□■ 6 ■□
保志が筑波と初めて身体を重ねたのは、雪がちらつく寒い夜の事だ。一時の欲望に忠実に従った結果として、欲した男とセックスをした。だが、貪欲な熱が引いた翌日は、それまでと変わりのない日常で。拍子抜けをするような思いを味わったのを今でも覚えている。そして、その数日後。新しい年を迎えた夜の行為は、けれども保志を動揺させた。
確かに、身体を繋げたのはその時が初めてではあったが、多分それだけが理由ではないだろう。今にして思えば、色んな事が重なる中での筑波との二度目の行為が、自分には少し重いものだったのだと保志は考える。その上で、他人を身体の中に受け入れた事に、自分は見事に動転したのだろう。筑波はもうそんな事は忘れてしまったかもしれないが、あの時の自分は今振り返り思い出してみても、可笑しい事この上なかったように思う。
誰も居ない部屋で一人黙々と頭を動かし、けれども何も考えられずに居座るだけが答えで、完全に思考回路がイカレていたのだろう。そんな中で、帰って来た筑波に安心して、また身体を繋げて。まるで何かを演じているように、自分は自分ではなかった。だが、求める心は確かに存在した。けれど、迷う心も在った。自身に覚悟を決めろと迫ったのは、それがなければ乗り越えられない類のものだったからだろう。
今でも、そういう不安と言うのか、不慣れゆえの迷いというのか、ハッと真実に目覚めるような感覚を持つ事がある。情事の後、僕は何をしたのかと小さな嫌悪を抱いたり。一人で筑波の部屋に居ると、このまま僕が消えたら彼はどうするのだろうかと考えたり。逆に、筑波が消えたら僕はどうするのだろうと思い描いてみたり。
多分、きっと。自分は思い出したように、見えない未来が気になっているのかもしれないなと、保志は思う。筑波と体を重ね始めた時も、お互いの関係はそれ程安定していなかった。そして、今はもっとあの時以上に、不穏な要素が沢山ある。夢から覚めるように、ふとした拍子に。まるで悪魔や精霊に耳元で囁かれるように。僕はそれを思い出すのだろうと保志は思っている。
筑波との繋がりに、不安を持っているわけではない。今こうしている事を、後悔はしていないし、無駄な事だとも思っていない。未来も確かにあるのだとさえ思っている。だが、その未来を守りきる事までは、自分には出来ない事だ。だから、直ぐ先に落とされるかもしれない爆弾を、それを実行するかもしれない男達の存在を、頭から消す事なく意識し、時に怯えるのだ。そう、自分は怯えているのだと、保志は自身で気付いている。だからこそ、今まで知らなかった事を知ろうと考えたのかもしれない。
それは、筑波を離さない為でも、自分が男の横を歩く為でもなく。未来という曖昧なものを、それでも見つめられるように。恋人が手にしようと努力するそれを、自分も見る事が出来るようにする為の。本当はそんな些細な、多くの者が既に持っているようなものを得る為の策なのだろう。近くばかり見てきた自分が、今になって何をと自分自身で思いもするが、可能ならば未来というものを自分も見てみたいとも保志は思う。
そう考えるようになったのは、真っ直ぐ前を見る筑波の影響であるのは間違いない。ならば自分の未来も、また筑波の未来も。確かなものではなくとも、その時その時変化する不安定なものでも、果てしないそれを眺めたいと思う。得る情報が一つでも多ければ、可能性は、未来は増えていくのだろう。
天川誠も、佐久間秀も。保志の前でそれを実行し、全てを見せ付けた。彼等が掴んだ未来は、穏やかなものでも幸福なものでもなかったが、保志には可能性を指し示すものだった。天川司の事を考えれば、今も、何故だと、どうしてだと言いたくなる。だが、それでも。あの二人は間違いなく道を切り開き、全てを勝ち取った。
