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 外は凍えるような寒さだった。当たり前だ、足元には雪だ。季節は春になったとはいえ、まだ冬はその姿を残している。
 僕が住む小さな家は、このイエリ山の丁度中腹部にある。山自体が大きいので麓からは距離があるにしても、その辺りまではなだらかな地形なので上ってくるのはそう苦ではない。だがその中間を過ぎると急に傾斜がきつくなり、頂上付近ともなれば山肌も険しい。
 そこで人々は、夏でも雪が残るその山頂を避けた道を行き交うようになった。少し遠回りになろうとも、安全な道を選んだ。それにより、女子供でも決して楽ではないがこの山を越えられるようになった。だが、それと同時に、この山に入るという禁忌を犯している不安が人々に広がった。
 魔物が住む森に人間が侵入すれば、いつか必ず災いが起こる。
 それは、魔物を信じている者の単なる戯言にしか過ぎないというものだが、実際に迷いの森と呼ばれるこの森だからこそ、その存在を忘れた人々にも信じられるのだろう。見た事のない魔物だが、この森にはそんな何かがいるのだと。
 そんな人々は、休むことはせず半日かけてこの山を越える。朝早くに麓を発ち、日が沈む前に降りきるのだ。寄り道をしては森の中に引き込まれてしまうとでもいうように、一心に前へと進む。唯一の道から外れることはおろか、立ち止まることさえそうない。
 その道を僕は今、歩いている。夜が支配する世界の中で。
 僕の家から頂上までの中間辺で、道は山頂を避けるため回りこむようになっている。少しでも歩きやすい場所をと何百何千という人々が通って出来上がった道。しかしそれは、闇の中では直ぐに踏み外してしまいそうなほど細い獣道でしかない。
 僕がこの道を通る事はあまりない。今も、家から目的の場所の延長上にこの道が現れただけであって、直ぐにまた森の中を歩くことになる。道伝いに妹を探していた青年が通った道よりも、森の中を行く方が早いからだ。
 だが、確かにそれも本心ではあるのだが、この道があまり好きではないという感情の方が強いのかもしれない。この道は僕には何故か人々の傲慢さに見えてしまうのだ。恐れていてもなお、便利だからと通るこの道を通って行き着くのは、そんな人間の世界。
 嫌いだと言えるほど強い感情ではないが、それでも時々、無性に避けたくなる時がある。道を行く人々を見るとたまらなくなる時がある。それが何故なのか、自身でもはっきりとはわからないのだが…。
 道から森の中に入り込むと、今まで感じた小さな憤りがすっと消える。
 やはり、僕はこの空気の方が好きだ。
 月の光は極僅かしか届かず、確かに恐れられる理由もわかるほど、闇の世界が続くばかりのこの森。けれども、僕は恐怖など感じない。何も見えずとも、何も聞こえずとも、僕の周りには確かに自然の優しい空気があるのだ。自然の大きさに畏怖する人の心は、僕にはわからない。

「何かいい案はうかんだ?」
 闇の中で優しい光りを放つ者は、その可憐な姿に似合わない不機嫌な声で僕にそう訊いてきた。どういう作りになっているのか知らないが、精霊達の羽は彼らの意思で光り輝く。
 リクは落ち着いていられないのか、少し前を急かすように飛び、見えなくなると直ぐに僕の目の前に現れるという行為を繰り返している。
 彼女と違い、僕はこの足で歩かなければ先に進む事は出来ないのだということをわかっているのだろうか。早く早くと飛び舞う姿は、正直、騒がしい限りだ。どう考えようともこれが僕の最大速度と言うもの。ここで体力を使うわけには行かないし、この暗闇の中走り回る気もないのだから、急かされてもどうしようもない。
 だが、そんな僕の態度がリクにはお気に召さないのか、目の前に現れるたびに顔が険しくなっていっている。僕の肩では、そんなリクを呆れたように眺め、テナが無言で溜息を吐いていた。
「ね、どうなのよ」
 返事をせずにいた僕の前で、リクは腰に手を当て胸を反らした。興奮しているのか、彼女を包む光が強さを増す。
「うん、そうだね。僕一人ならどうにかこうにか出来るんだろうけど」
「そんなの意味がないでしょう!」
 真面目に考えているのかと怒るリクの剣幕に僕は肩を竦め、「一応はね」と笑う。
「一応、じゃないでしょ、リューク!」
 笑った僕を睨むリクには聞こえないような小さな声で、テナが内緒話のように僕に囁いた。
「場所はわかっているんだ、心配なら王子さまのところに先に行けばいいんだよ。って、一人で行っても何も出来ないけどな」
 ククッと喉を鳴らすテナの声を聞いたかのように、また先へと進みだしていたリクが「何か言った。テナ」と眉を寄せた顔のまま振り返った。
