。学生ならばまだ救われるが、三十路前後のオヤジに足を突っ込んだ面々となれば、アトラクションに意識が向く周囲も胡散臭がるだろう。頭の中身を疑いたくなるのは、自分だけではない筈だと筑波は思う。事実、チケット売り場の女性の目は、多分きっと暫く忘れられないだろう。普段から周りに特殊な視線を向けられる事には慣れている筈なのに、笑顔ながらにも観察するスタッフの視線に居た堪れなさを感じたのだから、相当だ。
 しかし、そんな感覚を母親の腹の中に忘れてきた男と、その有無がわからない男と言えば。他人の疑心などに関心を示すような可愛く素直な性格ではなく、またそれを味わう人物を気遣うようなものでもなかった。厄介な事この上ないものである。
 ヤクザなどを真面目にやっている自分が、世間に常識人として認めて貰おうだなんて厚かましい事は、全く思ってはいない。だが、確実にこの二人よりは、俺は「まとも」である筈だ。一般人から見れば五十歩百歩のレベルかもしれないが、それでもその五十歩は自分の中では大きく、譲れないものであると筑波は思う。
 落ちそうになる溜息を口を引き結ぶ事で耐え、前を行く二人の後ろ姿から目を逸らした。
 開園直後に比べればそうでもないのだろうが、それでも入口ゲートを潜る客は後を経たず、周りは人で溢れかえっている。歩く速度は遅く立ち止まる者の多いメインゲートを泳ぐように進みながら、ただひたすら拓けた場所を目指す。今の時間ならば、奥へと進む方が客は少ない。入園者は大抵、目指すアトラクションがない限りは、手前から観察していくものだ。それをわかっているのか、ただ人の多さに辟易しているのか、真っ直ぐ進む保志を斜め後ろから見ながら、筑波は中学生らしき団体客の横を通り過ぎる。
 黄色い歓声を上げる少女達と自分が同じ空間にいる事が、何だか解せない。四谷は兎も角、保志がこの場にいる事が未だ理解出来ず、しっくり来ない。けれども、再び逸らした視線の先には、一体どこに注目すれば良いのかわからないくらいにごちゃごちゃとした店が並んでいるのだから、考えるのも馬鹿らしくなる。周りにはキャラクターで埋め尽くされた、西欧風の建物。遠くには、御伽噺を再現した高い城。足元のレンガに張り付くガムに癒されるのもどうかと思うが、それを見つけた筑波は無意識にホッと息を吐いた。しかし、それも直ぐに清掃員によって取り除かれるのだろう。
 他人に対しては奥深くまで突っ込むが、自分自身に関しての事は口を割る事が少ない男なので理由はわからないのだが。四谷は何故か心が荒れている時、好んでこの場所に来る。一人の時もあれば、気紛れに誰かを誘う時もあり、過去には筑波も何度か無理やりそれに付き合わされた。だから、慣れていない訳ではない。幼馴染のこの行動も、咎める訳ではない。だが、保志を指名するのは初めての事であり、それが少し納得いかないのだと思う。
 四谷にとってここは特別なのだと、筑波はどこかでそう決めていた。普段は弱音など吐かない悪友が、ここへ足を踏み入れるのもそれに同行者を連れるのも。その理由は、癒されたがっているからなのだと、何かをここに求めているからだと思っていた。だから、自分が選ばれるのだと、理由は話さないがそこには確かな意味があるのだと思っていた。それなのに、今日はどうだ。
 端から保志を誘いに来たという四谷の真意が、全くわからない。何かに参っているのではないのか、へこんでいるのではないのか。それはただの自分の思い過ごしで、ただ遊びに来ただけなのか? そう考えてみるが、確固たる理由はないが、今までこの場に付き合った幼馴染みとしては、四谷はここを遊び場にはしないように思う。何より、三十を過ぎた男が、それはないだろう。