自分にもそれが出来るのだとは、保志とて考えてはいない。僕には僕に出来る事しか出来ない。そう、その外は無理なのだとわかっている。だが、その中で。手を抜くような事をしては、悔やむ未来しか訪れないだろう。その予感だけは、確かな真実のように保志の中にあった。いつの間にか、自分もやるべき事をやる歳になった。今の自分は確かに、子供のような自由さはないが。それでも、友人が望んだような大人になれないわけでもないと思う。
裸の肩を強く掴みながら、例えば明日別れが来るのだとしても、この男と過ごす数年後を考えてみたいものだと保志は思う。以前の自分ならば、無意味だと、呆れる事すらしなかっただろう。だが、意味のない事などそうないのだと、漸くわかるようになってきた。
この世には、確かに無意味な事も、無駄な事もあるのだろうが。そんなものは心の在りかたひとつで変わるものだ。ならば、無意味にも無駄にもさせないように、自分がどうにかすればいい。何をしても変わらないのならば、その時に考えればいいのだ。学べばいいのだ。それが出来るくらいには、自分は大人になっているはずである。
――アイツが居なければ駄目なんだ。俺にはアイツが必要なんだ。
いつもそう叫んでいた友人を思い出し、保志は確かにそうだなと記憶の中の少年に応える。あの頃は、彼の気持ちがそうなのだとしか理解していなかった。だが、今なら、そんな存在がこの世にはあるのだと言う事が良くわかる。自分もまた、筑波直純でしかなければならないものを多く持っている。こうして身体を合わせるのもそのひとつであるし。こうして色んな考えを持つのも、この男だからこそなのだろう。絶対的な存在ではないが、無くしてはならない存在だ。今自分がこうして生きるのに、筑波の存在は不可欠だ。
一分でも一秒でも。この温もりの傍に居たい。この腕を掴んでいたい。この背を抱いていたいと、保志は筑波の首筋に顔を埋めるように、男の身体を引き寄せた。肩に押し当てた唇が、身体を流れる汗を拾い上げる。誘導されるように舌を出し、歯を立てると、噛まれた男は仕返すように保志の耳を指で捏ねてきた。引っ張られ顔を上げると、額に唇が落ちてくる。
「俺を喰うのか?」
苦笑しながらも真剣な灰色の瞳が、目前に迫ってきた。保志が目を閉じると、今度は瞼にキスが落ちる。喰えるものならば、喰ってみるのも悪くはないと思いながら、促されるように腕の力を解き拘束を外した。ゆっくりと顔から首、胸から腹へと下がっていく筑波の頭に触れ、けれども喰われているのは自分だと頭の片隅で笑う。
笑った事がバレタのだろうか。攻めが一段と増し、身体の熱が一気に高まって行く。与えるばかりでは、自分は干乾びてしまうと。僕にも与えろよと。保志は身体を起こし、筑波を引き寄せた。触れ合った互いのものは、早くも充分な堅さを持っている。擦り合わせ熱を吐き出すまでに、長い時間は必要なかった。
「…カケル」
言葉遊びのように。いや、それがひとつの性感帯であるかのように。そこを攻めようと、筑波が名前を呼んできた。荒い息で呼び慣れないそれを口にする恋人は、何だか舌足らずな子供のようで、面白いと思う。思うが、それを味わう余裕はいつも保志にはなく、ただ熱い息を吐き出すだけだ。ふはっと肺から零れた息が、まるで最後の空気のように思え背中が震える。
上手く吸えない空気を必至に求め、保志はしっとり湿る筑波の身体を押しやりながら、口をパクパクと動かした。まるで死にかけた魚だ。力の篭らない腕が、直ぐに筑波に押しやられ胸の上に落ちてくる。身体に挟まった腕を抜くと、筑波によって彼の背中へと導かれた。無意識に、盛り上がる肩甲骨に指を引っ掛ける。吐き出したばかりの精が、保志の後孔へと塗られた。
