□■ 5 ■□

 来たからには夜のパレードまで見なくてどうすると、そうのたまう四谷を相手にはせず、仕事が早まったからと筑波は保志を連れての撤退を決めた。からかうように、または拗ねるように、ペラペラ喋る幼馴染みをあしらいながらゲートを通ると、彼もまた同じく園を後にする。一人では居られないのか、それとも、文句を言いつつも実はもう充分に満足しているのか。理由はわからないが、散々文句を言った割には一緒に帰るらしい四谷に筑波が溜息を吐いていると、前を行く保志がそれを聞いていたかのように振り返り足を止めた。
 真っ直ぐと自分を見ながらも、どこか遠くを眺めているかのような恋人の様子に、思わず振り返りそうになる。だが、それでも保志が見ているのは彼方ではなく、この自分であるのだろう。いつもの事だがどうしてこいつはこんな風に俺を見るのか。つい、筑波は胸中でそうぼやきを落とす。
 癖と言うのだろうか、性格と言う方がいいのか。保志は常に、その心に合う眼で他人を見る。抱き合っている時は勿論、筑波を恋人として意識している時は、甘く優しく色気のある眼をする。だが、どうでもいい時などは眼中にさえ入れない。今も保志は恋人を見るのではなく、ただの同行者に向けての視線を筑波に飛ばしてきていた。保志は意識して、それを使い分けているわけではないのだろう。そんな器用さを発揮する性格ではない事を考えれば、間違いなくそれは無意識だと言い切れる。だが、だからこそ、この上なく性質が悪いのだ。口に出す程の不満があるわけではないが、正直に言えば少しどうにかならないだろうかと筑波は思う。
 喋らないくせに、意思表示が少ないくせに、保志の眼は多くを語る。いつの間にか、何となくだがそれを読み取れるようになった事は、単純に嬉しいと思えるものである。だが。それとは別に、恋人の淡泊すぎるその性格を、出来るものならば改善してやりたい。特に大した理由など無いのに、恋人を他人に向けるような眼で見るのだ。せめてそれだけでも、何とかしたいと考えるのは当然だろう。本人にとっては余計なお世話なのかもしれないが、直す必要がないわけではないのだ。少なくとも、ここに気にしている人物がひとり居る。
 もう少し丸みが出ればなァ、と。相変わらずな保志の視線にヘコまされつつ、筑波は声をかけた。
「どうした保志?」
「お前は迷子か、子猫ちゃん」
 筑波の声に続くよう、四谷がからかう。だが、車を停めた場所を忘れたんだろうとニヤつく男を完璧に無視し、保志は近付いた筑波と視線を合わせながら口を動かした。短く動いた唇に、二本の指が触れ、遠ざかる。煙草を吹かす仕草だ。
「煙草か?」
 筑波が言葉で確認すると、保志は瞬きをする事で肯定した。
「持っていないのか」
 珍しいなと思いながら、筑波はジャケットから取り出したライターと煙草を箱ごと渡し、恋人の動きを眺める。器用にケースを振り一本飛び出させた煙草を口に咥えた保志は、どこか気だるげな仕草で火を点けた。だが、左手では四谷に無理やり贈られた大きなぬいぐるみを掴んでいるので、使っているのは右手のみだ。実際には、そんな余裕はないのだろう。しかし、一口目の煙を吐きながら歩き出した保志は、ライターも煙草も返しはせず、手の中に収めたままだった。筑波が手を差し出しても邪魔な荷物を渡してはこずに、両手が塞がった状態で煙草を吹かしながら車に向かう。
「ドナルド、放さないのな」
「…あぁ」
「あいつ気に入ったのか?」
「さあな…どうだろうな」
「確かに、あの尻は可愛いか」
「そうか…」
 四谷の言葉に、筑波は生返事を繰り返した。
