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四谷の勢いに早々にダウンした筑波は、彼が保志を追いかけるように続いてトイレに向かった隙に、近くのカフェに腰を降ろした。アトラクションの建物の下に設けられたオープンスペースに並べられた席は、半分以上が客で塞がっている。保志が戻ってきた時には見付け易いようにと端のテーブルを選んだが、時間帯を考えるとその内人込みに埋もれてしまうのかもしれない。
そうして、始めの方こそ辺りを気にしていた筑波だが。待てども保志と四谷が戻ってくる気配はない。どうやら彼等は、そのまま何処かへ行ってしまったらしい。四谷は兎も角、保志は放っておいて大丈夫だろうか。探しに言った方がいいだろうか。そう思うが、保志とて小さな子供ではないのだ、何とかするだろうと深く考える事を放棄し、筑波はもう少し休憩を取る事にした。
休みだと四谷には言ったが、夜には仕事が入っている。緊急の事態に呼び出されるかもしれない事を考えれば、休める時には休んでおかねばならない体だ。ここが何処であろうともそれは同じで、たった半日の休暇だが仕事と変わらない重要な役割を持っているのだ。春とは言え強い日差しの中、無駄に動き回るのは出来るならば避けたい。
四谷も保志も、気にならないわけではないが。俺の方にも余裕はないんだと、筑波は冷めかけていたコーヒーを一気に飲み干した。疲労は蓄積するばかりで、一向に減らない。特に最近は、精神的な面でのキツさが増している感じがする。
携帯を取り出し、二人に連絡を入れておこうとメール画面を呼び出すが、何となく気が変わり筑波はそれをスーツに仕舞った。椅子の背に凭れ、足を組み替える。何処を見ても人ばかりの景色を眺め、空に突き出す城に目を遣る。女は幾つになってもときめくものだと教えられた蒼い屋根のそれは、この国の象徴なのだろう。お姫様に憧れるわけではないけれど、好きな人と一度は来てみたいものなのよ。そう言って筑波が城の中にまで連れて行かれたのは、十年以上前の事だ。その彼女はもうこの世には居らず、自分の隣に居る人物はあそこに行こうなどとは考えもしないような奴であるのに。その城が相も変わらずそこにある事が、何だか不思議で堪らない。
ここでこうしている自分は、確かに十年後のそれなのに。あの中に入ったのは、昨日のようにさえ思える。いや、それだけではなく。初めてここに来た、もっと昔も。四谷と来た数年前も、そして今も。全てが混ざり合っている感じだと、筑波は細い息を吐き目を閉じた。園内は確かに変わっていっているのだろうが、そこまで中身に興味のない自分には、明確な違いを見付けられない。だからこそ、過去と現在が行き来するのだろう。この国の時間は、歪んでいる。自分はそれが苦手なのだなと、筑波は何となくだが実感した。
四谷がこのテーマパークを好むのは、自分の存在が目立たないからなのだろう。はっきりと聞いた事はないが、この中ならば街中よりも人目を引く事が少なく楽だからだと、この曖昧さにこそ癒されるのだろうと筑波はそう解釈している。それは勝手に思っている事ではあるが、そう外れてもいないのだろう。しかし、そんな四谷とは違い、夢の国は自分には正直重いところだと筑波は思う。精神が疲れている時は特に、「夢」になど触れるものではない。何かに取り憑かれてしまいそうだ。
「ハハッ、筑波さんじゃないですか」
不意に、短い笑いが筑波の耳に届いた。続けて呼ばれた名前に驚き、どこか聞き覚えのある声の主を探し目を向ける。人がついているテーブルの間を器用に泳ぎ、こちらに向かって歩いて来る男が居た。離れた距離を軽い足取りで縮めてくる男を眺める筑波に、相手はニヤリと口元を引き上げて笑う。
