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 父が亡くなって五度目の春が来た。
 ここ、イエリ山は人々から「迷いの森」と言われている。覆い茂った高い木々のせいで微かに空が見える程度で真昼でもかなり暗く、同じ木ばかりが繁殖しているのでどこを歩いても似た地形、ということから自分のいる場所が特定し難く迷う者が多いので、いつの間にかそう呼ばれるようになったそうだ。たった一本ある道以外に人々は山の中へ足を踏み入れはしないのだ。
 入ったが最後、帰ってくる者はいないと言われる山の奥で、僕は一人で暮らしている。
 生まれた時からずっとここに住んでいる僕にとっては、この山は皆が言うような迷いの森ではない。そう、大きな庭と言ったところだろうか。
 亡くなった父は月に一度麓の街に薬を売りに行き生計をたてていた。彼らは僕らを山を越えてやってくる行商人だと思っていた。父が亡くなった後も、同じように月に一度街へと降りるののだが、今でもそう思っている。
 父と同じように、僕もこの山に住んでいるという事を口にはしない。子供の頃は自分達の事を隠す父の行動が不思議だったが、大きくなるにつれて僕にもわかってきた。
 イエリ山はただその地形だけで迷いの森と呼ばれているのではないのだ。迷い易い地形と同じように、昔から魔物が出るところだとしても恐れられているのだ。
 魔物なんてこの世に存在するものかどうか会ったことのない僕にはわからない。ただの言い伝えでしかないのだろう。それこそ、迷い易いが故に、人々が勝手に魔物を作り出したと考えた方が正解なのかもしれない。だが、それでも人々は山道を通る時は必ず守りの札を持っている。それも単なる慣わしだと言われているようだが、何処かで恐れているのも確かなのだろう。
 昔いたとされる魔物。その魔物のように、確かにいる精霊もまた、忘れ去られようとしている。
 魔物は人々の心の中で恐れる存在であり続けるのだろう。だが、それに比べ精霊という存在は、記憶そのものから消え去ろうとしている。
 この世界には極少数だが精霊使いが存在している。だが、精霊と同じく人々から忘れられようとしている存在だ。人は目に見えるものと、恐怖しか信じないのだから…。
 精霊使いとは、自然の精霊達と契約し力を借りることが出来る者のことをさす。
 昔は本当に精霊達と何らかの契約をきちんと交わして精霊使いになれたのだと一般的に言われてはいるが、その方法が何なのかは、土地によって様々で、どれが事実なのかはわかってはいない。今は契約とは、力を使えるか使えないかの事だけで決まる。呪文を唱え力が発揮できれば契約されたということだ。だが、それは土地に住む精霊によっての契約なので、いつでも力を使えるとは限らない。
 だからか、精霊使いはまやかしと変わらないような目で見られる事も増えてきてもいるようだ。
 自分に見えないものを人は信じることが出来ない。そして、それは精霊使い達にも言えることだ…。

 僕の父も精霊使いだった。
 生活の中でよく呪文を唱えた。呪文と言っても、自分の名を唱えて契約した精霊にお願いするといったもので、特別なものではなく、ただ会話の延長上にあるように唱えるのだ。
 精霊が力を貸してくれるからといって、自分がやれる事は自分でしなければならない。父はよくそう僕に言った。その言葉通り、彼が精霊を呼ぶ事は時たまだった。
 いつものようにそう言う父に、僕はある質問をした。
 どうしてきちんと彼らの名前を呼んであげないのかと。
 父はそんな僕に、何を言っているのだろう、と首を傾げるばかりだった。そうして僕に、「まるで、精霊達が見えるようだね」と苦笑した。
 その言葉に、僕は父が精霊を見えないのだという事実を初めて知った。
 そう、僕は何故だかわからないが、物心つく前からずっと精霊達が見えていたのだ。父が呪文を唱え始めるとどこからやって来て力を与えては消えていくのをいつも見ていた。呪文を使わない時でも、精霊たちはふらっとやって来ては楽しそうに、父の肩に乗ったり、周りを飛び回ったりしているのを見ていた。だから、それは当たり前のことなのだと思っていた。特別なことなのだとは、全く気付きもしていなかった。
 初めて精霊と話をしたのは、父には精霊が見えないのだと知る少し前のことだ。相手は時の精霊だった。あまり姿を見せない時の精霊がやって来てくれたことが嬉しくて、僕は酷い怪我の痛みも忘れ喜んでいた。僕自身ははっきりとは覚えていないのだが、父が言うには、痛いはずなのに泣きやみ、興味深げに傷もとを見る僕を酷く心配したとのことだ。そんな父を知らずに、僕は一心不乱に精霊を見続けていたのだろう。