 園内ではマナーを守り遠慮でもしていたのだろうか。車まで戻れば自分の煙草があるのだろうに、あと数十メートルの距離でそれを欲した恋人の背を見ながら、筑波は少し違和感を憶える。煙草を良く吹かしはするが、保志はヘビースモーカーではない。なければ無いで我慢が出来る、意志の強い喫煙者だ。ニコチン中毒ではなく、ただの手持ち無沙汰というか、口寂しさに吸っているような感じだ。多分、禁煙しようと思えば簡単に出来るのだろう。
 それなのに、このタイミングで何故煙草を?と考えかけ、筑波はその答えが直ぐ近くにある事に気付いた。数メートル先の車から、今まさに降り立った人物が、保志の煙草の理由だ。車を覚えていたのか、それとも勘でも働いたのか。何にしても、三人の中で一番初めに気が付くとは目敏い奴だ。一般人とは、聞いて呆れる。これでは、裏社会で生きる自分達は形無しだ。
「…クロ、迎えだ」
 一体保志はいつから気付いていたのかと、現れた高山の姿から目を離さずに筑波が告げると、「…無視しろ」と短い命令が隣から上がった。だが、この距離ではもうそれは無理だというもので。出来るのは前を行く恋人ぐらいだと思った筑波の判断を証明するかのように、保志は微塵の関心も示さずに高山の前を通り過ぎた。けれども、それが逆にあからさまであり、続く筑波がフォローせねばならなくなる。
「筑波さん、お久し振りです」
「ああ、どうも……おい、クロ逃げるな」
 足を止めた筑波の横を、まるで保志を真似るかのように無言で過ぎ去ろうとした四谷の腕を素早く掴む。高山もまた、その行く手を阻むように、四谷の前に身体を滑らせた。
「……邪魔だ、退け」
 体格は高山の方がしっかりとしているが、身長は若干四谷の方が高いのだろう。だが、例え四谷の背が半分であったとしても、その高山に対する態度は変わらなかったはずだ。四谷は物理的な高みからではなく、心理的なところから高山を見下げていた。しかし、そんな暴君の様子など気にもせずに、高山は真っ直ぐと四谷の苛立ちを受け止めつつも、己の職務を実行する。
「戻りましょう、成京さまがお待ちです」
「死ぬまで待たせておけ、葬式には帰ってやる」
「ご冗談でも口に出して良い事ではないです、弁えて下さい」
「お前、俺に何年仕えているんだ。俺はいつでも本気なのを知らないとでもいうのか。話にならないな」
「私と話す必要は、今は特にありません。お戻り下されば、それで結構です」
「……筑波、行くぞ」
 高山の物言いに何か思うところがあったのだろうか。暫し沈黙を作った四谷は、けれども頷きはせずに筑波を促してきた。いつもは四谷の行いに耐えるように仕えている感じが強い高山が、珍しくも退きはしないその態度に、筑波はここに来るまでも二人が遣り合っているのだろう事を憶測する。
「つーか、おい。お前はいつまで俺の手を握っているんだ。放せ」
「何かは知らないが、お前は高山さんと帰れ。今まで付き合ったんだ、もう良いだろ。俺と保志は今から行く所がある」
「ああン? まだ陽は高いぞ、ホテルにしけ込むには早いぜ」
 何が仕事だ。何なら、俺も混ざってやろうかと笑う四谷を相手にはせず、筑波は腕を離し足を踏み出した。だが、直ぐに今度は逆に腕を取られ、進んだ距離を引き戻されてしまう。夢の国は兎も角、こんな事にまで付き合うつもりは更々ない。
「クロウ…!」
 いい加減にしろとの意味を込め名前を呼ぶが、筑波の低い叫びなど耳に入っていないかのように、四谷は高山に言い放つ。
「高山、お前は帰れ。いいな?」
「いいえ、良くありません」
「俺の伝言をあいつに伝えて来い」
「旦那さまが待っておられるのは、貴方の考えではなく、貴方自身です。貴方が一緒でなければ、私も戻れません」
