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 母親に追い出されたわけではなく、ただ一人で過ごすのが嫌だった。何故なのかなどわからず、持て余したそれに我慢出来ず、福井が仁坂のマンションに向かったのは終電間際の時間だった。路地裏から見上げた部屋に、明かりは灯っていない。眠っているのか、帰宅していないのか、外からではわからない。どちらにしても電話を掛けるのは憚られ、また何よりもそんな芸当が福井に出来る筈もなく、気分が向上するまではと定位置にもなったマンション下の植え込みに福井は座った。
 行き交う車も少なくなり始め、夜気に晒された肌がすっかり冷えた頃、マンションから出てきた仁坂によって福井は部屋へと連れていかれた。部屋には、何故居るのか訊く必要もない女性が居た。福井に対しては何も言わずに自室まで上げたというのに、仁坂は女性に対しては丁寧と言えるほどの言葉で退去を願った。泊まるつもりだったのだろう女性は文句ひとつ言わず、それに従い身なりを整える。当然、福井は自分が帰ると口にした。だが、仁坂はそれを相手にしなかった。
「送って来る」
 ただそうとだけ言って、流石に気まずく居心地の悪い思いをする福井を部屋に置いて出て行った。残された時点で、家主の帰宅を待たねばならないのが絶対だった。だが、諦め悪くどうにかならないかと思った福井が選んだのは、部屋から出る事だった。これまでにも何度も来た部屋だが、流石に情事を匂わせられた後に一人残されるのは、十八の男にとっては辛いものだ。
 浅はかな行動だったと今夜の自分を振り返って思うのはただそれだけで、自分にしては珍しく何に動揺しているのか、それは何故なのかなんて考える余裕は福井にはなかった。仁坂の部屋のドア前でしゃがみ込み、両腕で抱えた膝に顎をつける姿勢でじっと待つ。
 眠っていたわけではないが、聴覚が休息していたのか。ふと気付けば、自分のスニーカーの前に向き合う黒靴があり、福井は慌てて顔を上げた。いつからそこに居たのか、仁坂が煙草を咥えた状態で見下ろしてきていた。立ち上がろうとした福井の二の腕を掴みドアの前から除けると、仁坂が鍵の掛かっていないそれを開け中へと入る。当然、福井は再び有無もなく部屋に上げられた。
「明日は」
「…………学校」
「寝ろ」
 答えればそう言われるとわかっていたので躊躇ったのだが、福井の努力は三秒で尽き、予想通りの命令がきて終わった。仁坂は何も言わなかった。当然だろう、彼女との関係を福井に説明する必要もなければ、懐かれた高校生にする言い訳など端から持ち合わせていない。話す事はない、それが正しい。
 だが、そんな事実とは違うところで、自分は拘っていると。福井はソファに寝転び暗闇を見つめたまま、己の中にある何かを意識した。シャワーを浴び終えキッチンへ入る仁坂の気配に、見えないその姿を脳裏に浮かべると、焦燥が募った。眠れる訳があるかと毛布を蹴り飛ばし起きた福井の頭にあったのは、何があってもさほど表情を変えない仁坂の失望した目だった。それは数瞬後の未来だとわかったが、キッチンへ向かい、福井は仁坂の前に立った。
 手を伸ばすはずだった。その身体を掴むはずだった。しかし、「いいから、寝ろ」と先に言われ、福井は仁坂に辿り着けなかった。何もいい事はないと、その意地だけで。見事に敗北を感じ俯くも、それでも居間に戻らず佇む福井に、仁坂は溜息も吐かずに付き合った。
 あの時、仁坂が持つグラスの中で踊る氷の音を、自分は一生耳の奥で飼い続けるのではないかと福井は思った。実際、それに似た音を聞くと、時たまあの時の事を思い出した。
 既に自分は、あの頃にはもう、仁坂をそう言う意味で求めていたのだろう。福井が自覚するよりも前の事だが、仁坂はその時にはもう、懐く高校生の中に何があるのか見えていたのだろう。だから、一回り近く歳の離れた男は、いつでも先手を打つような事をしていた。
 それは、今も変わらないらしい。
 屋上のベンチに腰掛け地上の景色を見ながら、福井は時が来るのを待った。昼食の時間が過ぎたお陰で、周りに人は居ない。来るなら今だろうと、男を待つ。
