□■ 2 ■□

「どういうつもりだ?」
 トイレに向かった自分の後について来たのは、厄介な事に恋人である男ではなく、もうひとりの連れだった。
「筑波が不信がっているぞ」
 保志は四谷の言葉は取り合わずに、逃げる意味を込めて個室へと足を進めた。どう言うつもりなのかと聞きたいのは、不信がりたいのは、この状況では自分の方である。用を足したいからトイレに向かう者の後をつけ、何をしたいのか。女子中学生ではないのだ、連れだってやって来るところではない。まして、幼馴染みとは言え三十路を過ぎた男の恋路に足を突っ込むのも、どうかだ。人間性を疑う。だが、四谷にそんな事をしては、気力も体力が続かない。胡散臭さ満開の男を疑っても馬鹿を見るだけだ。逃げるのが、唯一の策である。
 だが、鍵を閉めた瞬間、ガンッと個室の扉を蹴られ少し後悔をした。四谷が暴れるのは兎も角、こんな場所でそんな男の行動の原因となっているのが自分だというのは、あまり周りに知らせたくはない。最悪、警察に通報はされないだろうが、係員の世話にはなるかもしれない。何故僕が威嚇されているんだと扉を見つめ、保志は向こう側に立っている男を想像し顔を顰めた。自分を弄ぶ為に追いかけてきたのかと考えると、このままここに閉じ篭ってやろうかと思うくらい憂鬱になる。四谷クロウは、訳がわからなさすぎる人物で、正直二人きりでは向かい合いたくはない。
 無意識にパンツのポケットに手を伸ばすが、そこにあるのは携帯電話と財布だけだった。煙草は車に置いて来たのだと思い出すと、急激にニコチンが欲しくなった。だが、無い物ねだりをしても仕方がない。保志は溜息のような深い呼吸をひとつし、意識を切り替えた。
「長いな、便秘か? それとも、抜いていたのか?」
 保志が用を足し外へと出ると、四谷は洗面所に座るように凭れて立っていた。他の客が居ないからこその発言だと思いたいが、そんな気をまわす人物ではない。気遣いというものがこの男に存在するのならば、そもそもこんな言葉を口にはしないだろう。無視をするわけではないが、特に応えもせずにひとつスペースを空け鏡の前に立つと、次の瞬間膝裏に攻撃を喰らった。男の足が長い事は充分認識しているので、態々そんな事はしなくて良い。ついでに言うならば、命令を下した本人がここに来た理由を自分に問い掛けるのもおかしいだろうと言うものだ。本当に、意味不明な男だ。理解出来るとしても、したくはない。
 蛇口に手を伸ばしながらそう思った保志は、けれども今度は腕を掴まれ、気が変わった。放っておいてはいつまでも終わりそうにないと妥協し、何だと問い掛けるように振り向く。
 しかし、今度は相手が無視を決め込むかのように、口を引き結んだ。無言で見下ろしてくる男を、ただ見返す。
 腕を握る手に力を加えられ、促されるままに場所をひとつ移動する。四谷の隣に落ち着くと、それで満足したとでも言うのか、拘束を解かれた。微妙だ。だが、自分が動く事無く、相手を動かした事が男には重要な点なのかもしれない。そんなどうでも良い事に、時々気紛れに拘ってみるのも、四谷クロウという者なのだろう。要するに、訳がわからない男は、何をしてもそうだというわけだ。例外は、多分ない。
 四谷の態度に、呆れれば良いのか、学習して慣れれば良いのか。取り敢えずは、今はこうであったと過去の事にしておこうと、保志は漸く水に手を翳した。外装は可笑しな色形をしているが、内装は比較的まともであるはいえ、トイレはトイレだ。別段、長居をしたい場所ではない。女性ではないのだから、留まる理由がない。だが、四谷の長い脚が、自分の足元に投げ出されているのに気付き、保志はウンザリとした。足を引こうものなら、引っ掛けられそうだ。しかし、こんな所で四谷とお喋りなど、それこそ遠慮したい。
 ジーンズに包まれた脚を見下ろしていると、扉の開閉音が耳に届いた。人が入ってくる気配に顔を上げると、サングラスを掛けた黒ずくめの男が鏡に映りこんでくる。先客を気にする様子もなく奥の個室へと消える姿を何気なく追っていた保志の頭を、四谷が不意に掴んできた。
「お前、耳まで悪くなったのか?」
