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 東京を出て、隣の千葉まで乗り込んだのに、大した理由はない。四谷の言うとおり恋人は気にしているようだが、別に大きな目的があったわけではないのだと、保志は人込みの中で演奏に耳を傾けながら思う。数日前、休みに子供をディズニーランドへ連れて行ったのだと、同僚が職場でその時の様子を話していた。その中に、園内を巡回するバンド演奏を聞いたが良かったというものもあり、今朝の四谷の話にそれが記憶から浮かび上がったからだけに過ぎない。行くのならば、聞いてみても良いなと思った程度だ。積極的に来たつもりは、特にない。だが、自分の行動は二人にそうは捉えられなかったのだろう。
 そんなに理由が必要だと言うのならば、確かに他のそれをあげられない事もない。この国に来たのは、バンド演奏の為でも、ガチョウの尻の為でもなく、もっと別のところにあるのだとも言えなくもない。だが、その理由を筑波に伝える気には微塵もならない。彼が気にして言うのだとしても、口にするような事ではないし、口にしたところで、それを納得するようにも思えない。即ち、簡単に言えばそんな程度の事なのだ。理由にさえならないのかもしれない、小さな事だ。
 派手な衣装に身を包んだサックス五重奏の演奏を聞き、指の動きを見つめながらも、保志の意識は若干横に逸れていた。折角ここまで来たのだから堪能したいと思いもするが、今この場に筑波が居ないからだろうか、何だか集中出来ない。
 保志は、クインテットを囲むように集まっている聴衆の間から身を滑らせ外へ出た。再びそこに巻き込まれないよう少し距離を置き、離れた場所で流れてくる演奏に耳を傾ける。何処かで耳にした事のある華やかな曲が辺りを漂っているが、やはり、そのテンポには乗れそうになかった。軽い気持ちで来たのだが、ただの軽率な行動だったのだろうか。思った以上に、意識が漫ろだ。
 正直に言えば、四谷がどうなろうと、保志自身は痛くも痒くもない。どんな事が起きようと、大抵の場合は平気でいるだろう。だが、筑波は違う。彼は四谷に何かあれば、自分に出来る事はしようとするのだろう。心はそちらを向くのだろう。筑波にとっては、四谷はどうでもよい人物ではない。ならば、筑波が四谷を幼馴染みと認めている限りは、自分がその邪魔にだけはなりたくはないなと保志は思う。筑波がいるヤクザの世界の事はわからない。湊や名執、またその上の人物達と彼の関係は、自分が理解し知り尽くす事はどうやっても無理な事であるだろう。だが、友人という人物が己にとってどんな役割を果たすのか。それについては少しは知っているつもりだ。
 赤ん坊の頃から特殊な場所で一緒に育った筑波と四谷は、友人と言うのとは少し違うのかもしれない。だが、兄弟というのでもないだろう。しかし、色んな意味で特別だと言える存在であるのは確かだ。そして、そういった大切な者は、少なからずとも自分にも居り、保志はその邪魔は例え筑波であってもされたくはないと考えている。天川誠や佐久間秀との事は、今思えばだからこそ余計に互いがムキになったのだろう。ああいう遣り合いは、出来るならばもうしたくはない。だから、自分も。恋人だとか何だとかで、筑波のそれを侵したくはないと思うのだ。
 保志がそう考えるように筑波もそう思っているのか、それともただの我慢なのかはわからないが。誠の墓参りも、佐久間とのメールも、筑波は見止めれば若干顔を顰めはするが、別段何も言わない。咎める事はしない。それと同じ様に、今回のこのテーマパークの件は、筑波と四谷の事であり、自分はただの付き添いでしかないのだ。何らかの意見を挟んだつもりは、更々ない。