「いえ、何も」
「そう。…ま、いいわ。
 ほら、リューク。速く歩いて。歩きながら考える!」
 リクが体を戻すと同時に、テナが「怖い、怖い」と僕の肩からおり、目の前に来て肩を竦めた。言葉にはせず視線を合わせて二人で笑い合う。
 だが、その笑顔の下で、僕の心は小さな闇を感じ眉を顰めていた。
 時々、どうして精霊はこうも人間の姿に似ているのだろうかと思ってしまう。本当に人がその姿のまま小さくなったものでしかない。唯一違うものは背に生える羽根だけだ。
 精霊とは違い操れる力を持ってはいないが、彼らと似た存在である妖精達の姿は様々だ。妖精は決まった姿を持ってはいない。それぞれの宿り主と同じであったり、人型であったりするが、ただそのように形を作っているだけでしかない。元々は形をなさないものなのだ。
 それは彼ら妖精が生き物では無いからだろう。消える事はあるが、それは死ではなくもっと自然なものなのだ。ただ消える、それだけのこと。その点で言えば、精霊は死があるのだから僕達と変わらない生き物であって、人間に似ているのではなくたまたまそうであったというだけなのだろう。
 だが、僕のような馬鹿な者は、似ているのだと自分を主にして考えてしまう。そして、その力を人のために使う精霊を、僕達よりもただ姿が小さいとういだけの彼らを、自分より弱い生き物としてみてしまうのだ。
 それはいけないことだとわかっていても、時々僕はそんな小さな事を盾に、彼らを見下してしまう事がある。今もリクに対して、「何も出来ないくせに煩いよ」そう思ってしまった。テナが口にした言葉と同じでも、僕のそれは醜いものでしかない。
 実際には口にせず飲み込んだ言葉。…こんな時、僕は僕が嫌でたまらない。
 もし口に出していたのなら、相手を傷つけたかもしれないが、それにより自分も反省するだろう。第一、リクが黙ってなどいるはずもなく、僕は彼女に怒られることで救いを求めるだろう。いや、自身の醜さなど見ることなく、いつもの軽口だと自分を誤魔化すのだ。
 だが、こうして心の中にそれを落とした時、僕は自分が憎らしくなり、苦しくなる。
 何も出来ないのは、僕の方なのだ。いつも彼らの力を借りているのは僕なのだ。それを忘れてしまいそうになるなど、あってはならないことだというのに…。
 少し先を並んで飛びながら言い合いをしているリクとテナの姿に僕は目を細めた。彼らと僕との間に、何か目に見えない壁があるような、そんな錯覚が起こる。
 決して精霊達の力を自分の力だと思ってはならない。私達はただ、彼らの力を借りているだけなのだよ、忘れてはならない。
 口癖のようにそう言っていた父。だが、僕にはそれはとても難しいことだった。今にして思えば、彼の言葉もまた、僕を諭すというよりも自身への警告であったのかもしれない。
 彼らの姿が見える自分を、普段は意識せずとも僕はどこかで特別に思っているのかもしれない。それを当たり前のように受け入れている僕は、人間が精霊達の存在を忘れたように、いつか彼らを忘れる時が来るのかもしれない。見えなくなる日がそこまで迫っているのかもしれない。そんな不安にかられる事がある。
 父の事が大好きで、彼には見えないのだというのにいつも父の側にいた精霊に、僕はいつだったか不安を抱えるままこの思いを告白した事があった。
 愚かな事だが、僕は君達への感謝の気持ちを忘れる時があるのだと。
 所詮は君も人間でしかないのだ。
 そう詰られるのを僕は覚悟していた。その精霊は、普段から僕には関心など示さず、どちらかといえば嫌われていたので、それ以外の言葉が返ってくるなど思ってもみなかった。
 なのに、彼はそれが普通なのだと静にそう言った。
 精霊だ人間だと拘るから、君はそう見てしまうだけなのだ。そんな事は考えず、同じ生き物としてみてごらん。
 君は別に自分達を見下しているわけではない。それはただの関係の中で生まれたものに過ぎない。全てが同じだという生き物はいない。それぞれの個性があり、それをもって他の個性と繋がる。だから時には腹を立て、時にはその違いに喜ぶ。みな不器用であって、とても器用でもあるのだ。
 そう、自分達は生きている間色々と変化をしているのだ。その方向が常に一定とは限らない。色んな方向を向いているものだ。
 君の場合も同じ。ただそれだけのこと。君のその感情は、一瞬の変化によって生まれ、直ぐにまた別のものに変わっていくのだから、いつまでも抱えることはない。
 もし自分達を本当に道具のように扱っているというのなら、何故そんな精霊である自分にその事を話す。懺悔をしたいのか?