 どうやら話し掛けてきていたのを無視してしまったらしい事に気付いたが、この状態では謝罪を伝える気にもならない。頭に置かれる手を振り払うと、手についていた水滴が四谷の顔に飛んだ。だが、石鹸で洗っているのだから綺麗だろうと保志は気にしない事にし、斜めになっていた体を元に戻す。
 押さえられた髪を、手で梳かし整える。鏡の中で、楽しそうに親指で頬を拭う四谷と目があった。視線が絡んだ。嫌な瞬間だ。これには一生慣れる事はないだろう。
「保志。さっきの答えは?」
 ニヤリと笑うこの顔を、思い切り殴る事が出来れば少しはスッキリするのだろうかと考えてみるが、後が面倒で実行に移す気にはならない。何より、一瞬の爽快感は得られるのだとしても、相手に何のダメージも与えられないのならばやるだけ無駄だというものだ。何の仕返しも無いと保障されていても、自分は殴りつけないのだろうなと、整った顔にその事実を見て保志は視線を逸らした。四谷にとって自分が与える痛みなど、とるに足らないものでしかないだろう。
「答えろよ」
 意味のない事をしつこく問うてくる男に、再び手首を捉えられる。強く引っ張られ、よろけそうになった。当然ながら腕を振り払い、身体を捻り保志は逃げを打つ。
 だが。
 足を引いた途端、何かとぶつかった。カツンと予期せぬ音まで上がる。
 驚き振り返ると、先程の黒ずくめの男が保志の側に立っていた。少し驚いた表情をしているが、それ以上に面白くない顔をしている。当たり前だろう。手を洗おうと近づいた瞬間、自分の攻撃を喰らったのだからと、保志は己が彼にぶつかってしまった事を理解した。しかし、その事実に何の感情も湧きあがってはこない。
 何故ならば、素顔を晒した男は驚く程に、綺麗な顔をしていたからだ。相手に加えた危害を考えもせず、ただその顔に保志は見惚れる。
「ボサッとしているなよ、保志」
 言葉と共に、頭を叩かれた。その衝撃により落とした保志の視線の先に、割れたサングラスの映像が飛び込んでくる。自分が割ったのだろうかと考える前に、頭を叩いてきた男が同じ手でそれを拾い上げた。こういう時は、率先して動くらしい。
「どうやって弁償しようか?現金、同じ物。それともこっちのセンスで選んでいい?」
 四谷の声は、明らかにからかっているかのようなものだった。相手がそれに気付かない筈がないだろう。案の定、短い沈黙後、事務的な答えを口にするその声は色のないものだった。けれど、それでもその声は、やはり外見同様の魅力が滲み出たもので。間近で生み出される音に、保志は酔う。
「……ゴミ箱に捨ててくれるだけで、結構です」
 低いくせによく清んだその声は、まるで名器のようだ。綺麗な音と言うよりも、綺麗に聴かせる事が出来る技が詰まっているような。この男でしか出せないのだろう音に、一瞬にして飲まれる。演奏を聞いているような声だと、保志は男を見つめた。
 よく見れば、自分と変わらないくらいの年齢だ。二十代半ばから後半。落ち着いた感じはするが、三十路は迎えていないだろう。蛇口に手を翳す仕草にすら色気を感じるのは、多分そのアンバランスさ故だ。もしかしたら、見た目よりももっと若いのかもしれない。
 伊達に長年、大人の男達に酒を提供するする店で務めていた訳ではないと、保志はバーテンダーとしての目で男を眺めた。相手をするのは上手いとはいえないが、他人を認識し判断するのは不得意ではないつもりだ。自分にとって害がある者かどうかを見極めるには、相手の性格を知る事が大切であり、それには年齢や職業が重要である。ぽつりと溢す言葉や、小さな仕草を見落としていては、接客は務まらない。もしもここがカウンターならば、自分はこの男をどう見るだろうかと考えてみる。
 だが、考えを纏める前に、四谷のクツクツとした笑いに邪魔をされた。居たのかと思い出した存在は、一瞬にして世界を変える。
「まあ、そうツレない事を言うなよ」
「……」
「まさか、こんなところで会うとは。俺は運がいいのかな? ねえ、飯田クン」
 笑顔のまま、四谷は躊躇う事無くそう男に呼びかけた。何だ知り合いなのかと、明かされた事実に、保志の熱が若干冷める。だが、目の前で歪められる飯田の顔は、とてもではないが知人に会ったような表情ではなかった。
「…だったら、俺は運が悪いと言う事だ」
 言葉以上に本人の心を雄弁に語る声音は、私物を壊した自分よりも四谷の事を厄介に感じているのだと、保志に教えるものだった。
