《 ホンモノ 》
・「古椎×伊庭」+「口紅」
オレと違い付き合いもあるだろう古椎さんが、いつもよりお酒の匂いを強くまとわせて帰宅した。家主の帰りを待ちわびる飼い犬のように迎えたオレを、靴を脱ぎもせずに抱きしめる。
甘い匂いだと鼻を鳴らしていたら思った以上に体重を掛けられて、支えきれずに倒れかけてしまった。
「危ないな」
大丈夫か?と、よろけさせた原因が支えてくれる。
すみませんと体勢を立て直しながら、ちょっとだけ酔っ払いめと恨みがましく思ったので。
気付いたそれに、いたずら心が芽生えるた。
こんなにも近づかなければ気付かなかっただろう、古椎さんの唇の端には、うっすらと赤い化粧の跡。
「口紅、付いています」
指差すように唇の端に触れれると、少し考えるような間を置き、眉間に皺が浮かぶ。
「消毒、」
しますね、と。
ほんの少しばかり顔を近づければ重なるそれに、唇を押し当てようとしたのだけれど。
「止めろ」
思いのほか強い口調で止められた。素早くオレの口を塞いだ手に力がこめられ、後ろへ押される。
そのまま、オレの体を離した古椎さんは、シャワーを浴びてくると風呂場に消えた。先に寝ておけと向けられた言葉もなんだか硬くて、暫く動けない。
予想外の事態について行けず、驚きと緊張で早い鼓動を刻む胸を意識しながら数度深い呼吸を繰り返す。
何がいけなかったのだろう…。
「……」
避ける口実ではなく、本当にシャワーを浴びているらしく、凭れかかった壁から微かな水音が聞こえた。
本当に、オレの何が癪に障ったのだろう。
正直、少し調子に乗りふざけた自覚はあるが、怒られるようなことではないと思う。まして、キスをしかけて避けられる関係でもないはずだ。
だったら、少し不自然な今のはどういう意味なのかと考えても、当然ながら楽しい結果には結びつかない。アレで照れているが正解ならば、世の中は楽しくなるだろう。
怒られたと考えるのが妥当なのは間違いがないだろうが、理由が見えない。
いや。見えないじゃなく、見たくない場所に理由があるのだろうか…。
「…………大事なひと」
…などというのは、どうだろう。
キスの相手を気に入っていて、オレが消毒なんてふざけて上塗りしようとしたから、怒っているんじゃないだろうか?
ただ単に、誰でもない飲んだ先でいた知らぬ女性にキスされただけならば、オレなら操をたてるなど有り得ない。古椎さんに上塗りされるなら、喜んで飛びつくだろう。思うとしても、お手数をおかけしてスミマセン、だ。シャツに飛んだ食べ汚しのシミを、後生大事に取り置きするようなことはしない。
ならば、古椎さんにとって、アレは汚れじゃないということだ。オレが考えているのとは、全く逆だということだ。
丁寧に扱いたいのは口紅の女性であり、オレにはかき回されたくないのだろう。
「消毒どころか、オレが病原菌か…」
なんて。
古椎さんの態度に理由付け、軽口を叩いてみるが。自分で自分の首を絞めているような馬鹿さ加減しか浮かばなくて、脱力感が襲ってくる。
オレは、古椎さんが好きだ。こういうのは正直面白くないどころか、キツイ。でも、古椎さんのオレへの感情が変化してもそれはオレが責められることではない。キツくても、ツラくても、それが現実だ。終わるときは終わるしかないのは、よく知っている。
寝室に戻り、ベッドで寝転びながら持つべき覚悟を再認識していると、古椎さんが入ってきた。
寝たのかとの呼びかけに、身体を起こして真っ直ぐ見つめ、告げる。
「あの、可能ならでいいですから…オレに会わせてください」
ひとの気持ちは、そのひとのもので。オレは変えられないけれど。
オレの気持ちは、オレのものだから。
会いたいと思い、思い切ってそう頼んでみたのだけれど。
さっきの今で、ほかの話題に飛ぶ訳もないのに。古椎さんは首を傾げた。
「……誰をだ」
……これは、出しゃばるなという、遠まわしな牽制だろうか。
だが、流石にあっさりと引くことはできない。
「貴方の大事な人に」
もう綺麗に取れてしまっているその跡をさぐるように。
オレは、ベッドに腰掛けた男の顔に手を伸ばし、指先を口元に当てる。
「どんな方なのか、知りたいだけです」
「…お前は、たまに驚くほどバカだ」
「スミマセン、でも…!」
眉間による皺と不快を浮かべる表情に、躊躇いが浮かばなかったら嘘にはなるが、それでも会いたいのだと主張したオレの手を掴みとり。
古椎さんは両手でオレの右手を握ると、それを自分の膝に置いた。
呆れ果てたような、長く深い溜め息がベッドに落ちる。
「鏡、見て来い」
「……」
男のくせして、女に対抗している愚かさを自覚しろと言うことか。
酷い言い草だ。
顔を歪めたオレに、古椎さんが「その顔は、またバカなことを考えているな」と軽く笑う。
「お前は考え違いをしていると言っているんだ。俺の大事な相手が見たいのならば、鏡に向き合えばお前にも見えると言っている」
「……オレしか見えないと思いますが」
「お前なんだから、それで充分だろう」
お前以外に誰がいるというんだと、握っていた手を引き、オレを腕に抱きとめた古椎さんに、それでも納得はできなくて。
この口紅の相手はどうなんだと、再度指摘する。オレの消毒を嫌がったじゃないかと。
すると、古椎さんはまた「バカすぎるぞ、飛成」と溜め息を吐き、見上げるオレの額に唇を落とした。
そのまま、目元や頬にもキスをしながら体勢を入れ替え、仰向きにしたオレの上に覆いかぶさってくる。
「男心を汲み取れよ」
「綺麗な女性との楽しい思い出を邪魔するなと…?」
「……嫌味ならともかく、素で言うのは本当にどうかしていると思うぞ、お前」
「オレ、何か間違っていますか…?」
「お前はもう、黙っていろ」
怒っているのかと思ったが、重ねられた唇は酷く優しくて。眉間に寄った皺が解れるのを間近で見る。
「自分を媒体に、恋人が女と間接キスをするのを楽しいと思う男はいない」
お前は消毒のつもりでも、俺にとっては違うんだと。
ゆっくりと戯れるようなキスを繰り返しながら、古椎さんはどこか照れたような声音でそんな種明かしをした。
大事なものは出来る限り汚したくはないんだと。
「なら、ンッ……こんど、はッ、あ」
「もう喋るなよ」
「や、でも、ぅ――ハッ、か、噛みすぎ、ですよ」
「食わせろ」
「ちょっ、こ、古椎さん…!」
好きな人と身体を重ねるのは、嫌じゃない。嫌じゃないどころか、好きだ。
だけど、懸念が取れたからだろうか、何故か急にセックスをすることに対してのものじゃない恥ずかしさが襲ってきて。
本格的に動き出した手を掴みながら、待ってくださいと頼んだのだが。
「無理だ」
その一言で却下され、訳がわからない程の波にオレは飲み込まれた。
もし、次にまた、それを見つけたときは。
今度は、一緒に風呂に入り、洗い落としてあげますと。
言うつもりだった言葉も含めた全てを、オレは古椎さんに食い尽くされた。
- END -
2012/06/03