 四谷が自分を誘ったのはただのからかいでしかないのだと、保志は思っている。だから、ここを訪れたのは、あの男の誘いに乗ったのではなく。どの道、筑波は四谷に拉致られるのだろう事を見越して、ただ早々に腰を上げただけに過ぎない。同僚の話を聞いていなかったら、留守番を決め込んだのかもしれないが。久々に半日とは言え休みが重なったのだ、離れている事もないだろうと、四谷が間に居るとしても一緒に居ようかと考えたそれは、やはり特別でも何でもない事だ。
 そう。本当に、理由などにはならないものである。矛盾した行動はとってはいない。それなのに、何を気にするというのか。筑波が自分を恋人として認識しているのならば、不思議がる必要は全くないのではないだろうか。何だって、悩んだりするんだ。そんなに可笑しな事なのか。
 いつの間にか音楽など耳から遠ざかってしまっていたが気付かずに、保志はここに来た経緯を思い浮かべ、ひとり顔を顰めた。よく考えれば、随分と酷い恋人だ。何て男なのだろう。僕を一体なんだと思っているのか。彼は、どんな人物を恋人にしているつもりなのか。あの展開で、大人しくここまでやって来た相手に不審を抱くなど、最低ではないか?付き合わせて悪いなと謝られこそすれ、何故付いて来たんだと疑心を抱かれる謂われはないように思う。
 しかし、それでも。自分が慣れない事をしたのも事実なのだろうと、保志は深い息を吐き、自嘲的に軽く口元だけで笑いを落とした。その点については、多少なりとも自覚はある。
 賑やかな辺りを見回し、少し視線を上げると、都会の薄い灰色に水色を数滴足らした様な朧な色の空に城が突き出していた。青い屋根が、空の鈍さを強調する。だが、春の陽光に照るそれは、紛れもないこの国の象徴で。遠くからそれを眺める自分が、何だかいつもと違う人間のように思えた。物語や時代に飲まれた訳ではないが、網膜に妬き付いているビルの森を忘れそうになってしまう。ここは音楽と一緒だなと、再び耳に流れ込んできた曲を聞きながら保志はそう思った。足を踏み入れた途端、一瞬にして自分のものにしてしまえる。音を奏でるのと同じように、ここを訪れる者一人ひとりの中に、この国の姿があるのだろう。自分にとっては、夢の国ではなく、ひとつの曲なのかもしれない。
 そう感じる己が強ち間違いではない事を証明するように、筑波が以前言っていた事を保志は記憶を辿り思い出す。話した本人は忘れているのだろうが、四谷は感情が落ち着かない時にこのテーマパークに来たがるのだと、筑波が話していた事があった。見ていた雑誌かテレビの広告に、何気なく反応して溢しただけの言葉だったように思うが、意外だったのだろう。保志はそれを今も忘れずに覚えている。そして、自分自身がここに来て漸く、そんなものなのかもしれないと納得した。もしも始めからこの国の雰囲気を知っていたのならば、四谷の行動など気にせず流していただろう。そして、それを知った今は、筑波がここに何を思うのか、少し知りたくなった。
 四谷に付き合い何度か来た事がある彼は、この国に何を感じているのだろう。揺れる幼馴染みのその行動を、どう考えているのだろう。
 夢の国に音を見出すのが自分ならば、筑波は現実を見るタイプのように保志は思える。逆に四谷は、その行動から考えても、何も見ずにただそこに浸かるタイプなのだろう。ロマンチストだと、以前四谷は筑波の事をそう笑っていたが、どちらかと言えばそれは四谷本人のように思う。付き合ううちに保志が知った筑波は、真逆の人間だ。確かに、夢のような事を口にする事はある。だが、筑波の場合、それは現実を知った上での目指す未来を語っているに過ぎないのだ。彼の性格上、そこには甘さや優しさが滲み出ており、夢物語のように一瞬聞こえるが。筑波直純と言う男は、短絡的な思考を他人に披露するような軽さは不器用にも持ってはいない。筑波が「ずっと一緒に居たい」と言えば、それしかないのだ。その未来を掴む事を本気で考えているのだ。彼が求めるのは夢ではなく、確かな現実だ。