「お仕事ですか?――なんて。ンな訳はさすがにないですよね」
サングラスをかけてはいるし、見慣れたスーツ姿でもなかったが、誰なのかは考えずともわかった。その話し方も、喉を鳴らす独特な笑い声も、よく知ったそれだ。だが、こんなところに居るのが意外であり、筑波は自分の事を棚に上げ、不審交じりの疑問系でその名を口に乗せた。
「荻原さん…ですか?」
「当たり」
筑波の内心を知ってか知らずか、名前を呼ばれた荻原はサングラスを外し、悪戯っ子のような笑いを顔に浮かべた。自分と変わらない歳のはずなのに、この男が笑うと若さが溢れる。カジュアルな服装が普段よりも一層、年齢を誤魔化していた。見ようによっては保志よりも若く思えると、意味もなく筑波は感心してしまう。
「いや、まさか貴方とこんな所で会うとは思ってもみなかった。意外と似合うものだなァ」
「何がですか」
対面の椅子を引き、自然に席につく荻原に聞き返すと、「ディズニーランドのリーマン。まるで、リストラされた男が血迷ってやって来たみたいだ」とニヤつかれた。耽っていた考えが考えなだけに、否定も出来ない。笑えない。首を切られたサラリーマンかどうかは兎も角、難しい顔を自分はしていたのだろう。
それでも、筑波がからかわないで下さいよと言うと、荻原は小さく喉を鳴らしただけで、それ以上は何も言わなかった。こちらに事情があるように、この男にもまたこんな所に足を運んでいる訳があるのだろう。仕事の関係で時たま顔を会わせる事があるだけだが、荻原仁一郎と言う男がどれ程忙しいのかは、耳に入る話だけでも簡単に憶測する事が出来た。年中無休であちらこちらへと飛び回っていなければこなせない事業を、荻原は行っている。それを思えば、ヤクザの筑波がここにいる事以上に、荻原がこんな所で羽を伸ばしているのは有り得ない事だ。
だが、実際に、目の前にはラフな格好の荻原が居た。しかも、元来の飾り気のない性格ゆえか、違和感なくパークに溶け込んでいる。この国は、また可笑しな夢を見せるものだと、筑波は疲労が増してくるような気分になった。父親が組持ちであった為、生まれた時から既に裏社会で生きてきた男が、昼日中の遊戯施設に居る。しかも、自分の向かいに座り笑っているのだから、呆けてしまうのは無理がないなと筑波は他人事のように考えてしまった。これは、寧ろ夢であって欲しいものだと、無駄な事まで思う。
「っで、何? マジで仕事とか?」
「…いいえ、違います」
「その割には、空気が重い。しかも、一人だ」
「済みません」
「別に、謝られてもしょうがないんだけど」
批難した訳じゃないんだけどなぁと可笑しげに肩を揺らす荻原は、ふと気付いたように辺りを見回し言った。
「マジで一人な訳がないよな…? 考えずに座ってしまったけど、拙い?誰か来る?」
「いえ、誰も来ません。問題はないですから、良ければそのままどうぞ。実は、暇をしていたところなんです」
「こんな所で、暇を満喫か?」
「不本意ながら」
「へえ…、なんだ、そうなのか。面白くないな」
筑波の返答に、予想が外れたと荻原は小さく唇を突き出し眉を下げた。
「あの噂の恋人とデートなのかと踏んでいたんだが、俺が居ても邪魔にならないのなら、今日の相手は違うらしいな。残念だ。だが、それならそれで、こんなところに一緒に来るのは誰なのか。気になるねぇ」
「……」
「一人で座っているという事は、放って帰られた訳じゃなく、一緒に来た相手はまだ園内に居るんだろう。――誰なのか、当ててやろうか?」
「……多分、想像して頂いている奴で合っています」
筑波の答えにフッと荻原は笑い、「アンタも色々苦労するねぇ」とシミジミと呟いた。
荻原の頭の中に四谷が浮かんでいるのは間違いない。だが、勘の良い男も、流石に自分が口にした「噂の恋人」も一緒だとは気付いていないらしい。しかし、それは敢えて付け足し説明する事ではなく、筑波は軽く眉を寄せ訊ねた。