「おいおい、酷いな。俺に会ってそんな事を言う奴は少ないぜ」
「あんた、誰だ?」
「なんだ、忘れたのか?」
 馬鹿げた発言を相手にはされずとも、問い掛ける四谷の声はあからさまに弾んでいた。この外も内も強烈な男に一度でも会ったのならば、普通は忘れたくとも忘れられないものだろう。眉間に皺を寄せるこの人物は、本当に四谷を知らないのだと察する。保志はそう結論付けると同時に、楽しげな男の脚を遠慮はせずに蹴ってやった。自分が知らない者に自分を知られている事の不快を良く知る身としては、この黒ずくめの男に味方をする訳ではないが、これくらいの事をしてやらねば気が済まない。
「おッ、なんだ?」
 なんだ、ではない。どういうつもりだと、自分に問い掛けてきたその言葉を、今はそっくりそのまま返してやりたい気分だ。どういうつもりで、この男をからかっている。
 四谷が非常識人間であるのを自分は知っているが、初対面らしい飯田は知らないだろう。ならばこの状況では、そんな男と居る自分も同類に見なされる可能性がとても大きく、保志としては出来る対処はしておきたいというもので。これが当然の処置であった。
「お前、俺がフォローしてやろうとしているのにその態度か?ああン?」
 最初からフォローではなかっただろうと思える保志にとっては、四谷の凄みなど、取り合う気にはならないものだ。勝手に言っておけば良いと、青い目から視線を外し、顔を顰めたままの飯田にとりあえずここを出ようと指で出入口を示す。四谷の言葉ではないが、サングラスを割ったのは自分なのだから、このまま立ち去るわけには行かないだろう。
 四谷を避け、保志が先に扉を潜ると、飯田もそれに続いてきた。だが、その後ろから、四谷が懲りもせず言葉を投げ付けてくる。
「おい、グラサンなくても大丈夫なのか?」
 この場合、問い掛けは自分に向けられたものではないだろう。そう気付いた保志同様、逆に言葉は己に投げられたものだと悟った飯田が、嫌々ながらに振り返り言葉を返した。意外と言うか、やはりと言うか。不躾な四谷など構わなければいいのに、この男は律儀にも相手をする。整い過ぎた顔から、冷徹のように思えるが、性格は至って普通のようだ。いや、普通以上に真面目なのかもしれない。
「…大丈夫も何も、あんたが壊したんだろう」
「俺じゃないだろう、壊したのはあいつだ」
 自分ならば、間違いなくこんな四谷など相手にはしない。同じ様に、四谷もまた、自分が逆の立場で会ったのならば、五月蝿い男など蹴り飛ばすだろう。
 これでは四谷の思う壺になるのではないかと思いながら、保志は足をゆるめ二人を振り返った。飯田が居なければ、四谷のターゲットは自分になるのだろう。ならば、このまま二人を放ってさっさと離れるのが得策なのかもしれないが、流石にそれは良心が少し痛む。
 本当に極僅かのもので、どうという痛みでもないのだが。
「……故意に彼を俺にぶつからせたのは、あんただ」
「だから、俺が悪いって? 顔に似合わず口が悪いな」
「……」
 四谷の興味が自分から離れ、この飯田に移ったのは、喜ばしい事だ。四谷は絡み始めたら、自分が満足し飽きるまで絡む男だ。暫くこの状態は続くのだろう。それに、自分が付き合う理由があるのか考え、保志は即座に無いと結論を出した。しかし、逆に考えれば、己が絡まれないのであれば、五月蝿い以外の害は何も無い。後々の事を考えれば、ここで逃げるよりも一緒に居る方が、四谷に攻められる隙を与えなくてすむのではないだろうか。
 完全に足が止まっている二人を数歩離れた場所から眺め、どうするべきかと保志は今一度考えてみた。その辺にいる筑波のところへ行くか、一人でふらつくか、四谷の機嫌をとるか。それとも、この飯田某への興味を満たすか。
「…あんた、誰なんだ?」
「俺の知り合いの知り合いが、荻原仁一郎――と言えば納得するカナ?」
「……ヤの付く商売には見えないが?」
「当たり前だ、俺は医者だ」
 否。そちらの方が更に似合っていないだろうと、内心で突っ込みを入れる保志とは違い、飯田は納得しているのか「成る程…」と頷いた。思っても見ない反応に、保志は軽く肩を竦める。普通ならば、医者なんて嘘だろうと否定したくなると思うのだが、彼には違ったらしい。
「コラ保志。何だその顔は」