 そんな筑波は、長期に渡って努力し、変えられない事を変えてしまう、夢を現実にする人種だ。逆に自分は、夢は夢と割り切り、現実は現実と扱い、その場を凌ぐ事に長けているように保志は思う。同じ現実主義者であろうと、見つめる現実に冷めている自分と、そこに想いを注ぎ込む男とでは全然全く何もかもが違うのだろう。可笑しな取り合わせだなと、改めて筑波との関係をそう思い保志は再度笑いを落とした。多分、いや絶対。自分との取り合わせよりも、四谷との方が筑波には似合っているのだろう。
 だが、だからと言って、何がどうというわけでもない。寧ろ、自分が気にすべきなのはあのイカレた医者ではなく、筑波の仕事に関する面々だろう。
 四谷も問題はあるが、それでも筑波の幼馴染みとして認識する事に苦痛はない。だが、湊や名執は、彼の上司と考えるのは、正直保志にとっては面白くない事だった。恋人の交友関係に喧しく首を突っ込みたくないと思うのは、自分の交友関係とさほど変わらないからだ。だが、職場関係は違う。自分が恵まれているというのもわかってはいるが、それを差し引いても、筑波の上司に理解は示せない。示したくもない。
 ヤクザであろうと何であろうと、湊正道は筑波には似合わない。しかし、それが正しいからと言って、どうする事も出来ないのが自分の立場だと保志とて理解している。だから、無闇にあのスカした男に噛み付きに行こうとは思わない。行ったら最後、自分は潰されて終わるだけだろう。自分が潰れたら、筑波は苦しむ筈だ。しかし、そうなったとしても、筑波は湊に仕える事を止めそうにもなく、己の行動の意味は綺麗サッパリ無くなるのだろう。それをわかっていて、バカな事をする気には到底なれない。
 わかっていてもバカになれよと、四谷あたりはそんな風に嗾けて来るのだろうが。犬死にする程、自分に価値がないとは保志は思わない。少なくとも、筑波が自分を求めている限りは、それは間違いないだろう。馬鹿な事をするのは、想いが一方通行になった時で構わない。だから、今は別の方法をと、思う。だが、どんな方法があるのか、わからない。ならば。
 わからないのなら、それを見つける為にひとつでも多くの事を知ろうと保志は思っている。単純な発想だ。子供のような思考だと自分でも認識している。だが、これは無駄にはならないとも、同時に確信している。
 湊は、保志を脅してきた。筑波の鍵はお前だと、そのお前に勝手をさせる気はないと、宣言してきた。本当に、湊の言うとおり自分がキーであるのならば、それは筑波の枷になっていると言う事だ。ああそうですかと、無視して流せるレベルの話ではない。筑波の仕事を理解する事は無理だが、彼がそれを選んでいるのは納得している。だが、彼と湊の関係は、不毛な上下関係は、受け入れたくはないものだ。特に、直接接した湊に対しては、筑波に関わりを切らせたいとさえ思う。あの男は、自分も生理的に合わないが、それ以上に筑波に似合わないのは明確なのだ。面白くないと思うのは当然だろう。
 しかし、それでも。自分のせいで、湊や名執とおかしな事にはならないで欲しいと保志は思う。自分自身が、馬鹿な事を考えるのとこれは別だ。筑波には、自分が原因で馬鹿な事をさせたくはない。
 先日の婚約に関してもそうだ。実際には別の理由で破棄になったが、これからの事は本人も言うようにわかりはしない。その時、自分が居るからと断るような事は筑波にさせてはならないと保志は思う。彼の出世を望んでいるわけでも、別れを望んでいるわけでもない。ただ、何となく、そう思うのだ。枷にだけは、なりたくはない。なってはならない。自分がそれでしかなくなれば、筑波は今以上に湊に捉えられるのだろう。それは自分が湊に噛み付くよりももっと馬鹿な事だと保志は感じる。