「何か、ありましたか?」
「いや、ちょこちょこ何かと耳にするから。アチラさんとのゴタゴタが終わったと思ったら、貴方の婚約話だ。それが決まらずに消滅したかと思えば、朝加との同盟話がちらつき出した。忙しいねぇ本当にさ。それに、どうも湊さんは何やら始めようとしているようだし、名執さんは既に動いているようだし。賑やかな周りを持つと大変だな、筑波さん」
「……仕事ですから」
「あはは、確かにそうだ」
筑波の言葉に声を上げて笑った荻原は、けれどもその笑みのまま低い声を落とす。
「けど、程々にしろよ。仕事なんて適当が一番だ」
「…それは、是非、私の上司に言って下さい」
「それもそうだな。ご尤も」
アンタに言っても意味が無いなと再び大きな声で笑う男を、筑波は目を細めて眺めた。
一見、何処にでもいる男だ。だが、そう生易しい人物ではないのをよく知っている。高校生の頃からヤクザであった父親の元で金を稼いでいたこの男は、二十歳の若さで引き継いだ組を解体し、今や手広く事業を展開する企業のトップだ。人の上に立つ為に生まれたような男だと、当時はまだ若かった荻原をそう皮肉りながらも感心していたのは、そのころの筑波の上司であった名執晋作だった。あの湊正道以上に才覚があるのだ、と。十年以上前に足を洗ったとは言え、未だ裏社会と深い付き合いを残す荻原は、今尚この世界では一目も二目も置かれている。
いや、極道であった頃よりも、何倍もの注目を浴びている。
「それで、そんな貴方は、貴重な休みに子守りですか。っで、同行者は何処へ行ったんだ? 久し振りにあの成京氏の秘蔵っ子を見たいんだが?」
「その辺にいると思いますが……呼びましょうか?」
「いや、遊んでいるんだろう?俺も暇だし、こっちで適当に探してみよう」
「四谷に何か用ですか?」
「いいや別に。本当に、久々にあの顔を見るのもいいかなと思っただけだ。なかなか会う機会がないんでね」
「はァ…そうですか」
何だそれはと軽く眉間に皺を寄せた筑波に、「黙っていれば綺麗な奴だからなぁ」と荻原は言葉を付け加えた。つまり、あの四谷を本気で観賞しようという事だと気付き、更に眉を寄せる。怖いもの知らずと言うか、無謀と言うか。物好きだと筑波は軽く溜息まで吐いた。
確実に。あの四谷以上に、この荻原と言う男は曲者であるのだろう。
しかし、心配する必要はないとはいえ、一応は敬意を示すべき相手。助言はするべきだろうと、筑波は義務として、「止めておいた方がいいかもしれません」との言葉を口に乗せる。
「機嫌が悪いようですから」
「へえ、そうなの。でも俺は別に苛められても泣くようなタマじゃないから、心配は無用だ。退屈には丁度良いくらいだぜ」
「……そうですか」
いや、全然そうではないだろう。だが、何を言ったところで荻原には効きはしない。何より、もし四谷と荻原がぶつかったとしても、どちらかがダメージを受けるなどなさそうなのだ。これ以上、自分が考慮する必要はないだろう。踏み込んだ分だけ、こちらが痛い目を見るかもしれない。
「っていうかさ、アンタは彼を探さないのか?ここに戻って来るまで待っているのか?」
「いえ、まだ考えていませんが…」
「おいおい。閉園までこのままだとか言うなよ?」
「放っておけば、そうなるのかもしれませんね。待っているのをわかっていても、大人しくやって来るような奴ではありませんから。しかし、まあ、私は適当に引き上げますよ。そこまで暇ではありませんので」