「なら、一生そうしていろ。何なら、そのまま辞めちまえ。ああ、そうだな。お前が辞表を書いたのなら、俺があいつのところへ持って行ってやってもいいぜ?」
「……」
「奴の葬式か、お前の辞表を代理で届けるか。それ以外で戻る気はねぇ。失せろ」
 高山にそう言い捨て、四谷は筑波を引き摺るようにして足を進めた。だが、当然ながら高山がそれで退く訳もなく、二人の後をついてくる。本当に、冗談ではない、だ。何を揉めているのかは知らないが、どんなに抵抗しようとも四谷があの成京に勝てるわけがないのだから、この辺で適当に諦めて退けよと筑波などは思うものだ。そもそも、何故に自分がこんな形で揉め事に巻き込まれねばならないのか。甚だ遺憾である。
「おい、クロ」
「あン?ウザイ事は言うなよ、筑波」
「そうじゃなく……歩き難い」
「転んだら、診てやるよ」
「……高山さん、こいつを連れ帰って下さい」
 取り付く島の無い幼馴染みに呆れ果て、つい後ろを振り返り、愚痴るように筑波は高山に助けを求める。だが。
「鋭意努力中です」
 高山は真面目に答えながらも、困惑気な表情を顔に浮かべた。成京の私設秘書と言えばいいのか、SPと言えばいいのか、運転手と言えばいいのか。何らかの確かな肩書きが付けられているのだろうが、実際の高山の仕事と言えば、哀れにも四谷の世話役だ。こんな男の世話など、苦労以外の何ものでもないだろう。
 だが、意外にも、成京と四谷を繋ぐ役割である高山は、割に合わないその仕事を忠実にこなしている。それは、尊敬に値するくらいの働きだ。四谷クロウの人となりを知る筑波としては、思わず頭を下げてしまいたくなる程の尽しようである。十年以上よくもまあ、こんな男に仕えたものだ。仕事だなんて言葉では、到底割り切れるものではなかった筈。
 四谷の事だ、必要以上に高山を扱き使ってきているのだろう。ならば、普段のそれを差し引けば、こういう時は高山の顔を立て仕事に協力してやるべきものをと筑波は思う。言葉も態度も悪いが、実はこうして四谷が高山に対して甘えているのだというのは長い付き合いでわかっている。だが、度を越せばただの我儘でしかなく、彼のそれに筑波自身は協力するつもりはない。それでなくとも、高山とはこんな事態でばかり顔を合わせるのだ。四谷に味方をしていては、どれ程こちらが敬意を持っていようと、何の関係も築けなくなってしまう。筑波としては四谷がどんなに高山を必要としているのかはわかっているので、幼馴染みのそんな相手とはそれなりに上手くやりたいというものである。下手に揉めたくはない。
 実際。傍若無人な男には内緒だが、今までにも良き関係を得る為に、四谷の扱い方のアドバイスをした事があったりする。幼馴染みとは言えヤクザである自分を高山が良く思っていない事を知ってはいたが、逆に筑波は、本気で年下のガキに仕えている男に好感を持った。だから、高山が顔を顰めるのも構わずに、四谷の事を語ってみたりした。自分が仕える人物に、興味の無い人間などいない。その興味が好意に変わればいいと、筑波は高山に四谷を知って欲しいと思ったからこそ、色んな話を勝手に聞かせた。それは、まだ若い、あの頃だったからこそ出来たものだったのだろう。高山もまた、若かったからこそ話を聞き、筑波の評価を変えたのだろう。もしも、今同じ事をしたとしても、同じ結果は得られないと思う。あの頃だからこそ、自分は高山に認められたのだ。そうでなければ、「四谷さんには悪にしかならない」と、四谷から引き離されていたに違いない。
 高山と言う男は、筑波が想像した以上に、四谷に仕えている。そして、四谷もまた思っていた以上に、高山を必要としている。正直、自分が入り込む隙間はもうそこには存在しないのだと、筑波は考えている。だが、そうであるというのに、相変わらず四谷は筑波を巻き込み、高山は筑波に何故か遠慮気味だ。犬も食わない喧嘩に巻き込まれる身にもなって欲しい。