皺を伸ばすよう周りを弄っていた指が、プツリと先端を埋め込んでくる。軽く曲げた足に力が入ったのはこの場合仕方がない事で。それを良く知る筑波が宥めるように、気にするなと言うように、自分はわかっていると伝えるために保志の唇を啄んできた。ゆっくりと指が進んでくるのに、努めて強張りそうになるそこから力を抜く。
指ならば、まだ気持ちに余裕があるのか、コントロールは可能だ。
「翔」
再び、筑波が名前を呼んだ。恋人が何を欲しているのか、酸欠状態でぼんやりしかけている頭で漸く悟り、保志は筑波の耳に唇をつけ、直純とゆっくり口を動かす。零れる熱い息が、筑波の耳朶に跳ね返り、保志の鼻先までも擽った。頬へ移り、唇の上へと移り、同じ事を繰り返す。震えるそれがお前の声のようだと、筑波はこの行為を気に入っている。
僅かに触れ合っていただけであったそれが、不意に強く押し当てられてきた。四谷に付き合えば損をすると言うのならば、そんな事を気にするのならば。貴方が僕の割を合わせればいいじゃないかと、自分が車で仕掛けたキスに驚いていた男は一体何処へ行ったのか。同じ人物がするものではないような情熱的な口付けを受け入れ、保志は喘ぐ。クチュリと湿った音がどこでしているのか、直ぐにわからなくなった。いつの間にか、足を大きく広げさせられており、後ろを解す指が増えている。
保志は閉じていた瞼を半分開け、情欲に濡れた男の眼を間近で見つめた。どちらのものかわからない唾液を自分が嚥下し、飲みきれなかったものを筑波が舐め取る。自分が今、僕達は犬みたいだなと思っている事を知ったら、この恋人は呆れるのだろうか…? 頭の隅でそんなどうでも良い事を思うのは、多分意識が白濁しかけているからなのだろう。こういう時、ちょっとだけ喋れなくて良かったのかもしれないと、保志はつい思ってしまう。もしも話せていたら、セックス中の自分は多分バカな事を言ってしまっている気がする。よく、ハンドルをもつと性格が変わるというが。あれと同じで、筑波との性行為中の己はどこかオカシイ。興奮とはまた別に、テンションが高い。
変わった性癖は無く、筑波との行為に充分満足しているが。求められたならば何だってするだろう程に、気持ちが高揚している。求められずともやってやろうかと思うくらいに、何かをしたくなる。何だろうか、何ていうのだろうか。例えるならば、今日出向いたあの遊園地みたいなものだなと保志は思う。筑波とのセックスは、現実ではあるのだが、日常ではない。そんな特殊性があるように感じる。多分、他の誰かと同じ様にのめり込む程の性行為をしたとしても、この感覚は味わえないだろう。
「…挿れるぞ」
宣言すると同時に、堅いものが後孔に押し付けられた。そのままの状態で眼を覗きこまれ、保志は頷く代わりに瞼を落とす。無意識に詰めそうになってしまう息をゆっくりと吐き出すと、それに合わせるように筑波は腰を進めてきた。
何度身体を繋げても、慣れないものは慣れない。
後ろに感じる異物感だとか、痛みとかではなく、それは精神的なものなのだろう。身体の中に男を受け入れるという事は、自分が男である限り一生馴染む事はないと保志は思う。筑波をどれだけ愛そうとも、また逆に関心を無くそうとも、これは変わりはしないだろう。気分が悪くなるわけでもないが、男のものが進み込んでくる感触に、心の奥底で何かが揺れる。不快ではない、怯えでもない。だが、快感とは程遠いそれをそれでも許せるのは、その先に与えられる愉悦ではなく、ただ相手が筑波直純であるからだ。他の理由など、多分ない。