筑波の返事に、「へぇー、成る程」と荻原は何か納得したかのように深く頷いた。仕事があるのに四谷に付き合っているのか、とか。入園しておきながら連れを放ってヘバっているのか、とか。多分、そんなところを考えたのだろう。「いや、ホント、アンタも大変だ」と暫しの考査後、愉しげに荻原は喉を鳴らした。しかし、「も」と言う事は、荻原自身も何か大変な事があるのだろうか。そう思うと、その笑いが心なしか翳って見える。
「荻原さんは、何故こちらに?」
「ん?あぁ。職場の女の子達とした賭けに負けてな」
「賭け?」
「そう。まあそれで、近場での贅沢社員旅行になったんだけどさ。流石にここは、俺でも手に余る。だから暇潰し役にひとり犠牲者として生贄同行相手を連れてきたんだが、中に入った途端、見事に逃げられた。参ったねぇ、連れてきた意味がない」
結局、俺もする事がなく暇を持て余しているのだと、荻原が苦笑を通り越した苦りきった笑みを溢す。
「似た者同士ですね。実は、私も逃げられました」
「ン?」
「四谷だけではなくもうひとり居るので、二人に逃げられた事になります」
「……ああ、何だそうか。そうだったのか。てっきり俺は、アンタが四谷さんを撒いたのだと思っていたが。そうか、やっぱり噂の彼も来ているのか。と言う事は、さ。逃げられたというか、彼氏を四谷氏に取られたというわけだな」
「……結果的には、そうなるのでしょうか」
「そうとしかならないだろう、気取るなよ」
「はァ、そうですね」
おもしれぇーなァと笑う荻原に、言葉を濁らせながらも筑波は頷く。この男に断言されては、どう頑張ろうと、誤魔化すなど無理だとういものだ。大人しく従うしかない。
「しかし、彼のお陰で私はこうして動き回らずに済んでいるので、別段悪くもないんですが」
「敢えて彼氏を四谷氏に与えたのか?」
「いや、そう言うわけでも…」
「可笑しな人だなぁアンタ。そんなにここが嫌なら、来なければいいのに。恋人と幼馴染に誘われたら、断れないってか?」
「もう、余りからかわないで下さい」
「これは、失礼。いや、さ。こっちなんて、無理やり紐を付けて引っ張ってきたようなものなのに、逃げられたものだからさ。ついだ、つい。悪かった」
「いえ。私も、似たようなものです」
「だが、結局、二人はそのリードを外してくれたんだろう。イイ奴等じゃないか。逆に、俺は逃がす気なんて全然なかったのに、気付けば紐を食い千切られていたんだ。悪い事ばかりするもんじゃないねぇ。その点、アンタの二人はそこのところをわかっているというわけだ。限度を知っている」
「……そうだと良いのですが」
それは、絶対ないだろう。そう確信しながら、筑波は荻原の言葉に軽く肩を竦めた。四谷は兎も角、保志はそういう事には余り関心を向けないと思う。この状況は、多分四谷が意図的に作ったものだ。保志を追いかけた事を考えれば、四谷が保志を拘束したのだろう。そうして、自分のところに戻らないようにしているのだろう。保志が四谷に提案し、二人で行動を決めたとは思えない。それこそ、二人がバラバラに動いている可能性も、なくはない。
ここに一緒に来た俺の事など、どちらも忘れているかもしれないぞ。筑波はそう考え、荻原の発言から現実味を全て奪い取ってみた。やはり、この方がしっくりする。奴等が自分を慮ってこうした状況を作ったなど、天地がひっくり返ってもなさそうだ。
「……どう考えても、有り得ません。保志も四谷も、貴方が思うような人物ではないです」
「そうか?」
「ええ」
「ふーん。なら、益々、アンタの面白味が増すねぇ筑波さん。貴方は変わった人物を集めるのが得意なようだ」
「そんな事は…無いと、私は思いたいのですが」
「思うのは自由だ。だけど、そう思うのはアンタひとりだろう。少数意見じゃ勝てない」
「……」
「って言っても、ここには俺とアンタの二人だ。だったら、一対一だな。答えを出すにはもう一人必要だし、マジで探すか四谷氏を。貴方が良ければ保志氏でもいいが?」