 目敏く呆れる自分に気付き毒を吐こうとする四谷を、保志は片手で制した。そんな事よりも、と。行き交う人を避けて腕を上げ、少し離れた場所に並ぶ店を示す。
 結局、サングラスはどうするんだ。キャラクターの付いたものばかりだろうが、代用品はあるだろう。必要ならば、買えばいい。
 持ち主の飯田にではなく四谷に眼と態度でそう伝えると、彼は違う事無くくみ取り、笑いを落とした。
「飯田、良かったなぁ。コイツが今すぐ弁償するってさ。ついでに、ネズミの耳や尻尾も買って貰えよ」
「……。…別に、もういい」
 四谷の言葉に、チラリと振り返り保志を見た飯田は、軽く頭を振りそう言った。だが、空かさず「良くねぇよ」と四谷がその肩に手を乗せ拘束する。
「コイツは端から気にしちゃいないようだが。言っただろう、俺医者だ。放っておけるか」
「光に弱いわけじゃない。サングラスはただの趣味だ」
「趣味ねぇ」
「だから、気にして貰わなくて結構です」
「気にするって言ってンだろーが、覚えろボケ」
「アンタこそ、」
「お前は特別なんだよ」
「……」
 四谷のそのひと言に、飯田は言いかけていた文句を飲み込んだ。何を言っているのか保志には全くわからず、対処を決めかねてただ二人を眺める。四谷が飯田の肩を押すようにして歩き始めたのを認識した次の瞬間には、保志もまた四谷に腕を拘束されていた。この二人には何があるのか。自分はどうしようか。そんな考えを持っていた事すらも馬鹿らしいくらいに、あっさりと四谷に捕まりその後の行動を決められてしまう。
「喉渇いたな。飯田、メガネが要らないのなら、お茶を奢ってやる」
「いや、俺は…」
「俺様の茶が飲めないのか?」
「…無茶苦茶だ」
 その呟きに、同感だと保志は即座に頷いた。二人の男を引き連れて歩く男は、中身も外見も、全てがそうなのだ。真面目に相手をしていては疲れるだけである。飯田が一人でここに来たとは思えないし、自分達もまた二人で来た訳ではない。筑波が何処かで待っているように、飯田も誰かを待たせているのではないだろうか。そんな事は、考えずともわかる。わかっていながら、四谷は飯田を拉致するのだ。悪質過ぎる。
「あの店で良いな。並ぶのは面倒だ。保志、行って来い。GO!」
 犬ではないのだ、掛け声だけではどうにもならない。
 やはり真っ先に逃亡をはかるべきだったのかと思いながら、保志は溜息を落とした。


□■□


 結局、声を出せない保志が行くよりも早いと、四谷は被害者であり気を使われる立場である方の飯田を、飲み物を調達させに行かせた。春の陽が照りつけるベンチを確保し、早々に腰を降ろす四谷に呆れ、飯田を手伝おうと屋台のような店に向かいかけた保志だが、「俺を独りにする気か?」と訳のわからない言葉で留まらされた。
 四谷がひとりになろうが、誰と居ようがどうでもいい。今は何よりも僕がひとりになりたいと、擬似木の椅子の上に腰を下ろし溜息を吐く。確実にひとりで居るだろう筑波を思い、ここを見つけてくれないだろうかと切に願ってみたりもするが、それはないだろう。全く乗り気ではなかった筑波の事だ。自分が四谷に捕まったのを理解しても、すぐさま慌てて探そうとはしないように思う。イカれていると認識しつつも、幼馴染のよしみでこの医者に信頼を置いている男の事だ。その内に戻ってくるだろうから問題はないと、気楽に考えているに違いない。今は悪魔の居ぬうちに羽を伸ばしているところだろう。だが、だからと言って恨む気にはならない。それはそれで、当然の行動だと思う。嘘ではない。
 事実、四谷の自分に対する絡みだけであるのならば、保志とて筑波を望みはしない。幼馴染である恋人には悪いが、四谷など正直どうでもいいので、思い遣る必要はどこにもない。ならば、至極簡単な事で、ただ避け続ければいいだけなのだ。だが、そこに第三者が加わり、且つ、その人物が四谷のターゲットになっているとなれば話は別である。
 四谷のあしらいに長けていない飯田を、何もせず見捨てたとなると、後で四谷自身に何をどう付け入られるかわからない。飯田を巻き込んだ原因は、若干自分にもあるので、保志としてはここに自分が居るのは納得せねばならない事だった。だが、そう理解出来ようとも、面白くないものは面白くない。遣り合うのならば、自分が知らないところで遣って欲しかった。そうすれば、少なくとも飯田に対する罪悪は微塵も浮かばないだろう。四谷など、考慮にも入れたくはない。