無意識に寄っていたのだろう、眉間に吸い付かれ、保志は目を開けた。顔中にキスをしながら、筑波がそっと、萎えた股間に触れてくる。緩やかな刺激に身体を任せ、保志は指先で筑波の耳朶を弄った。力の入らない手を耳にかけ、外れたところでまたそこに手を伸ばす。耳が弾かれるたび、筑波は小さな笑いを微かに口元に浮かべた。何気なく離れたそれを追いかけ腕を上げると、狙っていたかのように指を食まれる。赤子の悪戯のような仕草に、重ねた眼が優しく笑っていた。保志は自分の指に歯を立てる筑波を見ながら、軽く開けた口から舌を覗かせる。
解放された手を首筋に回すと、唇を塞がれた。侵入してきた舌が、口腔をゆっくりと巡回する。歯列をなぞられ、口蓋を辿り、舌の上を滑っていく筑波のそれに、保志の喉が鳴った。出て行く舌を追いかけると、今度は噛み付くようなキスをされる。身体の中に埋め込まれたものが、円を描くように回された。気付けば、保志に絡まる筑波の指が、強さを増している。肩を押しやり、荒い息で互いの身体の間に視線を飛ばすと、そこは充分な角度を誇示していた。
見せ付けるように、筑波は先端を捏ねくりまわし、爪を立ててくる。じわりと染み出す液を見ながら、保志は熱い息を溢した。上がる一方の息遣いが、可笑しな音を生み出す。鼻の奥から鳴るそれが、筑波の動きに合わせリズムを刻む。はぁはぁと息を溢す自分は、やはり夏場の犬のようだと保志は思いながら目を閉じた。
自分の体調を慮って我慢しているのか、それともペッティングで充分に満足なのかは知らないが。筑波はいつも身体を繋げたがるわけではない。数えた事などないが、互いを高め合い終わる事の方が多いだろう。受け入れたいと思えば自分から欲すればいいだけの事であるから、普段は保志も左程気にはしていないのだが。
こんな風に、顔を顰め汗を流している男を見ていると、不思議な気になってくる。自分のバックに性器を擦りつけ快感を求めている恋人は、どこか別人だ。それ程までの愉悦に、何故いつも溺れようとしないのか。おかしな男だなと、少し他人事のように保志は思ってしまう。ゲイではないから、抵抗があるのか。それとも、精力が衰え気味なのだろうか。理由は判らないが、こんなところまで筑波は筑波らしくて、考えると笑ってしまいそうになる。欲しいと求め、それでも与えられない時は単純にムカツクが。恋人なりに何らかの思い入れがあるのだろうセックスは、どんな形であれやはり得るものの方が大きい。
どんなに痛くとも、苦しくとも、心に靄が生まれようとも。醜く無様であろうと、筑波と身体を合わせていたいと保志は思う。実の兄との関係を告白し、軽蔑するか?と問うてきた友人に、今ならはっきりと答えられるだろう。自分は誰に軽蔑されようが、筑波との関係を止める気はないと。後悔がすぐそこに待っているのだとしても、この身体を食べるのを止めはしない。
歳をとり大人になって、僕は貪欲になった。大人になると諦める事ばかりが多くなるのだろうなと呟いていた友人に、保志はそれを教えてやりたいと思う。
筑波直純が目の前にこうしている限り、自分はこの男を食べ続けるのだ。何度でも。
喉を鳴らしながら果てる恋人に、保志は小さく呻いた。
まどろみの中、飯田真幸はどんな人物だったかと訊かれたので、保志は綺麗な男だと応えた。
「それは見ればわかる。…と言うか、お前。クロの言うとおり本気で惚れたのか?」
面食いだったのかと眉を寄せる筑波に、この男は何を言っているのかと呆れながら、保志はダルい身体を動かし携帯電話に手を伸ばす。仰向けに寝転がり、軽く腕を上げて小さな画面に言葉を打ち込むと、隣に頭を並べてきた筑波がその増えてゆく文字を追いながら、剥き出しの腕に指を滑らせてきた。こそばゆいとその手を払うと、低い笑いを落とす。