「……あの二人では、私が不利ですよ。それよりも、私を構っていていいんですか?連れを探されないので?」
「放っといても機嫌が直れば、俺が見えるところに出てくるからなぁ。別に探す必要も……ああ、俺が邪魔なのか。悪い悪い、迷惑だったか」
「いえ、そう言うわけでは」
「そう?それとも、あれか。俺の連れを見たくなったとか?」
「はい…?」
「貴方も噂で聞いているんだろう。そう言う欲求はあって当然だ。俺なんて人一倍その手の欲求は強いからなァ、アンタの恋人は見たくて仕方がない。冗談抜きで、一度会わせてくれよ」
「あの…?」
「それとも、そういうのは全く気にならないタイプか?どうでもいい?」
そこまで言われ、今までの会話が誰を指しての話であったのか、筑波は漸く悟った。
「まさか、連れって……「彼」ですか!?」
驚くまま、不躾にも短く叫んでしまった。けれども荻原は気にする事もなく満足げな笑い顔を見せる。やっと気付いたのかと、だから興味はあるのかないのかどうなんだと、筑波の言葉を肯定するように、黒い眼が先を促していた。だが、あまりの事で、筑波としては直ぐには答えなど見つからない。
「……」
何度か仕事から離れた世間話をした事もあるが、荻原から件の青年を話題に乗せられるのは初めてであった。
この男が病に侵された青年を、学会は勿論、何処の国でも認められていない方法で救ったのは有名な話だ。青年に施されたのは、治療というのは適さない、違法な人体実験紛いのものであったと聞く。当初、荻原の人格を知る者には、それはただの馬鹿げた噂でしかなかった。だが、学界を震撼させる報告書が出ると同時に、裏社会にもそれは一気に広がった。
その危険な一通の報告書が表社会に広がらなかったのは、医学界が押さえたからに過ぎない。だが、裏ではそうもいかなかった。まだ若い筑波が耳に出来たのは医者の卵であった四谷からではあったが、後から知ったところによると、大物達の間では相当話題になっていたらしい。医学界のように青年の命を救った方法がではない。荻原が、人体実験紛いのそれを実行したと言う事が、だ。
動物実験ですら数パーセントの成功例もなかったものを、荻原はひとりの人間に施した。正気の沙汰ではない。確かにそれは、唯一の手段を選択したのだとも言えなくもないのだろう。だが、少しでも関わりを持つ相手には、決して出来ないものでもある。それを行った荻原の真意が何処にあるのか、噂のメインはそこであり、けれどもそれは憶測の域を出ないものだった。だが、重要なのはやはり。荻原がそんな事を実行出来る人間かどうかだというものだ。
たった一度のそれでも、荻原仁一郎という人物を認識し直すには充分だった。
胆が座っているというよりも、他人を食ったような奴だと表されつつも可愛がられていた男が、それにより仲間内からも危険視されるようになった。荻原は、件の青年と以前から親交があったという。その青年に、非人道的な行いをしたのは、何故なのか。ひとりの男としてそれ程までに青年の命を欲したのだとしても、ビジネスとして医学の向上を望んだのだとしても。他人にわかるのは、実行したという結果だけでしかなく。それは理由が何処にあろうと、常軌を逸脱しているという認識にしか繋がりはしないものだった。
その荻原が、「彼」を見たくはないかと問うてくる。これは一体どういう事なのか。驚きの余り冷静な判断が出来ず、そんな自分を持て余しかけた筑波はただ謝罪を口にした。
「その辺にいるだろうし、何なら捕まえて来ようか?」
「いえ、そんな……済みません…」
「おいおい、何を謝っているんだよ。可笑しな奴だなァ」
「……」
