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 仁坂はよく福井に向かって、「学校へ行け」「勉強しろ」と言った。しかし、よくと言っても、実際には多い数ではない。元々口数が少なく必要な事すら話さない男が、何度か同じ言葉を口にしたからこそ印象に残っているだけにすぎないのだろう。言われるまでもなく真面目に学校に通っていた福井にとっても、それは返答すらまともにしない言葉であり、別れた後でそういえばと思い出すような他愛ないものだった。感情も篭らず口癖ですらないそれは、多分、男が何も考えずに口に出来る言葉であっただけなのだろう。
 事実。二人きりで過ごす夜に、太陽が高くなって起きた朝に、それらを口にする事はなかったように思う。まるで言葉下手を補うかのような、そんなものだった。
 けれども、本人は意識していなかっただろうに、福井の中にはそれが残った。仁坂以上に無口だった自分は、彼の中に何か残せただろうかと、福井は低い声を思い出す度に思う。仁坂もそうであったが、好きだとか、愛しているだとか。そんな記憶に残る告白を口にした事は一度としてなく、名前すらも呼ぶことが余りなかった。
 ただ、時間が許す限り、傍に居た。愛や夢を語ったわけでもなく、互いの呼吸音が聞こえるような沈黙の中、同じ部屋で過ごした。触れ合う事は、少なかった。肌を重ねた事は、一度もない。本当に、ただ一緒に居るだけであったが、福井にはそれが全てで満足だった。仁坂の醸しだす雰囲気の中で、纏う空気を身体に取り込めれば、それで良かったのだ。
 同様に仁坂もそうであるのだと福井は思っていたが、真偽を確かめた事はない。
 そんな中で、相手にキスをしたのは、福井が先だった。その後も、殆どが福井の行動をもって唇を重ねた。仁坂が率先して仕掛けてきたのは、記憶に残っているのでは数度だけだ。ドライブに出掛けた車の中、志望校の推薦入学を決めた夜。そして、別れを告げられる三日前。
 キスでも、他のものでも。大概、求めるのは自分。だから、与えられなくなれば終わって当然。それを、福井はきちんと理解していた。終わりを示された瞬間にそれを納得出来る程度に、互いの間に形のあるものがないのはわかっていた。だが、心がそれに従えるかどうかは、福井自身にもどうにもならない事だった。
 苦しみは年月と共に薄れはしたが。福井の中で仁坂自身が薄れる事はなかった。
「結局、貴方は私を見ていないのよ。私だけを見ようという誠意すらないのよ」
 離婚届と一緒に妻が福井に突きつけたそれは、真実だった。家族として、妻として、彼女を大切にしていたのに偽りはない。だが、妻が指摘したのはそれであり、そこに福井が反論出来る余地はなかった。憤りを覚えれば、それを見抜けずに結婚したのは君だろうと開き直れたのかもしれないし、自分を貶す程の誠意が君にあるのかと逆に非難する要素が相手になかったわけでもない。だが、彼女が見つけた福井の中の仁坂は幻影などではなく、確かに存在するもので。
 何も言わずに、福井は裏が透けるような薄い紙に名を記し、印鑑を押した。家族というものに思い入れを持って当然の家庭環境で育った福井にとって、それは望まない事態であったが、避ける手札は何ひとつ持っていなかった。そう、それを所持してこなかった自分が悪いのであって、妻が望む未来を奪う権利はまるでない。自分に出来る事はこれだけだと思い、福井は望む未来への切符を未練なく手放した。
 一年半足らずの婚姻生活の名残を消すのは、一ヶ月にも満たなかった。
 失ったものは、確かに大きかった。けれど、生きる上では何も変わらなかった。福井にとって、現実は現実だった。それと同時に、己の不足を、努力を持って補う事が出来ないのもまた確かな事だった。
「まあ、今時珍しいものじゃないしさ、落ち込むなよ」
「子供も居なかったんだし、良かったじゃないか」
「女は他に沢山居るんだし、気の合う奴も居るって」
「そうそう、お前、顔は良いからさ。結構狙われてるんだぞ」
 気落ちする理由はなく、当然の結果だとの福井にとって、周囲の気遣いは不必要なものだった。同情なのか、優越感なのか。そんな同僚達であったが、けれどそれはごく普通の対応だった。珍しくもない離婚に着眼され漬け込まれて初めて、向けられた言葉に篭ってもいる確かな温かみを知った。
