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 カタカタと小さな音で覚醒を促された福井が瞼を開けると、見知らぬ女性がそこに居た。白い制服が看護師のものであるのだと気が付く前に何度か瞬きをし、可能な範囲で視線を動かす。腕に繋がれているのだろう点滴は、まだ半分も減っていない。
「あら。お気付きになられましたか福井さん」
 枕元で作業をしていたらしい看護師が体の向きを変えると同時に、目覚めた福井に気付き微笑んだ。同時に、鳴り続けていた軽い音がピタリと止む。
「ご気分は如何ですか? 痛いところはありませんか?」
 真上に近い箇所から、まだ二十歳程度なのだろう若い女性に覗きこまれる居心地の悪さに今更ながら気付いた福井は、瞼を落としひとつ息を吐いた。身体は、薬が効いているのか、それとも大した怪我はしていないのだろうか、痛みなど全くなかった。だが、力の入れ方を忘れたようで、動かして確かめる事は出来ない。
 わからない、と言うのが正しい己の判断だと思いもしたが。
「……大丈夫です」
 意識せずに出した声は、酷く掠れていた。痛みを覚えた喉を宥めるように、空咳を数度繰り返し肩で息を吐く。
 視線を定めた看護師の胸元に挟まれたネームプレート。記されたものと同じ名を、どこからか呼んでいるのが福井の耳に聞こえた。病室の扉は開いているようだ。
 要請が掛かったのだろうが同僚に返事する事はせず、看護師は少し身を屈め福井と視線を合わせてきた。
「点滴はまだ一時間程かかります。これは栄養剤です。痛み止めと解熱剤は、先にもう処方していますから」
 瞬きで頷きを返す福井に「眠いでしょう、寝ていて下さって結構ですよ」と言い布団を軽く押さえながら、彼女は背中を伸ばす。
「点滴が終わったら声を掛けて下さい。回診は夕方の予定です」
 明らかに自分に向けての言葉ではないと訝る前に、顔を向けている逆方向から短い返事が返った。男の声だ。
 落ち着いた所作で若い看護師が部屋を出て行くのを見送ってから、福井はゆっくりと振り返り声の主を捕らえた。
「福井准壱さんですね」
 大きな窓を背に立っていた男が発した声は、確認ではなく、ただの事実を突きつける色を持ったものだった。自分は知っているのだと、その知識を微塵も疑っていないそれに、福井は自分の名がそれであるのを改めて納得する。三十年近くそうであったというのに、今更他人に教え込まれるような感覚が、けれども全く不快ではない。
 返答など求められているわけではないとわかっているので、出来た間をただ知らない男を見返して過ぎるのを待つ。
「初めてお目に掛かります、林幸太です」
「……」
「私の名前に、覚えはありませんか」
 その言葉は、覚えているはずだと言うのが当然の声音。咎めるような音色に聞こえるのは、多分気のせいではないのだろう。
 グレーのスーツが似合う、落ち着いた雰囲気である四十過ぎの男には似合わぬ物言いに、福井は何も返せず視線を窓の外へと離した。敢えてそういう声を発しているのか、それとも雰囲気を取り付くろっているのか。それさえ判りかねる男の望む答えを自分は思いつかないと、福井は三度目にして意図的に無言を返した。
 状況が、良くわからない。ここが病院であるのも、見知らぬ男が自分を知っているように話しているのもわかるが。根本的に何故、どうしてそんな事態に己が陥っているのか福井にはわからず、周辺だけが変化した戸惑いを今更ながらに気付く。眠っていた間の展開を推し量るべく頭を動かすが、まだ眠いのか脳が活動を拒否する中、一点に視線を凝らす。
 灰水色の空に雲はない。近くに高いビルはないのか、この病室自体が高いのか。ベッドで寝た状態で見えるのは、薄いその一色だけだ。
「困った事があれば私に連絡を入れるようにと、仁坂は申し上げていた筈ですが」
 今なお晴れない思考の中で、懐かしくさえある名前と林の言葉に、福井は小さな紙切れを思い出した。それを手にしたのは、もう十年も前の事だ。そして、それには、確かに。この男が名乗った名前が書かれていた。記憶違いでなければ、その肩書きは弁護士だった。