怒っている訳ではなく、ただ自分をからかっているのみの荻原の声音に、筑波の戸惑いが増す。件の青年は、荻原によって隠されているわけではない。だが、暗黙の了解というか、裏社会の掟のように、無闇に彼に接触する事はタブー視されていた。荻原とは歳が近く、敵対関係ではないので会えば普通に話はするが、友人などではない。どちらかといえば、上司の知人と言うべき相手なのだ。こんな風に、奥に入り込む間柄ではない。
それなのに。
「そうだな。だったら、マジで交換条件はどうだ?」
「交換、ですか?」
「そう。だから、俺もアンタの連れを見てみたい――なんていうのは、ダメか?アイツじゃ交換にはならない?」
「…………」
何だそれはと驚きつつも、保志の事はもう既に知っているのではないかと眉間に皺を寄せた筑波を、荻原は実に楽しそうに声を上げて笑った。やはり、からかわれているのだろう。だが、そんな事をされる謂れがない。自分はからかっても面白い相手ではないし、何より、荻原とはそこまでの関係ではない。今までも可笑しな事を言いはしても、こうした事はなかった。それなのに何故、「彼」の事まで出して俺を突くのか。どうしてだと考え、それ程までに本気で保志に興味があるのかと筑波は思いつく。まさか、「彼」を誰かに見せ付けたいと言う事はないだろう。ならばやはり保志かと今一度考え、溜息を吐きたくなった。
荻原は暇だからこそこうして遊んでいるのだろうが、保志に興味を向けるものは、多分これからもこんな風に出てくるはずだ。荻原に「彼」がいるように、自分の連れである限り、保志は関心を向けられるのだろう。それを考えると、筑波の中には苦味しか出てこない。
「……私の連れに、興味がおありですか?」
吐き出した声は、急に硬くなっていた。だが、それに気付かない荻原ではないだろうに、彼の声も表情も何ひとつ変わらない。
「アンタの連れ云々ではなく、彼自身にだよ。なかなか面白い男のようだから、生で見てみたいだけさ。別にとって喰いはしない」
「……」
生で、と言う事は。やはり既に情報は持っているのだろう。ぬかりのない男だと、感心せずにはいられない。指定暴力団の幹部とはいえ、末席に辛うじて座れている男の組の、ただの構成員にしか過ぎない自分のイロ関係まで把握しているなど、筑波としては脱帽ものだ。同系列の組織であるならば、筑波が立つ立場も知っており気にかけるかもしれないが、荻原はそうではない。完璧と言っていいくらいの部外者だ。辛うじて湊との繋がりが私的なものとして今尚あるのも確かだが、上司が自分に対する優遇加減を荻原に話しているとは筑波には到底思えない。湊はたとえ友人にであろうと、そんな事をする人物ではない。と言う事は、今までの人脈を使い、荻原は裏社会の内情を事細かに把握し続けている事になるのだろう。
「そう警戒しないでくれ」
「……済みません」
していませんと張れるような見栄はなかった。筑波の謝罪に、「謝ってばかりだな」と荻原が笑う。
「そんなに俺の顔色が気になるのか?」
「いえ、そう言うわけではありません。ただ…自分の発言が不躾であったので、反省しているだけです」
「別に、反省する程のものじゃない。俺の方が、不躾だろ」
「しかし……出過ぎた真似をしたのは事実です」
「アンタは勘違いをしている。俺はさあ、筑波さん。別にアイツを隠しているわけじゃないんだぜ?」
「……」
「確かに、馬鹿みたいに流れる噂を相手にはしていないが、嘘を撒き散らして見えないようにしているわけでもない。噂なんてどうでもいいから、放っているだけだ。俺はただ普通にアイツと付き合い、普通に関係を築いているだけにしか過ぎないんだよ。だから、別にアイツが俺の持ち物である訳でもない。誰でも、会いたければいつでも会えるさ。アンタもね。俺の目の前で貴方がアイツを探したとしても、止める気はない」
「本気ですか…?」