 李慧珠との事で保志が学んだのは、筑波の重荷にはなりたくはないという意地が己の中に存在するという事だ。今までは、自分の気持ちが全てだった。勿論、筑波が何をどう思っているのかも、関係がなかったわけではない。彼が自分を想うからこそ、好きで居続けているのだろう。だが、その好きという感情だけではどうにもならない事が多すぎるのだと、湊や名執そして李慧珠に会い気付いた。自分の想いを全て見つめ、漸く悟ったのだ。気持ちばかりでは、枷にしかならないと。多分湊が指摘した事は、こう言う事も含まれるのだろう。
 自分は、知らない事が多すぎる。そんな事は関係ないと、この気持ちが本物だからと、見たくは無いものに蓋をし過ぎてしまっている。このままでは、本当に湊に鍵をとられてしまうのかもしれない。自分のせいで、筑波を振り回す事になるのかもしれない。望むか望まないかに関わらずとも、事態は進むのだ。湊に初めてあった夜、どこか少しおかしかった筑波の姿が、保志の中からは消えないでいる。
 あの夜、筑波は保志に謝った。調子に乗ってしまいそうで怖いと弱音を吐いた。だが。それは保志とて同じだった。自分が調子に乗っているのだと、あの夜自覚した。自分が諸刃の剣になるのは、湊の接触で教え込まれた筈だ。ならば、このままでは、いつか筑波はまた僕を遠ざけるのではないだろうか…? そんな不安は、抱き合っても拭い去れるようなものではなかった。
 だから、また、気付かなかった振りをしようとした。けれど、李家との話が出てきて、もう無視をし続けるわけにもいかなくなった。何度自分は知らないと言っても、これからはそれ以上に、教え込まれるような事が起こるのだろう。心だけで傍に居る事が今まで出来た分、そのしっぺ返しがやって来ているかのように、現実が襲い掛かって来ていた。
 あの時流した涙は、ただの恐怖だったのかもしれない。
 自分の狡さを目の当りにした、絶望だったのかもしれない。
 だが、それでも、抱きしめた温もりを離したくはないと思った。だから、知ろうと覚悟を決めた。知った所で、自分に何が出来るわけでもないのはわかっている。ヤクザの愛人ではあっても、自分はヤクザではないのだ。筑波を助けるような事は、多分何ひとつ出来ないだろう。筑波の立場や状況を知れば知るほど、己の無力さに泣かねばならないのかもしれない。だが。
 それでも、知ろうと思った。たとえ、直ぐそこに別れがあるのだとしても、それまでは出来る限りの事を知っておこうと思った。くだらない事でも、他愛ない事でも。ひとつでも多くの筑波を知っていたのなら、それだけ別離が訪れても救われるのではないかと思えた。もしも、何かあった時も、知らないよりも役に立つのではないかと考える事が出来た。
 何も知らずに、ただの空虚を味わったのは、そう昔の事ではない。
 今直ぐに、何かが出来るとは思っていない。また、知識を増やしたからといって自分が出来る事など、そう多くはないのだともわかっている。そもそも、己がどう動くのかどうかも、わかってはいないのだ。今はまだ、ただ知ろうと思い始めたところで、自己満足の範囲を越えてはいない。それも、筑波の為に知ろうと思ったわけではなく、己が不安にならないように、馬鹿をしないようにだ。けれど、それでもいいのだと、妙な自身が保志の中にはある。何故だと問われても説明出来ないそれは、しかし、自分に安心を憶えさせもするもので。それは筑波直純を、その周りを覚えていこうという決心を強めさせてくる。
 もしかすれば、これは執着とか依存とか、そういった類の欲なのかもしれない。客観的に見れば、自分自身でもそう思えもした。だから、簡単に言えばただの我儘なのかもしれないこれを、筑波に告げる気は保志には今のところない。貴方は何をしているんだ?何を感じているんだ?どう思っているんだ? 自分はそれを全て知りたいんだと言ったならば、筑波に不審や不安を与えずに済むのだろうか。いや、そうではないだろう。そういうものは、言葉では補えない。結果が出て初めて和らぐものだ。確かに、言う必要がないわけではないのかもしれない。だが、言わない必要は、確実にある。
