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 明日も来ると言っていたが、翌日に林が現れる事はなかった。
 医師の話は林の言葉と同じで、来週には退院出来るだろうとの事だった。ただ、ヒビが入った肋骨が完治するには時間が掛かるのと、風邪を抉らせ掛けているのとで福井は安静を強いられた。薬が投与された身体は痛みを教えはしないが、ただひたすらに眠い。林が言った言葉や行為の意味を考えねばと思うのに。まどろみの中、頭の中に浮かぶのは過去の事ばかりだった。
 両親が離婚をしたのは、福井が中学生の時だ。以前から父親が浮気をしているのを知っていた福井にとって、それは来るべきものが来ただけに過ぎなかった。だが、突然申し出された離婚により伴侶の不貞を知った母親は、息子のそれを許しはしなかった。何も知らない、何も気付かない自分を、二人で馬鹿だと笑っていたのだろう。彼女はそう言い、恨みを口にした。
 笑った事は一度としてない。だが、父の不義を知りながらも、自分は何もしなかった。その事実は確かにあるのだから、母の恨みは間違ってはいないのだと思い、福井は抵抗せず全てを受け入れた。壊れたのが両親の婚姻関係だけであったのならば、自分には関係ないと、母親が振り上げる手をかわしただろう。だが、壊れたのは、家庭だった。消えたのは、家族だった。自分もまたその一員であったのに、父を諌める事を、母に事実を知らせる事を怠った。その結果がこれならば、受け止めるのが当然だというものなのだろうと福井は考えた。
 成長過程中とは言え、既に小柄な母親の体型を追い抜いていた福井にとって、彼女が振り上げる手は一瞬の痛み程度でしかなく、苦痛に入るものではなかった。また、二人暮しになったとは言え、息子よりも早い時間に仕事へ出掛け、夜は遅い母親の生活サイクルでは、一日に一回も顔を合わせないのだ。母親の精神状態によっては部屋を追い出されてしまう事もあったが、暴力は地震が起こる確率よりも低い程度のもので、福井の中では問題にもならなかった。
 高校に上がった頃からは自ら率先して出掛けるようにもなり、暴力に近い追い出され方をする事は稀になった。その少ない回数の中で二度も仁坂に会えたのは、奇跡とさえ言えるのかもしれない。
 大学に入り一人暮らしを始めれば、福井は長期の休みにさえ母親の住むマンションには寄り付かなかった。あの家は確かに自分が暮らしたホームであったが、出た瞬間に、自分が向かうハウスという意識も消えた。母の家であるのに間違いないが、それ以上の認識はなかった。
 だからだろう。大学三年時に事故で母親が亡くなった後、福井は悩む事も何もなくマンションを処分した。母の葬式前に父に連絡を取ろうとしたが、携帯電話は繋がらなかった。落ち着いた後に事後報告で出した手紙は、受取り拒否の文字が加えられ返された。その女性と思われる筆跡に、それ以上のアクションを福井は避けた。その時点で既に、父が大病を患い入退院を繰り返していたというのを知ったのは、社会に出て結婚もした後であった。
 もしも、もっと早くに知っていたのならば、自分は父に会っただろうか。結婚式に招待しただだろうか。重篤状態の父親に会いに行く間考えていたそれは、ベッドに横たわる痩せこけた姿を見た後でも、福井の中で答えは一切出なかった。ただ、顔を合わせた翌週に亡くなった父の葬儀の中で、答えを得ても何にもなりはしないのだけは確かだと気付いた。
 唯一の肉親を失った福井に、妻は子供を作ろうと言ってきた。結婚して半年も経たない頃の事だ。妻なりに思うところがあったのだろうし、福井の中にもそれを欲する気持ちは多少なりとも存在した。だが、頷きはしなかった。父親になる自信がないだとか、家族を守る自信が持てないだとか、そう言ったものではなく。単純に、その意識をまるで持てない福井の我儘だった。
 家族を持ちたい気持ちはある。だが、家族の一員になる自分が、想像出来ない。そんな違和感が常に存在し続ける福井の内面に気付いたのは、福井自身ではなく、妻が先だったのだろう。妻が離婚への道を歩んでいる事に気付かなかった福井のその落ち度が、早過ぎる婚姻生活の破綻へと繋がった。