「勿論、アイツが先に会いたくないと俺に助けを求めてきたら、庇ってやりもするが。まあ、そう言う事は万に一つの可能性もないね。ンなタマじゃないからさ、アイツは。見た目程大人しいヤツじゃないから、アンタも接触する時は気を付けた方がいいかもな」
「……」
荻原の「彼」とはどんな男なのだと、筑波は何も言えずについ考えてしまった。瞠目する程に綺麗な顔をしていると聞いた事はあるが、荻原からは否定も肯定もされてはいない、ただの噂だ。役には立たない。だが、いまの荻原の言い方からすれば、ひと癖はある人物なのだろう。そして、そう言う意味では自分の恋人も変わりはしないなと、筑波は保志を考えた。
大人しくしているので手を伸ばしたら、前触れもなく静かに噛み付かれる。保志は、そんな感じだ。猫のように気取ってはいないから安心していたのに、犬のような大らかさは皆無。噛んだ後は、威嚇する事も無くまた自分の世界に入り込み、佇む人間などには興味は示さない。そんな彼は、何に例えればいいのか、良くわからない。まるで、完璧なプログラムによりコントロールされるロボットのようだ。
だが、出会った頃はそんな風であった保志も。最近はちょっとややこしいだけの人間に進化した。前はあるのかどうかさえ窺い難かった感情を、他人にも少し見せるようになった。筑波以外の前では、相変わらず飄々としている感が強いようだが、それでも人に何かを伝えるのが多くなってきていると思う。間違いなく、保志は進歩した。だが――。
「周りを威嚇してアイツに近づけない――なんて事は、俺には出来ない。これがアイツと俺の関係の在り方だ」
不意に、荻原の声に引き戻され、筑波は思考を中断した。一瞬、何を話していたのかを思い出せないながらにも、反射的に頷き、数秒遅れで向けられた言葉を理解した。これが、噂とは違う荻原と「彼」の関係に驚いた自分に対する、荻原の答えなのだ。
「だが…、そうだな。人の事をとやかく言うのはなんだが。アンタと「噂の彼」――保志氏はちょっと違うよな」
「…どういう事でしょうか」
「なぁ、筑波さん。これはあくまでも忠告ではなく、ただのお節介なんだが。中途半端にするのは、逆に危ないと俺は思うぞ…?」
荻原が真剣な瞳を真っ直ぐと向けてきながら、軽口のような続きでそう言った。そのギャップが、何故だろうか真実味を増やす。相手が何を指し、何を云わんとしているのか。荻原と「彼」の関係を口にされた後でのその指摘は、気付かない振りをして惚けるのは無理だった。この男は、自分と保志の今の在り方を危険視しているというわけだ。
しかし。
「……私には、正直…今はこれで精一杯です」
「アンタひとりならそうだろうな」
「……」
「彼の協力は望めないのか?」
「…それは、私がさせたくはないんですよ」
「熱いね。だが、それだとトロトロに溶けて流れちまうぞ」
「……」
「溶けたものは、二度と手の中には戻らない。充分気を付けるんだな筑波さん」
「……肝に銘じます」
荻原の指摘は、的確だった。自分を安く扱い続ける限り、保志を敵の目から遠ざける事は出来ても、守る事は出来ないのだ。彼を本気で守りきろうと思えば、自分もまたソレが出来るだけの力を付けねばならない。敵となりうる人物は、敵対組織だけではなく身内にも存在する今、この立場を維持し続ける事は難しい。遠くはない未来に、必ず問題が起こるだろう。今はまだ、湊や名執が守ってくれてはいるが、いつ彼らがその手を離すかは判らない。保志を自分の世界に関わらせないにも限界があり、早くも後がなくなり始めている。
荻原の言葉ではないが。一度は保志を手放したのにも関わらず、今はこうして彼は自分の元にいるのだ。そんな奇跡は二度も起きないと言うのを、筑波は誰よりも知っている。次に離れたら、彼との関係はそれで終わりなのだ。失敗は、何が何でも出来ない。だが――果たしてそれは正しい考えなのだろうか…?