 自分の考えている事を筑波が知った時、彼は困るのだろうと保志は思う。信念を曲げたわけでもない、ただの発想の転換ではあっても。変わらざるを得ない状況に自分が追い込んだのだと、あの男ならば考えそうな事だ。己の世界に巻き込みたくはないと苦く吐き出した恋人の声は、保志の耳にまだ鮮やかに残っている。
 あんな風に弱音を吐く姿も、ヤクザにしか見えない姿も、無防備に寝顔を晒す姿も全て。筑波の知れる全てを知ろうと思う。だが、それにより自分を変えて彼に合わせようとは思わない。ただ。知る為の努力は、多少なりともするつもりだ。自身が湊に使われる事を耐えてでも、今は筑波を生かしたいと思う。自分は彼の急所であるのだとしても、弱点にはなりたくない。なるつもりもない。もしもこの先、何らかの時に選択を迫られたのならば。その時に判断を誤らない為、自分や筑波の周りを少しでも知っておこう、掴んでおこうと思う。そう思うのは紛れもなく、自分が筑波を必要としているからだ。
 湊や名執、そして四谷。彼等もあの男を必要としている。それに負けない為に――と言うのとは若干違うかもしれないが。それでもこんな考えを持ったのは、彼等に感化されての事だろう。ならば、自分も彼等のように筑波から手を離さない為に。自分が出来る事は、するべきなのだ。それこそ、いつか湊を噛めるチャンスが来るかもしれないのだ。その時の為に、大きく口を開けられるようにしておくべきだろう。
 喋る為の声はないけれど。口をあけても叫ぶ事は出来ないけれど。
 思考と記憶が出来る頭があれば、情報を取り入れられる目と耳があれば。知る事は可能だ。
 筑波直純が居る限り、僕は――。

「――俺が学生の時だから、随分昔の事だ」
 不意に、近くで声が弾けた。唐突に思考を中断され、気付けばその後に続けたかった言葉は見事に玉砕されており、頭の中が一瞬真っ白になる。何もないそれを早々に放棄し、保志が顔を横に向けると、吸い込まれそうなくらいに綺麗な瞳が真っ直ぐと自分を見ているのに出くわす。四谷に連れられ近くのショップに入っていた飯田真幸が、いつの間にか戻ってきていた。
「もう、五年程前になる」
 顔も身体も声も、全てが人より秀でてはいるが、その中でも特にこの瞳は最高級品なのだろうなと、保志は見返しながら確信する。正直、四谷の青い眼よりも、筑波の灰色の眼よりも、この日本人特有の眼を好ましいと思う。自分自身も同じ色素の眼を持つのだと考えると、微かに興奮を覚える程だ。女性が宝石を好む感覚に似ているのかもしれない。
 そんな事を考える余り、長く見返しすぎたのか。飯田はスッと視線を逸らしたが、保志はそれでもその眼を見た。微かに揺れる眼球が、興味をそそる。触っても良いとの許しが出たら、遠慮なく眼球を抉り出してしまいそうだ。
「……常連でないとわからないような、地下にあるバーに、一度だけ行った事がある」
 姿形が良い人間など、ゴマンといる。その中でも強烈な部類に入るのだろう人間も、別段出会いたくもなかった人物であったが、知っている。だが、飯田の姿は、そういうのとはどこか少し違った。何がどうだとは言えないが、クサイ言葉で言うならば、中の魂そのものも綺麗なのだとか、精神までもが洗礼されているだとか、だ。人間でしかない男であるのに、そんな風に感じ信じそうになってしまうものがこの男にはある。四谷とは大違いだと、希少価値がついていそうな人物だと。これは世界にただひとつの、貴重な命なんだと。飯田を前にすれば、自分など幾らでも換えがきく命だと納得してしまうなと、若干意味不明な事を認識しつつも保志は考える。
 生きている亡霊とは良く言ったものだ。サックスの音色が飛び交う中でそう感心したからか、船乗りを惑わす人魚をふと思い出す。取り付かれてもいいから、ローレライの歌声は一度拝聴してみたいもののひとつだ。