 そうしてやって来た東絡みの災難。運命であっるのかもしれないと、見張られて過ごした数日の間に福井は思った。成るべくして成るように、ここに自分が居るのは決められていた結果であるのだろうと。正確に言えば、この人生全てが、与えられた道をそのままにただ歩いてきた自分が招いた、導いた、選び取ったものだと福井には感じられた。
 学生時代は鬱陶しいほどに華やかだった東が暗く沈んでいる事に、同情はなかった。自分が頷かなければ確実に彼の家族が辿るだろう運命にも、心は微塵も痛まなかった。それでも、正式な書類であるのかも怪しいそれに名前を記したのは、納得が出来たからだ。その納得が、東に対してのものよりも、己の命に対してのものだと気付いたのは、全てのサインを書き終えてからだが。福井にとっては、どちらであったとしても大きな違いはなく、また結論も変わりはしないものだった。
 ひとつだけ、読み違えたのは。
 仁坂の介入だ。
 十年前に男が言った言葉は覚えていたが、それは記憶の引き出しに入っているだけのもので、使用可能なものでもなかった。その言葉に縋る事は勿論、その言葉を恨む事も思いつきはせず。言葉は言葉でしかなかった。そこに、力は存在しなかった。そのはずだった。
 だが、実際には違った。福井の知らぬところで仁坂は動いていたのか、気付いた時には全てが終わっていた。
「あの人に、会えますか?」
 福井には何もわからぬままに、再び現れた仁坂。これはどう言う意味なのか。十年前の約束を守ったにしては、度が過ぎている。何より、福井自身は約束などとは微塵も思っておらず、またこの結果を望んだわけでもなかった。これで終わりだというのは、認められない。
 その思いだけで、二日ぶりに現れた林に福井は問い掛けた。東の状況よりも、己の行動の結果も、この事態に至った経緯も。全てを後回しにして訊ねたそれに、けれども林は不快とも思える渋い顔を作り、短い言葉を落とした。
「無理です」
「何故」
「彼は、死にましたので」
「…………」
「貴方は、遅い」
 遅いとの非難は、仁坂の死以外をも指しているようなニュアンスがあった。間に合わなかった事ではなく、自分の行為全てを指摘しているような強さだと福井は感じ、ただ驚く。明らかな不可解さが林のそれにあり、仁坂の死という衝撃が霞む。
「……死んだんですか」
 理解はしたのに確認したのは、だからだ。
「会う事は無理です」
 会ってどうするんだという拒絶をこめて発せられた言葉は、福井が示したものと少し違ったが。林は、きっぱりとそう言った。その後落ちる沈黙に、口を開くが福井は何も言えずに閉じる。
 仁坂が、死んだ。もう、既にこの世には居ない。
 それは、繋がりを切った福井にとっては何も変わらないことだったが。知っているのと知らないのとでは、やはり意識は変わる。求める気持ちは終わらせたはずなのに、悔いが浮かんだ。こんな風に関わるような事が起こらなければ、三日前以前ならば、そうなのかと思えたのかもしれない。だが、どんな形であれ仁坂が自分を救ったのだと知ったあとでは、それは無理なことだった。
 気付かぬうちに、昔を思い出すうちに、福井の中ではあの頃と同じ感情が蘇り、無意識に仁坂を求めていたのかもしれない。十八の頃と同じく、手を伸ばして積極的に触れる事は出来ないが、傍に居たいと感じたように。
 意識せず、「俺も死ねば会えるかな」と言った福井に向けられた林の視線は、遣り切れない色をしていた。ただ零れただけで、本当は意味すらないと発した自分が一番わかっていたので、「冗談ですよ」と即訂正したのだが。
「…そういう冗談は、不快です」
 林は、律儀と言えるほどに、感想を返してきた。ここでまた生まれる違和感に、重なるそれに、確信の芽が息吹く。
「俺も、好きではないですよ」
 死んだって会えるわけがないですしと言った自分から目を逸らした林を、福井は見逃さなかった。だが、それを忘れるように目を閉ざす。何を冗談とし、好きではないと言ったのか。気付いたのだろう林の顔をそれ以上見るのは嫌だった。
 見れば、あの頃のように。
 仁坂の全てに、頷いてしまう。
 林の後ろに居る男の存在を目にすれば、相手を従わせるあの魔法に掛かってしまうと、福井は瞼を上げずに林が去るのを待った。

2008/03/23