 その後僕はその精霊に礼を言った。「ありがとう」そう言う僕を時の精霊はちらりと見ただけだった。自分が見えているのではなく、ただいると思って言われてとしか思わなかったのだろう。だが僕は、そのまま飛び去ろうとする彼へ、「君の名前は?」と訊いたのだ。
 それがきっかけで、僕は彼らと話すようになった。
 彼らは名前を呼ばれるのが大好きだと知った。なので、それから僕は初めて出会った精霊には何よりもまず名前を聞くようになった。
 そんな時、父に尋ねたのだ。どうして彼らの名前を呼んであげないのか、声をかけてあげないのかと。
 精霊と話せる僕を父は喜んだが、人に言っては駄目だと教えられた。だが、二人だけの暮らしではその心配は必要のないものだった。

 精霊達が言うには、昔は精霊使いは皆、名前を呼んでくれていたのだという。
 昔の人々には精霊が見えていた。精霊は一人一人と契約を交わし、名前を読んでくれた者にだけ力を貸す。なので、昔は精霊達の名前は本当に特別なものだったのだ。彼らが名前を教え、その名を呼ぶことが許された者が、精霊使いなのだ。それが人間と精霊の間に交わされる契約なのだ。
 だが、今は人間には精霊の姿が見えない、声も聞こえない。それがどうしてなのかは誰にもわからない。人間に、力を持つ別の生き物の存在を受け入れる心がなくなってきたからなのかもしれない。
 見えないということは、自分達を否定されたのも同じと言えるのかもしれない。それなのに、精霊は人々に力を貸す。たとえ名前が呼ばれなくとも、自分達が見られていないとしても、精霊は人間が好きなのだと、ただそれだけの理由で力を貸す。
 どうして? そう聞く僕にわからないと彼らは言う。そういう使命を背負っているのだろう、それでいいのだと、迷いもなく言う。
 もちろん精霊の中でも人を嫌う者はいる。だが、やはり多くの者は無条件のように人に力を貸す。昔のように名前を呼ばれなくなったのは悲しいが、それでも精霊は人間のために何かをしたいのだと。
 そんなことを知っている僕は精霊使いと言うより、力を貸してとお願いする友達のような関係を彼らと持っている。彼らが名前を呼ばれることが喜びで、僕と話せることが嬉しいと言うのと同じように、僕も彼らと過ごせるのがとても嬉しい。
 これが本当の精霊使いなのだと言えるのだろう。だが、今はそうではない。他の人間には彼らの存在が見えないのだ。それは僕が人間である限り、とても重要なことなのだ。こうして一人山奥に暮らしていても、僕は全く他の人間と関わらずに生きることなど出来ないのだから。たとえそうなる事を僕が望んでいたとしても。
 だからこそ、父は僕や彼らのために他の者に言ってはならないと、幼い僕を諭したのだろう。それに、父も何処かで苦しんでいたのかもしれない。
 幼い僕を残して逝くことは辛かっただろう。せめてもの救いは、僕には精霊たちが見えること、自分が亡くなっても一人ではないことだろうか。だが、逆にそれも彼の心配にもなっていただろう。
 自分の死後、もしかしたら一人では生きられずに誰かの世話になるかもしれない。そうなった時、精霊が見えるという他の者とは違う力は、邪魔にしかならないのではないか? 第一、いつまでその姿を見れることが出来るのか。今は幼いからそう言った力があるに過ぎないのかもしれない。そうではないと言い切れはしないだろう?
 そして、自分の死により、僕に何かを与えてしまうかもしれないかということにも、父は怯えていた。
 あの頃はもちろん、僕は幼くてそう言った彼の思いには気付かなかった。だが、今は色々とわかるようになった。思い出の中の父の呟きや、表情。精霊たちが話してくれる父の姿…。
 精霊使いの寿命は短いと言われている。若くして病に倒れた父も、それを天命だと悟っていただろう。命が短いのは、人間にない力を精霊に借りそれが負担になっているのだと言われている。
 だが、それは嘘だと精霊達は言う。自分達の力が人間に負担をかけることは絶対にないと。
 ただ、精霊も限られた力を貸す相手を選ぶのだが、その選ぶ相手に短命のモノが多いというのも事実なのだ。儚い者に引かれるというものでは決してない。精霊にも人の命の長さははかれない。ただ、惹かれた人間にそういう者が多いというだけで、それ以上の事は彼らにもわからない。
 ――なら、僕もそうなのだろうか…?