「つれないな」
つれないのはどちらなのか。情事の後で他の男の話題を出してきた筑波こそ、どうかと思う。手を払う方が可愛げがあるだろう。飯田の事が気になるのならば、あちらについて行けば良かったのだ。
そう呆れつつも、保志は正直に自分の胸の内を語った。飯田は確かに綺麗だが、だからと言って惚れるような相手ではないだろうと。僕には彼はひとつの形だった。そこに自分が関わる隙間はなかった。けれど、貴方には恋愛対象になるような人物に見えたのでしょうか?と。真横の筑波の顔が困惑に変わるのを感じながら、保志はボタンを打った。
【彼に魅せられる人は多いだろうが、惚れる人はそういないと思う】
「そうか…。正直、よくわからないが、お前がそう言うのならそうなんだろうな」
【話してみたらわかりますよ。彼は特別な感じがします】
「特別、か…」
呟くように喉で笑いを落とした筑波が、保志の手から携帯を取り上げ、その仕草の続きで腕の中へと捉えてくる。枕元へと置かれる携帯を眺めながら、保志は緩く拘束された身体を捻り、筑波の胸に背中を押し当てた。首筋に頭を押しつけると、髪を梳かれ、こめかみにキスをされる。
顔の前に置いた保志の両手を、筑波は片手で包み込んできた。一対ニならば流石に自分が勝つなと、保志はその手を逆に捕らえ込む。検分するように両手を使って弄っていると、筑波は独り言を口にするように、ポツポツと昼間に出会った男達の話をしてきた。それは四谷から聞いた事が大半であったが、荻原を加えたところで見た飯田は、実際に接した男とは少し違った。筑波が語る噂の中の飯田は、何だか特殊な存在だ。人間ではないかのようだと感じ、だからこその「生きた亡霊」なのかと呆れる。
けれども、飯田は人間だった。保志自身、その命の特殊さを肌で感じはしたが、それでも人間でしかなかった。だが。実際の飯田と、噂の中の飯田とのギャップは、まるで計算されたかのように精密なもののように思える。本物の飯田に触れたとしても、その差を掴む事が出来る人物はそう多くはないのかもしれないと、何だか納得してしまいそうになる。自分自身、もしも四谷があんな風に絡まなければ、飯田の中身を知る事は出来なかったのかもしれない。彼が昔一度だけ訪れた事のある、あのバーの存在を忘れ去っていたのならば、あの邂逅はなかっただろう。
そう考えると、何だかあの接触は特別だったような気がして。飯田が、自分の演奏を聴きたいと言ったのが自慢出来るような気がして。保志は身体の向きを変え、遠ざけられた携帯を再び手に取り、筑波に飯田との遣り取りを少し明かした。話題の中では二度と会えないような人物だが、そうではなくまた会える可能性があるのだと、まるでこれは奇跡ではないかと若干興奮気味に伝える。飯田に会える事よりも、筑波に自慢するのが目的のように、保志はどうだと胸を張る。そんな自分をガキだなと思ったが、面白さの方が勝っていた。
「……そうか」
小さな画面を眺め、苦々しく頷く恋人が楽しくて仕方がない。
【気に入りませんか】
「別に、そういうわけじゃない」
【だったら、貴方も僕と居ればいい】
「だから、違う」
【なら、僕が飯田氏を追いかけても気にしない?】
「……お前までからかわないでくれ」
四谷の戯言を肯定するような発言をすると、ふざけている事が漸くわかったのか、溜息交じりに筑波が弱音を吐いた。保志はそれに苦笑し、確かに冗談だと認め謝る。だが、飯田に靡くかどうかはさて置き、演奏は聴いて貰いたいものだと正直に告白をした。会えたのならばいいなといった他人任せではなく、本気でまた会いたいと願う思いは強くなる一方だ。