 仁坂の死を嘘だと思うのは、己の願望だと思いもしたが。それを上回る違和感を、林の態度に感じていた。だが、彼が嘘を口にした理由が、仁坂の指示によるものならば。真実ではなくとも、それが自分に与えられた全てなのだと、言及する気にはならなかった。福井にとって、仁坂の言葉は絶対に近い。仁坂がそれを望むのなら従うしかないという思いは、何年経とうと変わる事はないようだ。
 だが。十年のブランクがあれば、多少なりとも融通が利く。それくらいには、福井も歳を取った。
 傍らにやって来た気配に、福井は正面を向いたまま小さく息を零した。来ると確信していたはずなのに、今になってそこに不安を覚えていたらしい自分に気付く。それこそ何年経とうが仁坂に対しては、自分はいつまでも子供のような事をするのだと、福井は心の中だけで失笑する。
 十年前の、あの頃の自分が蘇ってくるような感覚を体内に覚え、福井は少し俯いた。その落とした頭に、以前と変わらない声が落ちる。
「何故、あんな馬鹿な事をした」
 仁坂の空気が、じわりと福井を侵食した。この十年、記憶だけで充分だと嘯いていた自分を殴りつけたくなるほど、与えられないものを奪う気はないと物分りよくしていた自分を笑いたくなるほど、実物と想像はまるで違う。あの頃が蘇るのではない。そんな生易しさは皆無の生身の仁坂に飲み込まれ、福井はその瞬間ごとに自分は奪われるのだと実感する。
「馬鹿だとは、気付かなかった」
 自分にそれを教えてくれる唯一の存在である貴方は居なかったと、福井は言外に伝え小さな笑いを漏らした。正しいと思っていたわけではないが、それで良いと思っていた。しかし、アレは馬鹿な事なのだと、仁坂に言われて漸く気付く。そう、馬鹿な事だ。だが、それに気付いていたとしても、選ぶ結論は変わっていなかっただろう。
「どうして、死んだなんて嘘を」
 林が独断で言ったものではないのは、仁坂がここで姿を見せた事によって証明されている。福井は、十年の歳月を感じさせる男の顔を下から見上げ、「俺が気付くって、わかっていたくせに」と言葉を唇で躍らせるように囁いた。
「役に立たない嘘だとは思わなかった」
 バレたとしても、意味はある。そう考えていたのだと明かす仁坂は、ポケットに入れていた左手を出し、ゆっくりと福井に向かってそれを伸ばした。頬から顎へと、指の背が伝う。掠ったそこから自分の熱が仁坂に伝わればいいと思うが、仁坂が何にも侵されないのは明らかだった。福井はその重くもある仁坂が纏う空気を取り込み、腹の中へと沈殿させるが。仁坂が福井の色を持つ事はない。
 だが、それが仁坂の魅力だと、自分が惹かれたところなのだと福井は思う。十年前も、そして今も。その仁坂の変わらない色が、何にも変え難い。
「俺には、役立ちましたよ」
 従わなかった自分は失望させたのだろうかと思いつつも、離れた指が再びスラックスの中に戻るのを見届け、福井は仁坂に言った。こうして、仁坂を再び目の前に立たせられたのだから、相手が失望していても構わないとさえ思う。頼んだわけではないが、上手く丸めたのか、それとも嘘をついたのだろうか、何らかの事をしただろう林の苦労も関係なく、福井は気持ちを隠さずに明かす。
「だから、会いたいと思った」
 会う必要がないのであれば、ただそう言えば良かったのだ。それを、敢えてあんな言葉で拒絶した仁坂に、福井はまた求めてもいいのかもしれないと思った。無くしたものを、消えたものを復活させるのは難しいが。今、この自分が欲するのは簡単な事だと福井は気付いた。十年前にも同じ事をしたのだ。出来ない事ではない。
「そして、会えた」
 ゆっくりと立ち上がり仁坂と向かい合った福井は、顔に掛かる邪魔な髪をかきあげながら目を細め笑った。あの頃よりも少し近くなった目線に、会わなかった十年の全てを感じる気がした。自分にも色々な事があったように、仁坂にも確かな十年があったのだと福井は思う。
 そう。今は、あの時の続きではないのだ。

2008/03/23