 そう言った僕に、彼らは寂しい顔をしただけだ。本当に命の長さなど誰にもわからないのだ。
 だが、もしそうだとしても、僕はこうして生きていることがとても嬉しいので、悲しくはない。彼らに出会えなければ、僕は父が亡くなってから、この山でこうして一人で生活することは出来なかっただろう。
 父が僕に残したのは、そんなかけがえのない日常だ。そんな日常を支えてくれているのは精霊達だ。
 僕は彼らと生きているのだ。今の僕には何よりも大切な暮らしだ。
 僕はこうして、ずっと生きていきたい。心からそう願っている。たとえ、先は短くとも、僕に必要なのは約束された未来ではなく、今なのだから…。



 葉の隙間から微かに見える空が夕焼け色に染まっている。だが、木々に覆われた森の中は早くも闇を作り出していた。それでも慣れ親しんだ場所だ。明かりをつけずとも周りはわかり、迷うことなく進むことが出来る。
 少し遠くの場所に雪解けの下から顔を出した薬草を摘みに行った帰り道。春が来たといっても山の夜は冷える。まだ山頂近くには多くの雪が残っているので、山の上からの風は冬と変わらないぐらいに冷たい。
 僕は家へと道とも言えない木の間を急ぎ足で歩いていた。そんな時、何処からか微かに声が聞こえてきた。
「……?」
 耳を澄ますと、それはどうやら子供の泣き声のようだった。微かな声を辿り探してみると、小さな女の子が大きな木の根に座り込み膝を抱えて蹲っているのを見つけた。
 この森に人が入ってくるのは珍しい。しかも泣いているのはまだ10歳ほどの女の子だ、一人で入り込んできたとは考え難い。だが、辺りを見回しても他に誰かがいる気配は全く無い。山越えの途中で道を外れ迷子にでもなったのだろうか。それとも、捨てられたのだろうかと一瞬考えたがすぐに首を振る。少女は暗闇の中でも上等な物だとわかる服を身につけていたからだ。
 パキリと枯れ枝を踏み僕の靴の下で音が上がった。大して大きな音でもなかったが、少女がビクリと身体を硬くした。そして、膝を抱える腕に力を入れ更にまるくなる。
 怯えているのかと気付き、僕はその場に立ち止まって少女に声をかけた。
「大丈夫だよ、怖がらなくても」
 少女の身体が再びビクリを震える。
 僕は小さく言葉を繋ぎ、火の精霊にランプに火を点けてもらう。
 手に包み込めるほどのランプだ。足元に微かに影を落とす程度で、道を照らすのに適した物ではない。火種に使うような小さなランプ。だが、僅かの明かりでも暗闇よりは少女を怯えさせることはないだろう。指先に軽く摘むようにしてランプを持ち、腕を伸ばす。そうするとまるで大きな蛍のようだった。
「僕が怖いのならここを動かない。山道への戻り方を教えるから、お帰り」
 そう言うと少女がゆっくりと顔を上げた。視線の先に僕を捕え、小さく呟く。
「…ダレ」
「僕の名はリューク。君の名前は?」
「……」
 僕が話をするのはいつも精霊達だ。だからか、自然と人間に対しても名前を聞く癖が出来てしまっていた。それを特に直そうとも思わないが、やはり考えなければならないのかもしれない。
 答えがないことに苦笑しながらも、同じ問いはせずに別の質問をする。
「そっちに行っていいかな?」
 少女は弾かれたように勢いよく首を左右に振る。その仕草に笑ってしまいそうになるのを堪えつつ、僕は困り果ててしまった。
 別に関わりたいわけではないが、放っていくわけにもいかない。このままでは、いつまで経ってもこの状態なんじゃないかと、軽い溜息が落ちる。正直、人間は少し苦手だ。
「なら、早くお帰り」
「……」
「この方向に真っ直ぐ歩けば、道に出る。真っ直ぐだよ」
 ランプを持ち直し、斜め後ろへと移動さす。少女の足では少し時間がかかるかもしれないが、道に出ることが出来る。ただし、真っ直ぐ歩かず横にそれてしまえばまた迷うのだろうが。
 ランプを見つめ、それから僕に視線を移し少女は呟いた。
「…帰れるの?」
「帰りたくないの?」
 その問いに、また少女は首を振った。
「ううん…帰りたい…。でも、ここは迷いの森だって、…迷子になれば二度と帰れないって…」
 そう言いながら大きな瞳に涙を浮かべる。
「そう、言ってたもん…、だから、だから……」
「君は何処から来たの?」
「…ライカル」