 あいつは一体何を考えているのか。筑波は、視線を少し前を歩く二人の背中に戻し顔を顰める。そうして、幼馴染み同様コイツはどういうつもりなのかと、恋人に対して溜息を落とした。四谷の提案に、あっさりと保志が自らそれに乗った事が、何故だろうか筑波に苛立ちを呼び込んだ。普段の彼ならば、面倒だと取り合いもしないだろうに、この心境の変化は何なのか。正直、怪しくて疑わしくて、気が気じゃない。
 二人の仲が拗れるよりも、上手くやっている方が断然良い筈なのに、面白くないと筑波は思ってしまう。これは不安なのか、それとも嫉妬なのか、何らかの予感なのか。考えようとしてみるが、胸で燻るモノが邪魔で集中など出来ず、ただただ嘆きが落ちる。
 こうなったら、本気でアヒルの尻を拝みに来たのだという答えが、一番望ましいものなのかもしれない。夏には28歳になる男がそれはそれでどうだろうかとも思うが、無難なのはそれくらいだ。だが、残念ながら、あのアヒルに対して喜ぶ保志は想像すら出来ない。きっと、この園内で着ぐるみに出会っても、彼ならば鼻で笑う事も無くスルーするだろう。アヒル云々は有り得ない。
 ならば、何故、保志はここに付いて来たのか。外見的には自分より断然テーマパークの雰囲気に溶け込んでいる恋人を見ながら、内面を知る筑波はやはり合わないなと再度評価を下す。クールな現実主義者に、夢の国は寒々しくさえある。
 特に、偶然重なった休みを鬱陶しがっていた様子はなかったし、当然ながら喧嘩などもしていない。二人で過ごす約束をしていた訳ではないが、四谷の話に乗り体良く避けられたような気がするのは何故なのか。考えれば考えるだけ、わからなくなっていく。
「どうした、筑波。機嫌が悪いな」
 気付けば、四谷と保志が立ち止まり振り返っていた。筑波は二人の場所まで足を進めながら、頭を振る。纏めていない髪が、少し鬱陶しい。
「良くなる理由がないだろう」
「そうか? 恋人とディズニーランドに来た奴は、帰りまでは保障しないが、今はまだ楽しいものだと思うがなぁ普通」
「……お前が言うな、お前が」
「俺が言わずに誰が言うんだよ?」
 自分の疲れを増長させるのを知った上での発言に、筑波は四谷の笑い顔を睨んだ。だが、そんな二人に構う事無く、歩みを再会した恋人に直ぐに意識を奪われる。
「保志」
 反射的に呼び止め腕を掴むと、少し驚いたような顔を向けられた。
「どうした、筑波?」
「……あぁ、いや…。何でもない…」
 四谷に声をかけられ、自分らしくない行動だったと気付き、拘束を解く。自由になった腕を暫し眺めた保志は、肩を竦め躊躇う事無くまた背中を見せた。離れていくその姿に、何故だろうか不安が増す。
 ほら行くぞと肩を叩かれ、保志を追う形で四谷と並んで歩く。数メートル先の恋人の背中を眺めているうち、自分はこの男をこうしてじっくりと見た事があっただろうかと筑波は考えた。スラリとした保志の後ろ姿は、思い描いていた以上に存在感のある物のように感じる。
 今まで捕まえていた筈なのに、気付けばスルリと逃げている男に夢中になったあの頃。保志の背中など見る余裕はなかった。忽然と姿を消したように離れた場所で立つ保志は、けれどもいつでも自分に正面を向けていたように思う。そう、素直に背中を見せて去るような、そんな男ではなかった。だが、今は、こうしてそれを見せ付ける。別れる時ですら見えなかったものが見える事実に、筑波は少し戸惑い、息苦しささえ覚えた。
 二人で歩けているからこそ、保志の背中が見えるのだと。互いをわかり合えているが故なのだとは、どうしてだろうか、思うことが出来ない。安心は訪れそうにない。
「……保志」
 筑波の呟きは、隣を歩く四谷にすら届かず、夢の国の風に掻き消された。

2006/06/09