「努力の仕方を変えてくれ。説得ではなく、強攻手段でお願いします」
 口を挟みたくはないが、この場合は仕方がない。筑波が意を決しそう口にした瞬間、グイッ腕を引かれ「…お前はアイツを焼き鳥にして俺に食わせたいのか?」と四谷が低い声で問い掛けてきた。この場合、滅相もないと苦笑で流し、冗談だと笑うしかないのだろう。実際に筑波はそれを実行しながら、もしも今、昔自分が高山にした所業が四谷にバレたのならばと考える。この幼馴染みは絶対、やり返さねば気がすまないとばかりに、保志にある事ない事俺の過去を語るのだろうなと筑波は想像し、眉間に皺を寄せた。
 筑波が高山に四谷の話をしたのは、もう十年近く前の事だ。時効だとさえ言えるだろう。しかし、四谷がそんな事を認めるとは思えないので、やはりこの先もあの話はバレないに限る。高山の口の堅さは折り紙つきであるので心配はしていないが、四谷の勘の良さもまた驚異的なものだ。こういう場では、何だかんだと意見を述べるのはやはり得策ではない、首は突っ込まないに限る。大人しくするしかない。幼馴染の気が済むようにさせてやるかと筑波は思う。だが、そう思った時に視界に入ってきた恋人の姿に、自分は兎も角、彼を振り回す事になるのならばそうもいかないなと考え直す。
 保志は、四谷を苦手としているわけではないようだが、好いているわけでもないようだ。四谷との関係に文句を言う事はないが、自分は貴方のようにイカレた医者と付き合う気はないと、保志はいつも眼で語ってくる。貴方は物好きだなと、呆れている。
 ならば、普段であるならまだしも。今までパーク内で四谷に振り回され、再び高山の件で振り回されるのはどうだろうか。やはり、このまま四谷を連れて行く事は出来ないなと筑波は考え決める。だが、決めたところでどうすればいいのか。高山には余り期待は出来ない。
「なに寛いでいるんだ、さっさと乗れ」
 筑波の車に近付いた四谷が、ボンネットに腰を掛けていた保志に命令を落とす。だが、保志は何本目かの煙草に火を点けながら、四谷のその言葉を右から左へと綺麗に流した。ドタバタとやって来た三人の男達には視線も向けず、空に向かって細い煙をふぅっと吐く。高山の出現により、直ぐには出発出来ないと判断した保志は、筑波から頂戴した煙草で一服を楽しんでいたようだ。アスファルトの上には、数本の吸殻が転がっている。
「筑波、鍵」
「いや、運転は俺がする」
「ああ、そうかよ。それより、早くこいつを退かせろよ。それとも轢く気か?だったら協力してやるぜ。ついでに、高山も轢けばいい」
 全然良くはない事を口にしながら四谷は保志に近付くと、その唇に挟まれていた煙草を人差し指で弾き飛ばした。隣の車の前まで飛んだまだ長い煙草を、漸く腰を上げた保志が数歩進んで靴底で踏み消す。
「無茶をするな、クロウ」
「問題はない」
「そういう問題じゃない。……保志、行くぞ」
 鬱陶しいというような眼差しで自分達を眺める恋人に筑波は声を掛け、運転席側に回りながらポケットを探った。だが、鍵を取り出した時、戻ってきた保志が筑波の腕に軽く触れてきた。何だ?と思い振り向くと同時に、左手からキーを奪われ、代わりにアヒルの人形を胸に押し付けられる。
「おい、筑波!」
 退かない高山を無視しながらも、解除されないドアロックに焦れたのか、四谷が苦々しげに筑波の名前を呼んできた。それに対し、あぁと返事をしながらも、筑波は腕の中のぬいぐるみと保志に視線を走らせ眉を寄せる。一体どう言うつもりだ…?
