始発の電車に乗るために出掛けようとしたところで、水木が帰宅した。
「お帰り。で、行ってきます」
　悪い、急いでいるんだと男の横を通り抜け、玄関から飛び出す。が、遅れてやってきた違和感に、外へ出てすぐに足が止まった。
　考えるよりも早く閉まったばかりと扉を開け、中へと戻る。
　どうした？と廊下で振り返った男を指で呼ぶと、すぐに数歩の距離を縮めてくれた。わずかな段差でさらに開いた身長差を利用し、目の前の胸に顔を近づけて僅かに捕らえた甘い匂いを確認する。
「珍しいな」
「嗅ぐな」
　平坦な声だが、本気で嫌だったのだろう。
　自ら遠ざかろうと足を引いた男を追いかけ、土足で一歩踏み出し移り香が染みるそこに額を付ける。
　化粧や香水のその向こうにある水木の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「遅れるぞ」
「ああ、……そうだな、うん…」
　珍しい、ではない。いつも、俺が気付かないだけだ。
　こうして、帰宅直後の水木と触れ合うなんてことは殆どない。夜中に帰ってくる水木は大抵、先にシャワーを浴びてから俺の傍に来る。
　だから、特に気にしたことはなかったが。
　今までまったく、女の匂いをさせてこなかったとも言わないが。
　俺が思う以上に、水木はこういうことに気を使っているのかもしれない。
「…ありがと、大丈夫」
　遅刻の心配への礼に紛れて伝えた言葉に返ったのは、指の背で軽く頬を叩く小さな接触だけだったけれど。それが水木の愛情だと思えて満足し身体を離す。
　行ってきますと二度目の挨拶をした俺に、水木が短い返答をし見送ってくれる。
　駅への道のりを急ぎながら、くすぐったい気持ちと、温かい気持ちと、そして、少し痛みを味わう。
　水木の愛情は常に、俺にあるのかもしれないと気付いたのはいつだっただろう。
　それまでは腹立たしく、ひとの話を聞かない男に怒ってばかりだったが。水木がどういう時に何を考え優先するのか、わかるようになってくれば、そこにあるのは俺のことばかり。
　それは腹が立つほどに徹底していて、呆れるほどに純粋で、悲しいくらいに独りよがりで最悪な部分も持っているのだけれど。
　それでも。
　一般的に『普通』とは決していえない関係の中で、水木のバカみたいなそれは、俺を支えてくれている。
　あの男のそれがあるから、俺達はこうして続いている。
　でも。
　いい加減。
　勝手に俺のことばかり考えるのではなく、いい加減、そこにもっと自分自身を加えろよと思う。
　俺だって、あんたを強く思っているんだと。だから、二人で二人のベストを保ち続けたいんだと。同じするのなら、そういう努力をしろよ、だ。
　時として、水木の意志は歯がゆくて仕方がない。
　水木の立場では、俺が望むベストは難しくて。あいつは、きっちりと引かれた線でもって、俺との関係を維持しているのだと分かっているけれど。
　柵なんてすべてなくして、あるがままに過ごせたらとて思ってしまうのは止められない。
　まるで他人の甘い香りのように、気にしても仕方がないとわかっているのに、俺を小さくも揺るがす。

　水木が、一切の躊躇いも何もなく自分を求めたら。
　そんな夢想をする自身を呆れるとともに焦れながらも、俺は明けていく空の下、慌しい日々へと進む。
　これもまた、日常なのだと納得しながら。

- END -