福井准壱が仁坂泰良と出会ったのは、高校一年の冬だった。
　休日出勤で帰ってきた母に風呂上がりのところで部屋から追い出され、二月の寒風に吹かれながらマンションの廊下で途方に暮れていた福井は、隣家から出て来た柴田に手を差し伸べられた。
「見ているこっちが風をひいちゃうわ。私、これから仕事だから、部屋使っていいわよ」
　壁に凭れ座り込んでいた自分を立たせ、出てきたばかりの部屋に連れて行こうとする柴田を止め、福井は断りの言葉を吐いた。Tシャツとスウェットだけで、靴さえも履いていない身には、柴田の申し出はありがたかったが。幾ら事情を知られているからとはいえ、主の居ない家を使用する訳にいくはずがなかった。何より、そんな事をして母親にバレた時のことを思えば、風邪をひく方が数段マシだった。
　だが。大丈夫だと言う福井に対し、柴田もまた譲らない。
「あのね、今朝雪が降ったのを知らないの？　明日の朝も今日と同じように冷える予想よ。あなたがここに居て、もし何かあったら、私にも責任があるの。見ちゃっているんだからね」
　だから、大人しく私の部屋に来なさい。来ないのなら管理人に言うわよと、髪をかきあげ短い溜息を柴田は見せつけるように吐いた。美人な彼女のその様子に、けれどもどちらも困る福井は視線を逸らし足元へとそれを落とした。
　一緒に暮らしていても、互いに意識して顔を合わせないようにしていたので、母親がキレて息子を追い出すのはそう多い機会ではない。だが、今までも同じような事があったので、これ以上問題を起こすとマンションを追い出され理由となりかねない。今、柴田が管理人に自分の報告をすれば、間違いなく母親は怒られるのだろう。そして、柴田は親切心でやった事とは言え、それはいずれ自分に返って来る。そうしたらまた、誰かの手を煩わすかもしれない。
　靴は勿論、財布も鍵も扉の向こう。何も持たずに追い出された自分が悪いのであって、誰かに迷惑をかける訳には、やはりいかない。しかし、柴田を宥めるのもまた難しい。
　どうする事も出来ずに俯いていた福井は、不意に捕られた腕に引かれるまま足を動かした。
「今、知人が中に居るんだけど、多分すぐ帰るから」
「いえ、あの」
　待ってくれと発する声を遮り、柴田は「ナンバーワンホステスの部屋に泊まれるのよ。男ならラッキーと思いなさい」と笑い、今さっき閉めたばかりのドアを開ける。本人が居なければラッキーでも何でもないのだろうが、からかう柴田に言い返すよりも福井は辞退を告げた。だが、高校生の言葉をあしらうのなど簡単なのだろう柴田は聞く耳を持たず、福井を玄関へと引き入れる。
「泰良、ちょっといい？」
　柴田の呼びかけに間をおき、一番近いドアが開き上半身裸の男が姿をみせた。恋人なのだと判断した福井は、視線を外すしかなく慌てて顔を背ける。
「こちら、隣の准壱くん。今夜、部屋を貸す事になったから、鍵はこの子に渡して帰ってね。准壱くんは、帰る時にそれを新聞受けに入れる。オッケイ？」
「いえ、俺は…」
「いいから、上がって。泰良、後はお願いね」
　ゴメン急ぐからと、柴田は謝り今度こそ仕事に出掛けていった。彼女に押しやられるようにして上がったが、それ以上足を踏み出すこともできない福井は、今度は沈黙に押されるように脚を後ろへ引く。足先はもうコンクリートより冷えているのか、何も感じない。
「……俺、…帰ります」
「俺がアイツに怒られる」
　福井の呟きに、静かにそう言った男は、視線だけで福井を奥へと促した。
　その夜は結局、男と共に居間で過ごした。帰るはずの男は何故か福井に付き添い、ソファでノートパソコンと向かい合っていた。その横で、所在なく過ごしていた福井は、いつの間にか眠ってしまい、翌朝七時半に男に揺り起こされた。
「出掛けるみたいだぞ」
　一瞬、ここが何処で、男が誰で、何の事を言っているのかわからず呆けたが。「母親、出勤するんじゃないのか」と続けられた言葉に状況を思い出し、福井は礼もそこそこに部屋を飛び出した。
　男の機転のお陰で、出勤する母親と入れ違いに自宅に入る事が出来た。扉の前に立っていた自分を見た物言わぬ母親の顔を、意図せず間近で見つめてしまった男の顔へと変え、福井は昨夜自分を締め出したドアをもう一度開けた。
　数分も待たずに隣家から出て来た男は、靴を履いただけの福井に「風邪を引く」と危惧だけを短く告げ前を通り過ぎた。黒いロングコートを可能な限りまで見送り、福井は部屋に戻りいつもの一日を始めた。
　その後、柴田に誘われ男と共に何度か食事をした。福井はいつも遠慮したが、柴田に捕まる時もあれば、男に捕まる時もあり、そのどちらも異なる理由で回避は難しかった。柴田は、時に姉のように、時に母親のように、十六歳の福井を上手く扱う。男の場合は単純に、ノーを言わせない空気を常に纏っていた。
　一回り歳が離れた二人にとって福井は子供でしかなく、短い間だったが、柴田が引っ越す三ヶ月ほどその関係は続いた。
　男の名前が仁坂だと言うのを福井が知ったのは、会わなくなって一年後の梅雨の時期に、街中で本人と再会してからだ。
　いつものように母に追い出され、いつかと違い鍵は持っていたが時間潰しを強いられ、長居したコンビニから出て夜中の街をただ闇雲に歩いていた時だった。深夜二時、頭上を走る高速道路からの音を聞きながら信号待ちをしていた福井の前に、一台の車が止まり窓を開けた。運転席には仁坂が座っていた。
　再会の挨拶も何もなく、家出かと訊かれ、違いますと福井は答えた。そのすぐ後には、そうだと言えば良かったとチラリと思いもしたが、車に乗れと示された驚きによって後悔までには行きつかなかった。不意打ちにとは言え、自らの意志で家を出てうろついている訳ではないのだと明かした手前、何の言い訳も口から零す事が出来なかった福井は、逡巡後に助手席のドアを進んで開けた。
　今にして思えば、それが仁坂との関係への入口だったのだろう。乗り込んだ車内は安心感などないというのに、何故か福井を落ち着かせる仁坂そのものであった。体の表面を撫でる緊張感と、息をするのも躊躇う静寂が、福井の世界に染み込んだ。
　特に何を話すわけでもなく、雨の中車を走らせただけの別れ際に、仁坂は指の背で福井の頬に触れた。何も言わなかったが、最初から気付いていたのだろう。昨夜母親に叩かれたそれから離れる手を見ながら、福井はまたこの男と自分は会うのだと思った。そしてその通りに、それから福井は仁坂との関わりを続け、関係を深めていった。
　いや、深めていこうとしたと言った方が正しいのだろう。
　一年も経たないうちに、深まる前に、それは途切れたのだから。