「店主が紹介してくれたバーテンは、サックスを吹いた。あれは、貴方だったんだろうか…。顔は全く覚えていないが、その彼も喋れないと言う事だった」
 人垣の向こうで奏でられる音に傾けていた耳が、一瞬何も聞こえなくなった。コンコンと、どこか遠くでする軽い音に保志は目を細め、再び視線を向けてきた飯田の眼を見返した。真っ黒い瞳が、長い間務めた店の空気を思い出させる。夜の海ではなく、昼でも光りが届かない――光を知らない深海を。
「もう一度、あの店に行きたいと思っていた。だけど、長い間それが出来ずに、場所を忘れてしまった」
 知っているかと問い掛けてきた飯田を、頭の中で若返らせ考えてみるが、保志の記憶にはこの青年は存在しなかった。演奏中であっても、そう広い店ではなかったので、客の顔は見る事は出来た。例え一度だけであっても、この容姿であれば頭の隅にでも残ると思うのだが、捻り出そうとしても出てきそうにない。
 もしかして。四谷は飯田が病に侵されていたと言っていたが、その関係で顔も作り変えたのかもしれないと、保志は考えながら携帯を操作する。馬鹿げた発想だ。だが、今の世の中、何があるかわからない。しかし、この顔が人工だとは余り思いたくはないので、その考えは破って捨てる事にする。天然であろうと、人工であろうと、感じた事に変わりはないのだが、面白くない事は面白くない。
【以前『深海』という店でバーテンをしていたので、それは僕なのかもしれません。ですが、その店はもう閉めてしまいました。マスターも今は別な仕事をしています】
「……そうか」
 保志が携帯画面を見せると、残念だと呟いた飯田は、軽く髪をかき上げながら深い息を吐いた。何かを言いかけるように口を開き、しかし何も話さぬまま唇を引き結ぶ。若干薄いその唇が、保志にはまるで傷痕のように見えた。開けばそこから真っ赤な血が流れ出すような感覚に、あの店がこの青年にとって特別だったのだろうかと考え付く。探していたと、もう一度行ってみたかったと口にするかつての客が目の前にいる。それが嬉しいのか切ないのかわからないが、胸に湧き上がるものが多少なりともあり、保志は過去に意識を飛ばした。
 青く深い空間が、体の中に現れる。床を踏んだ時の低い足音が、棚を叩いた時の軽い音が、耳の奥に蘇る。狭い空間で奏でたサックスは、必要以上に反響してしまう面もあったが、独特の色をそこに滲ませてくれた。
「……いい店だったのにな」
 飯田が何をあの店に見たのかわからないが。今尚その記憶に、心に残っている事が、心地良い。
「今も、吹いているんですか…?」
 サックスをと呟く声が、拍手に消えた。演奏を終えた音楽隊が去ると同時に、人込みも崩れ、客達が散っていく。辺りを見回すが、四谷の姿はまだなかった。何処へ行ったんだろうかと保志が眉を寄せた時、偶然にも視線が合ってしまい、飯田が「…俺は逃げてきたから」と、若干申し訳なさが混じる声で答える。
 別に、この男のせいではない。何より、特に見つけ出し合流したい相手でもない。保志は、問題はないと首を振り、携帯を操作した。四谷と連絡をとるのだとでも思っていたのか、再び飯田に画面を向けると、軽く驚かれた。
「そう、ですか…」
 吹いていますとの一言に、戸惑いの中から搾り出したような声が返る。「仕事で…?」と続けて質問されたのは、たっぷりと沈黙を作った後での事だった。その間に、飯田が何を処理し何に納得したのかは知らないが、保志にとってはその無言が気まずさに繋がる事はなかった。寧ろ、スラスラと話されるよりも、好感を持つ。
 空白など出来てはいなかったように保志が返答をすると、飯田が聴きたいなとの言葉を口に乗せた。可能ならば、もう一度貴方の演奏を聴いてみたい、と。
「日程は決まっている…?」
 片手で画面に文字を打ち込みながら、保志は首を横に振った。仕事でパフォーマンスとしてや、藤代やその他の音楽仲間とのジョイントを、公園や駅などで月に何度かしてはいるが、決まったものではない。毎週何曜日の何時だとか、定期的な活動の方が客を集められるのは判ってはいるが、藤代も保志も勤務時間が不規則でそれは無理だった。