「十年も経てば、忘れているのも当然なのかもしれません」
 そう言う林は、けれどもそんな事は微塵も思っていない声で言葉を続ける。
「ですが、あなたは忘れないだろうと私は思っていたのですが」
 どうやら違ったようですねと、溜息のように横顔に落とされた声に、責められているのではなく自分は失望されているのだと福井は気付いた。だが、それは正しくはないが間違いでもないのだろうと、視線を戻し男のそれを受け止める。
 数十秒、福井を見下ろし続けた林は、何も言わずに体の向きをかえた。付き添う間にも仕事をしていたのだろう。ソファに広げていた書類を片付け、ノートパソコンを閉じ鞄に詰める。自分を見ていない林は、確かに弁護士のようだと福井は思う。ならば、自分と向き合う時は素なのか。視線を交わす林は弁護士ではなく、仁坂の知人として自分の前に立っているのかと福井は考え、その複雑さに小さな苛立ちが芽生えた。
 改めて、林が発した言葉を考え、彼がここに居る意味を考え。予想だにしなかった事態に自分は置かれているのだと漸く気付く。
「福井さん。貴方が背負った借金は、こちらで返済を済ませました。マンションは今まで通りですが、残念ながら会社の手続きは既に処理されているので、復職をするのは難しいでしょう。どうしてもと仰るのでしたら話し合いくらいは出来るでしょうが、同条件での再雇用は無理だと思います。不景気で厳しくもありますが、次の職を探すお手伝いはしますので、職種や条件などのご希望があれば言って下さい。後で担当医から説明を受けるでしょうが、退院までは最低一週間はかかるでしょうから、考えておいて下されば結構で――」
「有効、だったんですか」
 言いたいことも、言うべきことも多々あったが、福井の口から零れた言葉はそれだった。
 話を中断させられた不快とは別の表情で、林が眉を寄せる。
「……ですから、私はここに居るんです」
「だけど、私は困ってはいなかった」
「福井さん」
 咎めるような林の声に、眠気も飛ぶような状況に、意識がクリアになり始めた中で福井は十年前に別れた男を頭に描く。
「困っているのは、今ですよ」
 いや、正確には十年前からそうだ。別れを切り出されたあの瞬間から、自分は困っているのだと福井は思う。仁坂は確かに林の連絡先を寄越したが、あんなものはベッドで交わす睦言のようなものだと判断していた。十年後でも有効である手切れだとは思ってもみなかった。何より。福井にとって仁坂との決別以上に困った事はなく、それは十年の間にも変わりはしないことで。
 社会から抹消されるよりも、身売りのような状況に追い込まれるよりも。こうして仁坂の影を背負って林が現れたことの方が、余程困惑する事態である。
 福井の掠れた呟きに何を思ったのか。暫し佇んでいた林は、けれども「明日また来ます」と言い置き病室から退場した。
 睡魔に誘われながらも、頭の中で現状を整理する。しかし、整理出来る余裕は今の福井にはなかった。
 高校三年生ならば受験一色に染まる一年を、福井は仁坂を思って過ごした。
 大学に入学してからの十年は、その思い出を抱えて過ごした。
 本人が拒絶した限り、仁坂自身を求める事は出来ない。同じく、想う事も難しい。そう考える福井が出した結論は、結果としても間違っていなかったと思う。確かに薄れさせるべき記憶を大事にしたが、現実を蔑ろにしたつもりもなく、必死ではなかったが精一杯生きてきた自負がある。友達も恋人も作った、大学も卒業した。会社にも就職し、結婚もした。離婚はしたが、それは福井の問題なのであり、仁坂のせいではなかった。そして、知人の借金のせいで人生を大きく変えようとしたのもまた、仁坂には関係のないものである。
 自分が肩代わりした借金の額は相当であったが、完済したと言う林の言葉は事実なのだろう。具体的に何をしているのかは知らなかったが、十年前の仁坂はそうであっても不思議ではない稼ぎをしていた。だが、だからと言って、あの時ならばまだしも、十年経って干渉してきたのは理解出来ない。仁坂の行為は間違っていると、福井は初めて思う。
 不快なのでも、腹立たしいのでもなく、単純に。
 困ったと福井は息を吐いた。

2008/03/23