「ああ、もう五月蝿いッ!高山、いい加減に…オッ、何だ?」
 助手席側のドア前で押し問答をしていた四谷の腕を、近付いた保志がクイッと引き、車の間から連れ出した。四谷もまさか保志がそうした行動に走るとは思っていなかったのだろう、簡単に通路にまで足を運び、「どう言うつもりだ、お前…?」と眉を寄せる。
「態々こっちからじゃなく、向こうから後ろに乗ればいいだろう。それとも何か、ナビシートは譲れないという事か?おい筑波、お前躾がなって――なッ!?」
 躾がなっていないなとの四谷の声は、驚きに吸い込まれる息の中に消えた。
 保志の攻撃は、突然だった。もう一度、喋る四谷の腕を、今度は下に向けて引っ張り、バランスを崩しかけたところに足を振り上げた。四谷の尻に保志の踵が入る寸前、高山が四谷の身体を引きそれを避ける。だが、足が地面に戻ると同時に、保志は前のめりに踏み込んだ。向かってくる保志に気付いた高山が、素早く四谷を自分の背中に回し、保志に向かって構えを見せる。
「保志ッ!?」
 腰を落とした高山に保志は怯んだのか、前に向けようとしていた力を自分へ戻し、そのまま数歩後ろに身体を引いた。何をしているんだと筑波が車の鼻先に立つ保志の腕を掴もうとすると、後ろ手に鍵を戻された。受け取る寸前、カチャンとロックが解除され、そこで漸く筑波は保志の意図を悟り、足を踏み出した保志を止めようとはせずにおく。
 筑波が運転席に再び戻りドアを開けた時には、保志が高山に向かって足を振り上げているところだった。後ろの四谷を庇いながら身体を引いた高山の前で、保志の足が綺麗に弧を描く。まるで踊っているようだなと思ったのは、あながち間違いでもないだろう。
 続けて足を蹴り上げる保志を見ながら、筑波はエンジンをかけゆっくりと車を出した。車内の篭った空気を逃がす為に窓を空けると、後退させられている高山の後ろで、四谷がどういうつもりだと出した呆れ声が入り込んでくる。本当に何を考えているのか。高山に向かう理由は判ったが、それは呆れるしかないものだ。余り理解したくはない。
「保志さん、貴方に手を出したくはない。止めて下さい」
 高山のいつもと変わらない淡々とした声が聞こえる。だが、それにより四谷は状況を悟ったのだろう。傍観を決め込んでいた筑波に向かって、高山の背後から視線を飛ばしてきた。フロントガラス越しに、四谷と眼があう。バレた。それを筑波が確信した時、いつの間に逃げを打っていたのか、保志が助手席に乗り込んできた。
「クソッ!テメェら、憶えてろよッ!」
 高山に抑えられながら叫ぶ四谷の声など聞こえていないように、保志は早く出せと筑波を視線で促す。アクセルを踏み込むと、シートベルトをしながら保志はチラリと後部座席で転がるぬいぐるみを確認し、シートに身体を預けた。四谷を気にする素振りは全くない。
「余り無茶をするな」
 筑波の言葉に、保志は器用に片眉を上げた。何が無茶だったのかと、何か問題があったのかと、視線で問い掛けてくる。確かに、これと言った問題はない。保志が四谷を遠ざける為に動いた事を、高山は直ぐに気付き協力をした。だからこそ、彼が手をあげる事はなく、保志は無事であった。また、逆に二人を傷つける事も無かった。その結果を見れば、最善の方法だったと言えるのだろう。どれだけ説得したところで、四谷が高山と共に帰るとは思えない。保志の機転はこれ以上はないくらいに効果を上げた。だが、しかし。如何せん、相手はあの四谷だ。今後が心配でもある。
「相手を見ろ。クロには絡まれるだけ損をするぞ」
 それに。もしも高山が気付いていなかったら。反射的に腕を振り上げてしまっていたらと思うと、ぞっとする。保志とて男だ、暴力に免疫がないわけではない。実際に、筑波が知る限りでも、保志はヤクザに暴行を受けた事が何度かある。だが、護衛官として確かな実力を持つ高山の力の使い方は、ヤクザのそれとは全くの別物だ。痛めつけるのが目的のヤクザの暴力とは違い、ボディーガードは敵の鎮圧を目的とする。保志が落とされていたかもしれない危惧に、小言でしかないとわかりつつも苦言を呈す筑波の声は、意識せずとも低いものとなった。
「いいか、保志。危ない事はしないでくれ」
 切実でもあるその言葉に続くのは、沈黙のみ。走行音に掻き消されたかのようなそれに、わかったとも嫌だとも意思表示してこない恋人の内面を筑波は思い描く。
