高校三年時の約一年。福井は仁坂を求めていた。
 何度もくちづけを交わしたが、それは殆どが福井が望んでのものだった。
 応えられるからこそ、欲する事が出来た。だから、返されなくなった時、何も出来なくなった。
 一度として身体を繋げる事がなかったのは、始めから決まっていた結果だったのかもしれない。
 別れてからの十年。時が進むと共に薄れゆく記憶の中で、それでも強烈に福井の中で残り続けたのは。自ら強請ったくちづけではなく、仁坂が触れてくる指の感触だった。伸ばされる手の動きだった。
 そして。本当に他愛ない仁坂が生み出す音もまた、この十年の間、自分の中にあり続けていたのだと、福井は近付く足音を聞きながら確信する。
「准壱」
 呼びかけに応え瞼を開けると、仁坂が前に立ち見下ろしてきていた。十年前にもよくこんな風に自分はこの男を見上げていたと福井は思いながら、そっと視線をはずし足元へと落とす。
 今この時だからこそ、仁坂はここに居るのだとわかっているはずなのに。まるで十年前であるかのような錯覚を覚える自分を福井は持て余す。十八歳には決して戻れないし、また戻りたいとも思っていない。それなのに、あの頃を近くに感じる。
 無言で二の腕を掴まれ立たせられた瞬間、いつかと同じだと福井は漠然とした不安に襲われ、近い距離で仁坂を見た。今はあの時ではないからこそ、またあの時のようになるのではないかと。繰り返されるのではないかと、再会してから初めて、そんな畏れを抱いたのだが。
「……ぁ」
 ゆっくりと近付いてきた手に頬を触れられると、呪縛が解けるように恐怖が消えた。腕を掴む手の強さとは全く違う優しい動きで、仁坂の指が薄く開いた福井の唇をひと撫でする。
「仁坂さ…ンッ」
 唇を重ねてきたのは仁坂からだった。口にした名前を飲み込むように覆われ、強く押し付け開かれ、舌がそろりと歯を滑る。一瞬足りとも我慢出来ずに、福井は自ら舌を差し出した。絡ませようとしたそれを押し返され、喉で呻いてしまう。
 笑うような形を作った唇が、離れていく。
 考えるよりも早く、福井はそれを追いかけていた。何度も求めたように、ただその熱が欲しいのだと唇を奪う。十年前は、青かった。再会してからは、慎重ですらあった。けれど、今夜はただ単純に、この男を捉えたいのだと温もりを追う。
 湿った音をたてながら、福井は仁坂の背に手を伸ばし、シャツを力強く握り締めた。けれど、それ以上の力で引き剥がされ、引っ張られ、押し倒される。ソファに肩を掠めながら床に倒され僅かに顔を顰めた福井に、仁坂は宥めるようなキスを数度落とし、徐に首筋に歯を立てた。
 痛いと感じるよりも、鈍い疼きが全身を駆け巡った。脚で股間を刺激され、この行為がなんであるのか理解しないまま福井は喉を鳴らす。喉仏を強い舌が舐め上げ、顎を伝い辿り着いたのは耳で。耳朶を嬲られ、鼻が鳴る。
「抱くぞ」
 その言葉は、確認ではなく宣言だった。だが、重ねてきた視線は福井に問うていた。待てといえば待つというのか、嫌だといえば引くというのか。そうであるのならば、この男はこんな言葉を口にはしないだろうと福井は思う。拒絶は有り得ないと知っているからこその問いだ。
 いかに自分が支配されているのか実感し、瞼を落としながら福井は背筋を震わせた。十八歳だった自分は、確かに臆病ではあったけれど、それでもあの年頃の男として当然のように繋がることを欲していた。それを察しながら与えなかったのは、仁坂だ。こうして再会してからも同じ。
 そう、同じであると思っていた。あの頃と。
 けれど今、肌を伝う指も唇も。十年前には与えられなかったのもので。福井が変わったように、仁坂もこの十年で変わったのだろう。それが、どの方向に向かっているのかはわからないが。それが仁坂であるのならば、どこであろうと構わないと福井は思う。