 今ここで教えられるものはない事を残念に思いながら、保志はステージとして使う演奏場所を幾つか飯田に伝えた。偶然が重なれば、もしかしたら遭遇するかもしれないと。パーセンテージにすればゼロに近そうな可能性にかけてまで自分の演奏を聴きたがる事はないと思いつつも、飯田の社交辞令に応えておく事にしたのは、聴いて貰えたらいいなと単純に思ったからなのだろう。五年前に自分の演奏を聴いたというこの男が、今の音を聴きどう思うのかはわからないが。もう二度と行けないあの店の思い出を少しでも掴めたならばと、そう思う。
「その辺りなら、時々だけが行く事もあるから…気にしてみるよ」
 そう言った飯田が、少し躊躇った後、「可能ならばだけど」と言葉を続けた。
「俺が行ったら、何でもいいからビートルズの曲を吹いて貰えるか…?」
 意外な言葉だった。まさか、リクエストまでされるとは。本気で聴きに来ようとしているのかと、保志は飯田を眺め、けれども面白いと笑いを浮かべる。選曲は問題ないのだ。頷かない理由はないと、数度首を振り、それでも足りずに携帯のボタンを押す。
【喜んで。お待ちしています】
 保志のそれに、飯田は軽く片方の唇だけを上げ、器用に笑った。言葉とは裏腹な、人に物を頼んだ時の笑いでは無いような気もしたが、その表情は充分自分を満足させるもので。保志も再び笑う。
 だが。
 次の瞬間には、飯田の顔から笑みが消えた。何だ?と保志が思うよりも早く、何処からか名前が呼ばれる。
「保志」
 振り向くと、筑波が見知らぬ男と並んでこちらに向かって来ているところだった。ネクタイはしていないとは言えスーツ姿の筑波とは違い、一緒にいる男はカジュアルな服装だ。堅い男とこの遊戯施設に馴染んでいる男の取り合わせは、ちぐはぐである筈なのに、けれども何故か同じ空気を持っているようにも感じた。
 ヤクザか?と保志は眉を寄せ、違うなと直ぐに否定する。似てはいるが、違う。医者ではないだろうが、どちらかと言えば筑波よりも四谷に近いような気がする。
「クロはどうした?」
 傍まで来た筑波は、軽く辺りを見回し四谷の所在を尋ねた。そんなに気になるのならば、首輪でもつけリードを持っておけば良いと思いつつ、保志は肩を上下させ自分は知らないと伝える。必要ならば、迷子の呼び出しでもして貰えば良いというものだ。尤も、そんな放送があったとしても、呼びかけに素直に応えるような人物ではない。
 呆れる保志の横で、男が飯田に「何してんだ?」と声をかけていた。それに対し、飯田は「別に」と簡潔に応える。二人は知り合いなのかと、筑波からそちらに視線を向けると、ニッコリと男に笑いかけられた。人懐っこそうな笑みは、どこか愛嬌のある犬のようだ。
「初めまして、荻原です。っで、こっちは飯田」
 既に知っているかなと軽く首を傾げつつ、荻原と名乗った男は飯田に視線を向けた。だが、向けられた方は完璧に無視を決め込んでいる。
「何故、彼と一緒にいるんだ?」
 知り合いではないのだろうと筑波が落とした疑問にも、飯田は応える気はないようで。自然と、二人の目が保志に注がれてきた。仕方がないと携帯を操作し、四谷が拉致したんだと、筑波にだけそう記した画面を見せる。僅かに顔を顰める筑波を見ながら、これ以上の詮索は面倒だと、後は四谷に聞いてくれと態度で示す為に、保志は携帯電話をポケットに仕舞った。
「…四谷に引き合わされたようです」
「へえ、成る程。マサキお前、俺から逃げてあの医者に捕まったのか? 間抜けだな、どんくせぇ」
「……黙れ。誰のせいで捕まったんだ」
「誰の、って。お前がトロかったから、捕まったんだろう?」
「…………」