「何が不服だ、保志」
 足を組み仰け反っていた四谷が、無意識に零れた溜息でも聞いたのか、身を乗り出し顔を近づけてきた。テーブルに片肘を付き、指の背に顎を乗せる仕草は、モデル張りの雰囲気を醸し出している。明るい陽射しの下で見るその肌は怖いくらいに白く、また金色の髪もプラチナのように透けている。アイスブルーの眼は、ガラス玉よりも淡い。夢の国の住人にも負けず劣らず目立つ男は、ファンタジーを通り越して奇怪だ。着ぐるみの方が、人間臭いと言えよう。
「筑波を放っている事か?お前を解放しない事か? それとも…」
 口の端に笑みを浮かべ、四谷は視線を遠くへ飛ばす。
「それとも、彼の事情を知る俺に嫉妬でもしているのか?」
 お前、奴に見惚れていただろう。
 ククッと喉で笑う四谷を、保志は冷めた目で見返した。それが、一体どうしたというのだ。あの顔に見惚れない者などいないだろう。居るのだとすれば、それは自分にしか興味がない貴方ぐらいだと、保志は無言で投げかける。
 だが、それとは別のところで、四谷の指摘通りに他人に興味を抱いている己を改めて認識し、保志は胸に問い掛けた。同性を恋愛対象に出来るかどうかとかは関係なく、最低限の審美眼があれば、飯田の顔には魅せられるのだと思う。だが、それ以上に。自分はあの顔はただのきっかけで、男の中身の方に関心を持っているように保志には思えた。同年代だろう飯田は、けれども何故だろうか、年寄りのような匂いがする。自分とて人の事は言えないのかもしれないが、飯田からは歳相応の覇気が感じられない。しかし、だからと言って生命力がない訳ではなく、芯にある強さはじんわりと伝わってくるのだ。老人のようだと思うのは、そんな達観したような、人生の全てを知っているような、そんな感じがするからだろう。それなのに、子供のように、生真面目が影響したような不器用さを見せる。そんな不可思議な中身を持つ、端麗な男を気にするなと言う方が無理であろう。
「まさか、お前が浮気をするとはな。筑波に言いつけるぞ」
 しつこくからかう四谷を流し、保志は店の前に立つ飯田の後ろ姿を眺めた。本当に、律儀な男だ。走ってでも逃げれば良いものを、内心では不満を言っているのだろうに、四谷の言いつけなどに従うとは。物好きもいいところだ。案外、頭が弱いのかもしれない。
「お前はホント面白くないなぁ、もっと反応を返せよコラ」
 自分は四谷に面白がって貰う為に生きている訳ではない。
「ったく、これだから、自己チューは嫌いだ」
 その言葉、そっくりそのまま返してやろう。
「逆に、アイツはお前と違って面白い、興味深い奴だよ」
 ……アイツ…?
 保志が首を戻すと、振り向かせた事に満足したのか、四谷がニヤリと顔を歪めた。
「やっぱり、飯田に興味があるんだな」 筑波の事かと思ったが、四谷が今ここで言うアイツとは、飯田の事であるらしい。言われなくとも、既に自分は興味を持っているのを自覚していると、だからと言って貴方のように絡みにいく趣味はないと。保志は再び視線を戻しかけたのだが、続けられた言葉に、その先を欲するよう四谷を見つめてしまった。
「奴は、生きている亡霊だ」
 四谷はテーブルから身体を離し、腕を組み空を見上げる。
「数年前、飯田は病気で死ぬ筈だった。だが、あるヤツが彼を治し、死は免れた。普通はそれで、万々歳だ。だろ? だが、その治したヤツが問題だった。そいつはな、悪魔だったんだよ」
 馬鹿らしい。そう思った。
 だが、四谷の声は保志の耳から入り込み頭に刻まれ、途中で放棄する事など出来そうになかった。
「どんなに素晴らしい技術でも、使い手が悪魔ならば、それを認める訳にはいかないのが人間という生き物だ。神に愛されし子供が悪魔の手を借り生に縋った飯田のそれは、罪だと判断された。そして、悪魔による大病からの生還は、なかった事にされた」
 春の強い風が、何処からか一際大きな歓声を運んでくる。
 その中で。
「死んでいなければおかしい飯田は、けれども今、生きている」
 だから、生きた亡霊だ、と。飯田の受けた罰はそれだ、と。
 空を見上げたまま、四谷は静かに言った。

2006/06/13