「ンぁ…ッ!」
 着衣を脱がされ、直接股間を握られ、何を考えるべきなのかすらわからなくなった。シャツ越しに仁坂の肩を掴み、福井は与えられる熱を懸命に受け止める。けれど、それは溢れるくらいに多く、零れ落ちていく感触に胸を震わせる。強弱をつけ扱かれる自身よりも、仁坂の熱さに体が燃える。
「…ァ、ハァ、ア、ア…に、にさかさ…ん」
 何故と問うことは福井には出来ないし、理由など何も必要なかったが。それでも、今のこの全てを己の人生に刻み付けておきたいからと、霞む視界で仁坂を捉え、この意味を探る。気紛れだとは思わない。けれど、この先の一生を見据えてのものだと思えるほども、この関係は易くはない。
「覚悟はあるな?」
 大きな掌で上下する胸を撫でられながら、聞かれたそれ。抱かれる事に対してか、仁坂を選ぶ事に対してか。それとも、これを最後にする覚悟か。静かな仁坂の双眼は、都合良く受け取ればいいのか最悪を考えればいいのか、何ひとつ福井には教えてはくれなかった。だが、それでも。どこに答えがあろうと、今この瞬間に選ぶ答えは他にはない。
 腕を伸ばし仁坂の顔を自分に引き寄せながら、福井は掠れる声で告げた。
 覚悟なら、あの頃からしていると。
 十年前の別れは、その結果だ。今回の再会もそう。だから、この先何があろうとも同じ。時には足掻く事もあるだろう。だが結局は、自分は仁坂に全てを委ね続け、この男の選択に従うのだ。
 十八の子供だった自分がした覚悟は、仁坂を信じる事でも愛する事でもない。仁坂を欲する己を許し認める覚悟だ。だからこそ、この十年、生きてきた。だからこそ、何があろうとこれからも生きていけるだろう。最高でも、最悪でも。
「あ、あ、仁坂、さん…」
 自分の身体に何が起こっているのか、されているのか、段々と掴み取れなくなっている。気付けば身体のどこかしこも熱くて、疼いて、齎される刺激が快感か痛みかなのかさえ判断出来ない。その中で、福井は仁坂の首にしがみ付いたまま、頭に浮かんだ言葉をそのまま喘ぎと共に吐き出した。
「あ、愛していると、俺は貴方に、云っていましたっけ…?」
 今更だ。だが、今だから言える言葉ではないのかと気付けば、今までに告げた事は一度としてなかったように思えた。冗談で、告白など出来る性格ではない。けれど、若さの特権で暴走気味に云った事があるかもしれない。答えはどちらだろうと、自分の記憶は曖昧であり今のこの状況では探る事も無理で、福井は仁坂に訊ねた。だが、仁坂の応えは「黙っていろ」だった。
 予告もなく、福井の身体に仁坂の性器が入ってきた。熱いとも痛いとも感じない。ただ、頭の芯が冷えるように、身体の熱が一気に奪われるように、空白が福井を襲った。頭も身体も真っ白で、けれども押し入ってくるそれだけが、妙にリアルだった。まるで、進むそれを視覚で捉えているようだ。
「…うっ、っ、……ぁあッ!」
 どこまでも突き進んできそうな恐怖が、一気に湧いた。実際に進行は止まっても、そのままゆっくりと身体をふたつに切り裂かれていくような感覚に福井は支配される。だが、それでも。仁坂ならば構わないと思う。そんな愚かな自分を許す。
「に、にさ……ア、ア、仁坂さ、あ、あぁッ」
 強い揺さぶりの中で福井が口に出来るのは、喘ぎとその名前だけだった。見上げる仁坂の顔も、霞む視界では上手く捉えられなくて。ただ、呼ぶ。いつの間にか床に落ちた腕は上がらなくて。ただ、その名を唇に乗せる。
 熱が弾けるまで、福井は永遠を確かに感じた。終わっても、それは間違いではなく、身体の中にそれがあった。残り続けていた。
 固い指が、額に張り付く福井の髪を剥がす。

 愛していますと掠れきった声で福井が告げると、知っていると仁坂は短い言葉で、それでも応えた。

END
2008/09/24