 飯田は荻原の戯言を黙殺する。だが、荻原は気にしないのか、馬鹿な事を言い続け、相手にされないとわかるや、今度は筑波と保志相手に会話を楽しみだした。その内容は、四谷がいかにイイ奴なのか、飯田がどれだけ無愛想なのか、自分がどう苦労しているのかだとかだ。最後には、保志の機嫌をとる様に笑い、筑波の苦労を労う。訳がわからない。
 何だこの男はと、保志は呆れ果てた。だが、言葉ではなくその様子を見ていて、荻原は隣の飯田をからかっているのだなと気付く。自分の言葉を耳に入れ顔を顰める連れを、楽しみ遊んでいるのだ。
 餓鬼が居る。目の前に二人の餓鬼が居るのだと思うと、ほんの少しだが面白くなった。四谷に捕まった飯田を哀れに思ったが、連れであるのがこの荻原ならば、飯田としてはその手のタイプは慣れたものだったのかもしれない。荻原と四谷の強引さは、どこか似ている。だが、荻原には、四谷にはない深い思い遣りがあるように保志には思えた。
 実際、それは単なる勘違いではなかったようで。飯田の限界を荻原はよく把握しているようだった。飯田が厭き厭きしだしたのを助けるように、宥めるように。荻原は筑波に話しかけながら、シャツに掛けていたサングラスを飯田に渡す。それを無言で受け取った飯田は、自然な仕草で顔に掛け踵を返した。
「――では、俺達はこれで」
 何の話をしていたのか、飯田に注目していた保志にはわからなかったが。連れが動くと同時にそう言った荻原の態度は流れに沿ったもので。「それじゃ、保志さん。あいつの相手をありがとうな」と笑いかけると、走るわけでもなくのんびりと荻原は飯田の背を追った。
 何だったのか、よくわからないうちに終わり、去って行く二人の背中を保志は暫し眺める。
「…俺達も、行くか」
 振り向くと、筑波がじっとこちらを見ていた。行くかと言った割には動き出さない男に首を傾げ、保志はもう一度、去った男達に目を向けた。その時。
 子供のようにはしゃいだ女性二人が、保志達の横を駆けて行った。彼女達の「オーナー!」との呼びかけに、あと少しで飯田に並ぶであっただろう荻原が足を止め振り返る。まだ女の子と呼べそうな若い二人に手を挙げ、彼女達が追いつくのを彼はそこで待っていた。その向こうには、小さくなって行く黒い人影。
「社員旅行だと言っていたのは、本当だったようだな」
 筑波の呟きに、どんな会社だと保志は胸中で突っ込みを入れて呆れた。だが、ヤクザと地下の医者とフリーターの取り合わせに比べれば、何であれまともであるようにも思える。
 筑波と並んで歩き出したところに、四谷がやって来た。飯田が筑波に代わっているのを見て取り、「おいおい、ランクが落ちたじゃないか」と意味不明なぼやきを落とす。
「比べるなよ」
「何を寝惚けた事を言っている。そいつなんて、ポケーと見惚れていたぐらいなんだぞ。うかうかしていたら持っていかれるぞ。いや、飯田は要らないな。だが、こいつ自身はわからないね。あの色香に酔いしれて、フラフラついて行くかもな」
「そうなのか?」
 四谷の言葉に、筑波が首を傾げてきた。相変わらず、この二人の会話は変だおかしいと、保志はそう思いながら問い掛けを彼方へと投げ飛ばす。何がそうであるのか、追求したくはない。
「っで、あいつは何でこんなところにいたんだ?」
「社内旅行のようだな、荻原さんも来ていた」
「へえ、そうなのか」
「お前に会いたがっていたぞ」
「当然だ。俺は惚れられているからな」
「お前が言うと冗談に聞こえん」
「冗談じゃないから、聞こえなくて当然だ」
 筑波の溜息を聞きながら、四谷と荻原が揃えばさぞや喧しいのだろうと想像し、同じ様に胸中で溜息を落とす。出来るならば。いや、出来なくとも。その場面には遭遇したくないものだ。
 もしも、本当に飯田が自分のサックスを聞きに来る事があるのならば。是非とも一人で来て欲しいと、隣で馬鹿話を繰り広げる男達から徐々に遠ざかりながら、保志は少し切実にそう思った。

2006/06/24