「俺達、友達だろう。福井、助けてくれ」
 同窓生であったが、知人という以上の位置付けにした事がないのは互いに明白であったが。汚い床に額を擦りつける疲れきった男のそれを、福井は否定出来なかった。その時点で、結果は決まっていたのだろう。
 何年振りかに連絡を受け、誘い出され向かった先で、東は福井にその筋の男達を紹介した。丁寧に状況を話す男達の横で、東は青白い顔を俯け、足元を凝視し続けていた。福井はそんな彼を見ながら、十年前の出会いを思い出していた。
 仁坂と別離した春、福井は大学へ入学した。同じ高校からの連れもなく、また居たとしても馴れ合う性格ではない福井が入学後に初めて口を利いたのが、全てにおいて派手な東だった。ガイダンスを受ける為に新入生で溢れ返った教室の隅で、ただ隣に座っただけの福井に東は何かと言葉を向けてきたのだ。
 訊ねもしないのに出身校や家族構成などを、手続きの説明をする事務局スタッフの手際の悪さを貶しながら語る東は、始めは返らない応えに気にした様子はなかったが。流石に変だと思い始めたのか、身体を横向きに変えおもむろに福井の名を尋ねた。
「お前、名前は?」
「……」
「名前、ないのかよ?」
 若干下がった声音に、怒ったのだろうかと視線を向けた福井の目に目を合わせ、真新しいスーツ姿の青年がにんまりと笑う。
「だったら、俺に付けさせろ」
 楽しげな声だった。だが、福井が感じたのは立ちの悪さだった。肉食動物のターゲットにされたような予感に、自分は草食動物ではない間違えるなとの意味を込めて、先の問いに応える。
「…福井准壱」
 調子が良いのは確かだが装い程も馬鹿ではないのだろう東は、福井の意図をきちんと読み取ると、今度は柔らかな笑みを浮かべた。
「オッケイ、福井ね。了解。それにしても、無口だねェ。もしかしなくても、他人と喋るの苦手とか?」
「……」
「え? 何? 名前だけで終わり? そんなに嫌いなのかよ? じゃ、今のは貴重な一声だったのか!?」
 録音しておくべきだった?と首を傾げる東に、福井はバカかと呆れ、もう一度喋れと携帯電話を取り出す様子に「しなくていい」と溜息と共に拒否を示した。そして、変な奴だと笑った。笑って漸く、俺は喋れるんだ、笑えるんだ、生きているんだと。ふざけたやり取りの中で当たり前な事を思い出し、福井は更に失笑するしかなかった。だが、仁坂が居なくなった事で止まっていた時計が、動き始めたような気がした。
 実際には、動き続いていたのに止まっているのだと自分が錯覚していただけなのだろう。だからこそ、直す事もせずに、再び時計は動き出したのだと福井は思う。そして、その事実を教えたのが、東だというだけの事だった。
 しかし、それでも。同学部なので顔を合わせる事もあったし、一緒に飲みに行った事もあるが、友人という定義には入らないだろう関係でも。自分は東に、ほんの小さなものであるのだろうが確かに意識を向けていたのだと、福井はその時になって悟る。
 東の借金は、元金の数十倍に膨れ上がり、返済は不可能であった。だからと言って、自分が変わりに船に乗る意味はわからなかったが、この場所で話をされた時点で、もう頷く以外にないのだと福井にはわかった。例え関係ないと席を立ったところで、状況は変わらないだろう。
 自分が選ばれた理由は、家族がいないからに尽きるのだろう。家族を盾にとった男達は東の耳元で、条件にあう知人はいないのかと訊ねたのだろう。そこで、東が自分を思い出したのが運命なら、自分もまたここにサインをするのは運命なのだと福井は思った。乗るのだという船が、男達の言うようなひと昔のマグロ漁船の筈がないのはわかっていた。何の関係もない借金を、友人の変わりに返すその心意気に誠意を示し、東の家族には手を出さないと誓う男達のそれが嘘であるのも明白だった。だが、それでも。思い出した記憶が、数枚の書類に名前を書くことを許した。
 直ぐに家族を連れて逃げろと、男達の目を盗み東に囁いた事を、福井は後悔する事はないと思った。東が実行したことにより、男達から暴行を受けても、それは同じだった。
 意識が途切れる中で思ったのは、これでいい、ではなかったが。これでも悪くはないという、納得だった。

2008/03/23