 言葉を発せられない保志とドライブ中に会話を交わすのは、どだい無理な話だ。例え保志がメモに思いを記しても、ハンドルを握る筑波には確認出来ない。運転時にはYESかNOで答えられる簡単な意見を交わすだけで、いつもは話し込むような会話はしないようにしている。それは、すれば絶対に筑波の独壇場になるからだ。だが、それでも。保志が面白くないと思うのだろう事をわかりつつも意見を述べたのは、保志自身を思っての事だった。無謀とさえ言える暴挙に出た恋人を窘めるのは、自分の役目だと思ったからだった。決して、保志の行動を否定するわけではない。
 四谷が高山と帰るべきだとは、自分とて思っていた事だ。だが、だからと言ってあんな事をするなんて。相手が高山ではなかったら、今頃は腹に一発喰らっていたかもしれない。保志自身はそんな暴力は気にしなさそうだが、俺は嫌なんだと筑波は眉を寄せる。この自分の心配をわかって欲しいと思う。
「保志、わかったのか?」
 しかし。そもそも保志を巻き込んでいるのは自分自身であるのだから、これはただのエゴなのだろう。そう思いつつも、今は保志にわかったと言わせたくて。筑波は言葉を重ねた。それでも何の反応も示さない隣に視線を向けると、恋人は軽く腕を組み目を瞑っていた。
「……おい」
 タイミング良く赤信号で車が停まったので、指の背で額を軽く打ってやる。寝起きの子供のようにゆっくりと瞼を上げた保志は、眉間に皺を寄せる筑波を眺め、片方の口角を上へと引き上げた。お前は俺の話を聞いていなかったな?と溜息を落とすと、恋人は背中を起こし運転席側に少し身を乗り出してくる。
 間近に寄った眼が、チラリと信号を確認し、直ぐに筑波の眼に重なってきた。保志の体重が彼の左手を通し、右肩に圧し掛かってくる。何をするんだと思った時には、唇に唇が押し当てられていた。
「……意味がわからんぞ…」
 深くは絡ませず、下唇を軽く噛み直ぐに離れて行く保志を見ながら、筑波は思わずそう呻く。しかし、仕掛けてきた本人は、今度ははっきりとそれを無視し、再び座席に収まった。足まで組み、完全に休息の姿勢をとる。
 後方からのクラクションに急かされ、青信号に変わった交差点を渡り車を進めているうちに、順調に高速まで辿り着いてしまった。道はそう空いているわけでもないのに、こういう停まりたい時に限って信号などには捕まらないもののようだ。
 問い詰めたところで、保志は気分が乗らない限りは語らない。キスを仕掛けてくるという事は、俺の言葉に怒っているわけではなく、何故かはわからないが楽しんでいるのだろう。機嫌がいい証拠だと自分を納得させ、筑波は運転に集中する事にした。


□■□


 眠ってしまった恋人を助手席に乗せ、適当に車を走らせていると、保志は目を覚ますと同時に腹が空いたと訴えてきた。お前は子供かと笑い、筑波は近くの店に車を滑り込ませようとした。だが、保志はそれを拒み、帰宅を提案する。まだ陽は高く、夕方の五時にもなっていない。中途半端な時間だ。殆どの店は準備中だろうと、コンビニで充分だと保志は肩を竦めた。
「だったら家で弁当を突っつくよりも。何か簡単なものでも拵えるか」
 そう提案すると、そんな時間があるのかと首を傾げてくる。どうやら一人でコンビニ弁当を食べるつもりだったらしい恋人に、今度は筑波が首を傾けた。こいつは何を言っているのだと、数瞬考える。そして、四谷に仕事が早まったと言った嘘を本気にしたのだと気付き、今度は呆れる。保志は、自分を家に送る前に食べ物を確保させろという意味で、食事の話をしていたのだ。
 微妙にズレていた交わした会話を思い出し笑いながら、筑波は駅前のデパートに進路を変更した。帰宅するつもりだった保志には悪いが、筑波としてはまだ恋人を解放する気はない。
 結局。デパートの食品売り場で購入したのは、出来合いの物ばかりだった。生鮮食品コーナーに行き着く前に、数々の惣菜屋の戦略に二人揃って負けたのだ。デパ地下の照明は特殊なのだろうか。どうしてあんなにディスプレイに並ぶ食べ物が美味そうに見えるのか、不思議だ。
 マンションに戻り、買い込んだ夕食をダイニングテーブルに並べ、向かい合わせで席につく。缶のままビールに口をつける保志は、本当に腹が減っていたのだろう。箸を往復させる動きが、いつにもまして俊敏だ。数時間前に同じ場所で、ダラダラとカップ一杯のコーヒーを飲んでいた奴と同じ人物には思えない。まるで欠食児童だ。
「おい、あんまりがっつくな。食べたらヤるぞ。腹は八分目にしておけよ」
 セックスがしたいのだと筑波がストレートな言葉を向けると、保志は冗談でも聞いたかのように口の端で笑った。

2006/06/27