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「仁坂も大概だが、貴方も相当だ」
 それが、林の福井に対する感想だ。一体何を指してなのか、どの部分なのかはわからない。だが、林の云わんとしているところに思い当たる節がないわけではない福井は、その言葉を肯定も否定もしなかった。そして、それがまた林の判断を確信に近づけたのだろう。福井は深い溜息を落とされた。
 そんな林は、不快を示す態度とは逆に親切でもあった。それも、お節介と言えるだろう程にだ。長い付き合いだからこそ知る仁坂の内面を、知りたいと請うたわけでもない福井に語ったり、助言をしたりした。本人曰く、嫌がらせなのだというそれは、果たしてどちらに対してなのかわからない類のものだ。
 その中で、林が語った十年前に仁坂が別れを選んだ理由は、福井にとっては意外なものだった。
「あの男は、貴方に諦めさせたくなかったんですよ。大学に入れば、この先社会に出れば、自分と居る事で貴方に色々な事を強いるとわかっていた。そして、貴方がそれを苦にも思わずに、本来ならば当然として手に入れるべきものを手放すのだとも気付いていた。だから、仁坂は先手を打ったんです」
 林の言葉が真実ならば、仁坂にそうさせたのは自分自身なのだと福井は思う。福井の性格が、態度そのものが、仁坂にそれを簡単に想像させたのだろう。事実、もしも仁坂との関係が続いていたとして、彼の問題で何らかの制限があったのだとしても、自分はそれを問題にも疑問にもしなかっただろう。例え大学に通えない日が来たとしても、友人を作れなかったとしても、最悪な事態に巻き込まれたとしても、全てを納得していただろう。諦める以前に、仁坂が居れば自分はそれらを求める気持ちすら持たなかったように福井は思う。つまり、そういうところを、仁坂は我慢出来なかったのだ。だから、福井の意志に関わらずに、関係を切った。
 だが、先手を打ったと言った林の意図を汲み取れば、そこに仁坂の全てがあったわけでもないのだろう。選択の結果があの別れだったと示すそれは、仁坂もまた別のものを求めたのかもしれないという事で。自分はもしかしたら、もっと早くに欲し直しても良かったのかもしれないと福井は思う。だから「遅い」と、林はあの時言っていたのかもしれないと気付く。
 病院屋上での再会は、数分という短い時間で終わった。その後、仁坂は一度として病院には来ず、それ以降も福井の前には現れていない。だが、焦る気持ちは一向に浮かばない。
 退院後、林の助けもあり、福井の就職先は直ぐに見付かった。以前のように大手企業ではなく、従業員が十人にも満たない小さな町工場であったが、仕事は充実しており気に入っている。手を打ってくれた林には悪いが、再就職先に慣れた後で、離婚後も住み続けていたマンションを移った。今は一人暮らし用のワンルームに住んでいるが、広さがあり若干持て余し気味だ。
 相変わらず、仁坂の方は、裏社会に通じる仕事をしているらしい。詳しくは知らないのだと告げた福井に、林は知らないままでいろと言った。仁坂が喋りそうになったら口を塞いででも拒否しろとからかってきたが、会ってもいない状況では意味のない忠告だった。だが、林のそれは、故に仁坂が現れないことを語っているようなものでもあった。
 仁坂が何をしているのか、正直興味はないが。十年前とはいえ、高校生が周りをうろつく事をよく許したものだと、福井にとっては面白さに繋がるものだ。事情が違うのかもしれないが、それでも。あの頃は気付きもしなかったそんな事に、仁坂の中が少し見える気がする。
 そう言えば。一度だけ、鍵を預かったことがあった。学校帰りに街中で偶然会い、買い物を頼まれ、自宅の鍵を仁坂は福井に渡したのだ。
「帰った頃に行くから、いらない」
「何時になるかわからない」
 拒絶と遠慮が混ざった福井のそれをあっさりと流し、仁坂は小さな重みを預け去っていった。合鍵ではないそれに、数時間悩まされたのは言うまでもない。買い物を届け、帰ろうにも帰れず。いつも居座る居間でさえ寛げず。結局、福井はベランダから道路を見下ろし、走る車を眺めて時間を潰した。十年経って思い返せば、十八としても青い、幼過ぎる行動だ。
 だが、今も同じ事をしていると福井は思う。単調な一日をこなしながら待つのは、車を見ているのと変わらない。
 数時間と半年とでは、全然違うが。中身は一緒のようなものだ。
 結論から言えば、仁坂はまた姿を見せるだろうと思った福井の読みは、今の時点では外れたことになる。だが、病院での再会時に感じたそれに、まだ確信を持ってもいるのだ。今は経過途中に過ぎず、必ず仁坂とはまた会うのだという未来が福井には見える。
 別れた十年前には持てなかったそれだけで、この先もずっと生きていけると思えた。だが、そんな事を考えずとも、仁坂が近いうちに顔を出すのはやはり絶対だ。林が時折かけて来る様子伺いの電話が、それを示唆している。
 だが。いつか来るとわかっている事でも、待つのが限界になる事もある。十年で福井にも変わったところがあるが、仁坂に対しては変わらないところの方が多い。それをあの男は知っているのだろうかと福井は考えながら、マンションの階段を上る。
 ドアを開けたところで、背中に気配を感じた。ノブに掛けた自分の手に男の手が重なるのを横目で見ながら、福井は足を一歩進める。
「文句を言っても、いいですか」
 静かに閉まるドアの音を聞き、狭い玄関で体の向きを変えると、厚い身体が目の前にあった。ゆっくりと目線を上げていきながら向けた言葉に答えは返らなかったが、躊躇する事もなく福井は短い非難を向ける。
「遅過ぎです」
 明かりもつけていない部屋。暗闇の中で見失う事無く、更に暗い瞳を捕らえた福井が、同じ言葉を二度続ける。
「遅い」
 この半年ではなく、十年という月日の重さを込めて口にした福井のそれに、仁坂は僅かに目を細め腕を上げた。
「やり直せないのなら、もう一度始めるまでだ」
 身体を押され背中を壁に付けた福井の顔の横に、仁坂が伸ばした腕を置く。
「准壱」
 髪に絡みついてきた指が、福井を促した。
 顔を向け、首を伸ばす。
 唇を重ねるのは、やはり福井だった。だが、それを不満に思う気持ちはない。逃げない相手のそれを食み、開かれた間を縫って舌を押し込む。そうすれば、自分以上の熱が返って来るのだから、何かを考える必要などないのだ。
 一年後、この男が傍に居るかどうか、福井にはわからない。もし再び離れる事になった時、自分はどうするのか、どうなるのかすらわからない。だが。福井にとって、仁坂の言葉はやはり今も絶対だ。
 この手を取る以外にないと、唇を合わせたまま、福井は壁に体重を預ける仁坂の腕に手を伸ばし上着を握った。
 十年前には出来なかった事が、今はこうして出来る。ならば、いつか。仁坂を捕まえておく事も可能な日が来るのかもしれない。
 離れた唇で、息を吸うよりも先に、福井は仁坂の名前を紡いだ。
 掠れる声でのそれは、二人の間で空気となる。
 福井が魅せられた、仁坂の空気に。

END
2008/03/23