飯田にサックスを聴かせ、昔と変わった自分を確認してみたい。
「浮気はするな」
【向こうが僕を相手にしません】
何をバカな事をと、筑波の的外れな言葉に応えると、「彼は兎も角。お前は何を仕出かすかわからないんだ」と言い返された。ヤクザにそんな事を言われる自分は一体どんな奴なんだと、保志は再び筑波の不可解な認識力に呆れる。だが。
「冗談じゃないんだぞ、保志。お前が浮気をするのは、当然、俺としては面白くはない。だが、そうなるのには理由があるんだろう。お前ばかりを責める気はない。けれど、飯田は駄目だ。正直、付き合いを持つのは止めて欲しいとさえ思う」
思った以上の筑波の真面目な声に、内容のバカらしさよりもその勢いに飲み込まれ、保志はマジマジと恋人を見つめた。裏社会にも顔が効く荻原の知人か何かは知らないが、一般人でしかない飯田相手に何を警戒しているのか。予想外の反応に、何をどう返せばいいのかわからず、ただ驚く。
「嫉妬じゃない。…いや、嫉妬もあるのだろうが、それだけじゃない。本人がどうなのかは兎も角、彼が特別であるのに変わりはないんだ。下手に付き合っていたら、何が起こるかわからない。程々にしてくれ」
心配、不安。それとも、予感だろうか。
筑波のそれが保志には全然わからない。わからないが、自分の事を考えてのものだろうと思えるので、善処すると頷いておく。違法な技術で命を存えた以上の何かが、飯田にはあるのかもしれない。
「佐久間の時のように、無闇に追いかける事だけはしないでくれよ」
真剣になってしまった自分を誤魔化すかのように、筑波は小さく笑いながらそう保志を茶化してきた。だから、どんなにあの姿に魅せられようとも、飯田はそういう対象では全然ないのだと。向こうから近付いてこない限りは、自分も動く気はないんだと。保志は先の話が通じていない筑波に少し呆れたが。四谷の戯言に感化され、要らぬ心配をしているらしい恋人を笑ってやる。
バツが悪くなったのか、筑波がキスを仕掛けてきた。自分も大概だが、この男も一人で色々考え疲れる男だと、保志はそれを受け入れる。元々似たもの同士だったのか、二人でいるうちにそうなってしまったのかわからないが。仔犬がじゃれあうような口づけを交わしながら、保志はそれをほんの少しだけだが心地良く思った。
□■□
保志が目覚めた時は、当然ながら隣には温もりがなく、筑波は出掛けた後だった。終電には十分余裕があるので、帰り支度を済ませアヒルと共に部屋を出る。それは別に要るものではなかったのだが、四谷が買ったものを恋人の部屋に置いておくのは流石に面白くはなく、そうかと言って処分するのも何なので、一緒に帰宅する事を決める。正直、万全ではない体調で、デカい荷物など運びたくはないのだが、しょうがない。
アヒルを腕に抱え夜の街を歩くと、手が塞がっているのが見て取れるからか、いつも絡んでくるチラシ配りも相手にしてこなかった。だが、相手にされないのは他の人間からも同じで。切符を買うのも、電車に乗るのも、少し苦労した。大きな荷物を持っている人が自分の目の前に居たら、少しは反応を示しても罰は当たらないと思うのに、顔すら上げないのは如何なものか。最近の社会人はなっていないなと感じながら、スルーしてくれた駅員に心の中で舌を出してやる。自動改札にこれを挟み込んでやれば良かったのかもしれない。
「ママ、見てッ!ドナルドだよ!」
何故に12時に近いこの時間にぬいぐるみよりも小さな子供がいるんだと思いながらも、仕事柄慣れているので、保志は騒ぐ女の子の横にそれを無理やり座らせてやった。母親が慌てて子供を自分の膝の上に抱き上げるが、気にしても仕方がない。酔っ払いのオヤジよりマシだと思ってくれる事を少し願い、空いたスペースに腰を降ろす。アヒルは投げだした脚の上で充分だ。