 その名はよく知っている、麓の大きな街だ。このイエリ山はシーベイ領内で一番栄えているライカルの街のものだ。そしてその街には、領主が住んでいる。何代か前の領主が変わり者で、それまでこの山の言い伝えのせいで、いい土地だが全く栄えていなかったこの街を勿体無いと言い、自らこの街にやって来たのだそうだ。そして、領主が行くのなら安全なのではないか。そういった民衆の心を得て、ライカルは他の街に負けないくらいの大きな街へと発展し、今のように領内で一番の大都市になった。
 だが、それでも、迷信は今でも伝わり続けている。こんな小さな少女にも。
 いや、こんな幼い子供だからこそ、口にするのかもしれないのだが。
「…麓まで送ろう。もう、すっかり暗くなってしまった。
 僕に近くにこられるのが嫌なら、距離をおいて僕についてくるといい。ランプはここに置くから、これを持っておいで」
 そう言ってランプを足元に置こうとすると、少女は声を上げた。
「ま、待って」
「何?」
「…動けないの」
「え?」
「足が痛くて、歩けないの…」
「……そっちに行っていいかな?」
 何度目かの問いに彼女はおずおずと頷いた。ゆっくり近付く僕を穴が空くのではないかと思うほどじっと見つめてくる。緊張がこちらまで伝わってきそうなほどの強い視線。
 もうすっかり暗くなってしまい、森の中は真っ暗だ。先程まで僅かに見えていた木々の輪郭も、もう数歩先のものですら確認出来ない。僕は慣れているので感覚でわかるが、この闇は幼い彼女には怖いのだろう。ランプを差し出すと、小さな両手でそれを持ち、ホッとした。
「何処が痛いの?」
 彼女が示した足首に手を触れると、一瞬ビクッ身体を震わせたが抵抗はしなかった。小さな声で痛みを訴える。
「……捻ったようだね。擦りむいた所はもう血が止まっているから大丈夫だ」
 さて、どうしたものか。こけて捻ったのだろう、少女の足首が腫れていた。暗闇でも周りの肌との違いがわかる濃い色をしていた。ランプで照らせば紫色になったのを確認できるのだろうが、態々小さな女の子にそれを見せる必要もない。
「僕の家に来るのは嫌?」
 治療は家に行けば出来るのだが、生憎今は何も出来ない。
「……」
「早く薬をつけた方がいい、かなり痛いよね?」
 コクリと頷くと、しないよりはましだろうと細い布で固定する僕の手元をじっと見つめた。
「家には送っていってあげるよ。でも、その前に治療しないと駄目だというのもわかるね」
 相当痛いのだろう、これにも同じように頷くが、眉を顰めている。
「キツイかな?」
 そう言い強さを確かめたが、ま、これぐらいだろうとそのまま結び終える。
「僕の家に来るのが怖いなら、仕方がない。ここでしばらくまっていて。薬を取ってくるから」
 街に下りるよりも、そうした方が早く治療できる。たかが捻っただけだと軽く考えられるものでもないので、この際少女には恐怖心を我慢してもらわなければならない。逃げ出すことは無理なようだし、この山に魔物がいるわけでもないので大丈夫だろう。
 だが、そう決め立ち上がろうとした僕の裾を彼女は掴んだ。
「…食べない?」
「え?」
「ラリスを食べない?」
「…ラリスって、君の名前?」
 縦に首を振り、再び食べないかと聞く。それでようやく何を言っているのかがわかった。自分が僕に食べられないかと心配しているのだ。
 昔からよく僕はおかしいと精霊達に言われている。何がおかしいのかわからないが、変わっているそうだ。精霊と人間の違いだろうと言うと、人間としておかしいと口を揃えて言う。確かに、彼らを見れる事が出来るのだ、他の人間と少し違うのかもねと言って笑っておく。人間とは極たまにだが、街に行った時に接するが、おかしいだなんて言われたことはないので、彼らだけが感じる何かだろう。
 そう、おかしいとはよく言われる。だが、魔物だと思われるのは初めてだ。どこからどう見ても人間だと思うのだが、…どこがおかしいというのだろうか、一体…。
「…食べないよ。僕は人間を食べる気はない。それともラリスは食べるの?」
 勢いよく首を振り、そして小さく言う。
「…じゃ、行く…」
「よし、ならおいで」
 そう言って、彼女を腕に抱き上げ、僕はやっと帰路についた。
 少女は横向きに抱き上げられ僕の首に腕を回ししがみ付きながら、じっと僕を見つめてきた。
「…何?」
「リュークって、…マモノじゃないの?」
「…残念。人間だよ。
 そう見える?」
 その問いに、少女は深く頷いた。

2002/06/08