保志は、変わった。今尚、変わろうとしている。しかし、それで本当にいいのだろうか。彼が変わる必要はあるのだろうか。俺はあいつに無理をさせているだけではないのかと、筑波は視線を落とした。脚の上で組まれた両手を見て、思う。俺はあの時、本当にあの手を取って良かったのだろうか、と。
「――ひとつ、宜しいでしょうか」
「ああ、いいよ」
荻原の深く静かな声に覚悟を決め、筑波は口を開く。
「荻原さん。貴方は不安にならないのですか。ああまでして助けた彼だ。――特別なのでしょう…?」
「だったら、何だ。籠の中で飼えと? だが、それをしてどうなる?」
「……親密にならない事で、彼を守っているのですか?」
顔を上げると、荻原の深い眼とぶつかった。
「流石、それを実行した奴の発想だ。笑えるねぇ」
「答えたくないのであれば、結構です」
「違う、そうじゃない。答えはそんなところにはないと言う事だ」
「……」
「俺とアイツはな、色んな事を言われているようだが、実際には清い関係さ。だが、友人というのとも違う。いわば、禁忌を犯した共犯者みたいなものだ。俺達はどちらも余り、批難されているような罪を自分達が持っているのだとは意識していない。けれど、互いにある程度の罰を受ける気持ちはある」
そんな関係だと笑う荻原の言は、正直筑波にはわからないものだ。多分、当事者でしか理解出来ないものなのだろう。
「何故、貴方はその禁忌を犯したのですか」
「簡単だ、惚れていたからだ」
「だが、今は共犯者…?」
「これも簡単だ、俺はフラれたんだよ。けれど、好きな気持ちには変わりない。そうだろう?」
口にするのは冗談だと思うような、あからさまな笑いに、けれども半分以上は真実なのかもしれないと筑波は思う。荻原がこんなところで、自分相手に本心を語るわけがない。だが、対峙する相手に誠意があれば、どんなに軽口を述べようとも決して嘘を並べはしないのが荻原仁一郎と言う男でもある。噂に流れるような冷徹さなどは微塵もなく、本当にこの男はひとりの青年を救う為に、逸脱してはいるが一縷の望みに全てを託したのだと思えた。そうだと信じたくなった。
禁忌を犯すほどに、惚れていた。その気持ちは本気で他人を欲した事があるものならば判るものだと、筑波は過去の自分に記憶を戻す。荻原の所業を耳にした時、確か自分は理解しなかった。今こうして思えるのは、ひとえに保志と出会い、ここまで進んできたからだろう。
しかし、もしも。もしも、保志が不治の病にかかり、自分が荻原と同じような選択を迫られたならば。
俺には同じ事は出来ないと、筑波は思う。実際、祥子の時は何も出来なかった。何をしてでも守りたいと思ったのに、結局彼女を独りで逝かせてしまった。だが、それを実行するのに必要なのは、思いの強さでも深さでもないのだろう。それが何なのかはわからないが、ただ自分には無理だとそう思う。
荻原の行動が、正しいとも間違いであるとも判らないし、現時点で見れば青年は助かっているのだから過ちではないようにも思う。しかし、それでも荻原は罪を犯したのだと口にした。罰は受け入れると言い切った。つまりはそう言う事なのだろう。理屈ではないのだ。答えは、その本人の心にのみあるのかもしれない。
「俺は別に、自分に惚れさせたかったわけじゃない。ただ、あいつには生きていて欲しかっただけだ。だから、今は満足している。アイツも、思うところは色々あるんだろうが、それなりに納得しているだろう。俺達は、これからもこんな感じだ。それこそ、死ぬまでな」
これがベストなんだと、荻原は笑った。
自分と保志のそれが何処にあるのか、筑波にはまだわからない。だが、目の前の笑顔は、それが何処かにあるはずだと信じてみるのも悪くはないように思えるものだった。
2006/06/18