終電に近い電車は、けれども乗車率が多く、人いきれにウンザリする。筑波の部屋に泊まれば良かったかと思いながら、保志は腕を組み眼を閉じた。だが、隣の子供が騒ぎ続けるので休めはしない。仕方がないのでぬいぐるみを使い適当に相手をしていると、降りる駅に着いてしまった。アヒルの手を掴み子供に手を振ると、バイバイと両手を振る子供の上で母親が軽く会釈を寄越す。あの子にこれをやれば良かったなと思ったのは、電車が去った後での事だった。だが、子供の手を引き、更にこのぬいぐるみを抱える事は、流石にあの母親には無理だろうと直ぐに思い直す。そもそも、そんな申し出をしたとしても、きっと彼女は受け入れないだろう。
大きなぬいぐるみではなく、それを持つ自分が注目されているんだと漸く保志は気付き、家路を辿りながら喉の奥で笑いを噛み殺した。チラシ配りにも避けられていたのだとわかると、周囲の様子も少しは見えるというもので。ほろ酔い加減のサラリーマンまでもが振り返るのを視界の端で捕らえながら、口角を歪める。だが、別段、特にこれと言った思いは浮かばない。通りすがりの者に馬鹿だと思われようが、痛くも痒くもない。
それよりも。あの医者が喜びそうな事をしている自分自身に、保志は少し呆れた。
そして。家族からすれば、それ以外にはないと言うものなのだろう。
帰宅した息子の姿を見た父は、どうやって帰って来たのかをまず聞き、電車だと知ると呆れきった表情を見せてきた。その隣の母も、同じ様に笑う。だが、それでも息子から受け取ったぬいぐるみをソファに座らせ、名前を付けなければねと言った。親不孝にも、それが彼女の本来の性格ゆえの発言なのか、事故の後遺症によるものなのか、愚息である保志には判断出来ない。しかし、夫である父がそれでいいのならば、問題はない。
世界的に有名な名前が付いているにも拘らず、ぬいぐるみはガッくんと命名された。母がその名を呼ぶのを保志が聞くのは、多分そうないだろう。ニ、三日もすれば、忘れてしまう。それ以降は、父が母に名を教えるのだ。覚えきる事は、この先一生ないだろう。
ガッくんと息子に就寝の挨拶をして休む母と、それに付き添う父を見送り、保志もまたリビングから自室へと引き上げた。数時間眠った筈だが、流石に体は休息を欲している。週の半分も使われないベッドへ横になり、眠る為に体から力を抜く。
落ちていく意識の中で、今日一日の事が、思い出した過去の事がグルグルと回った。けれど、そんなものを掴んでいては眠れない。明日になればまた、それらは勝手にやって来るのだから相手にはしないと、保志は闇へと落ちる。
誰もが、理想と現実を行き交いながら今を生きているのだ。自分だけではない。繋がる相手もまた、そんな風に生きている。自分と筑波も、四谷と高山も。そして、飯田と荻原も。そんな中で互いを出し合い、関係を築いているのだ。一日一日はとても短いけれど、その時間は夢でも何でもなく、確かに時を刻んでいる。悩みはしても、迷いはしても、溺れる事はない。
アヒルだって、その瞬間までは、まさか別の名が与えられるとは思ってもいなかっただろう。だが、日常なんてそんなものだと。だからこその生活だと、保志は思う。生きるとは、一日を続ける事だ。
僕達は、運命という決められたレールを歩いているのだとしても。それを変えられる力を持っていないわけではない。従うだけが、全てではない。
日々の積み重ねが何かを変えるのだと信じるのは、多分きっと、夢を見るよりも有意義な筈だ。
この営みに、無駄はない。
END
2006/07/01