 そう聞かれた僕は、そうなのかもしれないと答えた。そう僕は怒られたかったのかもしれない。そうすれば少しでも赦されるのだと、自分勝手に思い込んでいたのだ。
 だが、僕の答えを聞いてもなお、彼は静に優しく僕に言った。
 いいや、君はもうわかっているだろう。言葉ではなく、もっと心の奥底でわかり合えるんだよ、生き物は。
 思いがけない彼の優しさは僕を救い、けれども解決出来ない小さな影を僕の心に残した。
 例えば、逆に精霊達が僕を見下したとしても僕は怒らないだろうし、悲しくもならない。それと同じ事が彼らには言えるのだろう。だから気にすることじゃない。
 確かに、そうした思いもある。実際、彼らは僕を愛してくれているし、僕も彼らを愛している。これは杞憂にしか過ぎない。考えるからいけないんだ、そう思う。
 だが、ただ僕は目をつぶろうとしているだけではないのかとも思うのだ。
 なぜなら――、なぜなら僕は、何故自分が他の人間には見えない彼らの姿を見る事が出来るのか、その答えを知らないから。その疑問が消えることはないから…。当たり前のように馴染んでも、僕は人間であって、精霊ではない。
 恐怖はない。自分が何者だとか、そうした心配はあまりない。ここでこうして彼らと過ごすことを僕は気に入っているから、満足しているから。僕が幸せである事は、間違いないのだ。
 だが、日常と違う、僕と同じで僕とは違う人間に合うと、すっと今までなかった何かが心に落ちるのだ。見えない不安が確かにある。だからこそ、精霊達との違いを意識し、普段は気にしない心の奥底の闇にはまってしまうことがあるのだ。
 人間が得意ではない。出来ることなら、関わりたくない。心の中でそんな感情を常に抱えているそれは、怯えといえるのかもしれない。恐怖はないが、態々自分の異質さを目の当りにはしたくはないという思いからか、それとももっと大きな理由があるのか自身ではわからないけれど……。
 今夜の闇は、僕をその中へ捕えようとする――

「…リュークッ! ちょっと、聞いてるの!?」
 いつの間にかリクが僕の肩に乗り、耳を引っ張りながら叫んでいた。それでも反応を示さない僕の前に周り、額を蹴ろうと足を振り上げたのに対し、僕はひょいっと首を曲げてそれを避けた。
「避けないでよっ!」
「避けるよ、痛いもの。
 悪いね、ちょっと考え込んでいたんだ」
 怪我をしているというラリスの兄を助ける方法ではなく、別の事を。と態々本当の事を教えるのは賢くはないので、僕は言葉を省略した。
「…で、どうなのよ」
 疑わしそうに見ていたリクだが、彼女もその追及は今必要なことではないと思ったのか、あっさりと話題を戻す。
「どうするんだよ」
 テナが軽く首を傾げて僕を覗き込んだ。
「うん、まずはその洞窟に降りることだけどね。これは彼みたいに滑り落ちれば行けると思うんだよね」
「はじめから危険だな」
「全てがそうだろう、仕方がないよ。ま、怪我はしたくないから、君達の力を最大限借りなければ駄目なんだけど」
「当たり前じゃない、そんなの。っで、その後はどうするのよ」
 不安定な足元に視線を落としながらも、何てことではないように険しい山肌を上っていく僕のこの姿を見たら、人々は魔物に間違えるのかもしれない。この上自分が今考えた芸当をしようものなら、それこそ人間ではないというもの。
 高い木の間から零れ落ちた月の光を受けながらそんな事を思い、僕は心の中で苦笑した。いや、今の時代なら、精霊使いと言うだけで人々が恐れる魔物に近い生き物なのかもしれない。
「登るのは、やっぱり無理なんだろう?」
「ああ。怪我をしているのなら腕はつかえないだろうからね。いや、僕一人でも登るのはどう考えても無理だよ」
 その発言に、「無理は却下! 考えるのよ、助かる方法を!」とリクが声を荒げる。
「わかっているよ。だからね、そのまま下りようかなと」
「岩を伝って…?」
「違う、それも無理だよ。僕より大きい相手を担いでそんなこと出来るはずがないしね。
 下りると言うのは、落下だよ。飛び下りるんだ」
「はあ?」
「飛び下りる!?」
 暗い森の中に二人の大きな声が重なり響き渡った。
「そんなこと出来ないわよ!」
「そうだ、俺達の力じゃ、二人の人間を下に降ろすことなんて出来ない!」
「そうじゃないよ。洞窟までとは違い山肌は長いしデコボコだしね、どれほどの風の精霊の力を借りても無理なのはわかっているよ」
 風の精霊の力を借りれば、空を飛ぶ事は出来ないがある程度はその風に乗ることは出来る。例えば上に向かう風の力に乗れば落下速度を軽減出来るし、逆に下に向かう風に入り込めば速度をあげる事が出来るのだ。
 だが、今二人が考えたように、彼らの力にも限界はあり、同時に大人の人間二人に出来ることではない。そんな事をしようものなら、重力に引き寄せられるまま落ちるのとそう変わらない速度でしかなくなるだろう。短い距離ならまだしも、あの地形では無理なの事は二人に言われずともわかっている。
「僕が言っているのは、そのまま川にダイビングするということさ」
「……」
 今度は声も出ないほどの驚きだったのか、二人は目を丸め口をぽかんと開けた。その顔に内心苦笑しながらも、笑ってはいられないので言葉を続ける。
「ちょうどいい辺りで僕達に向かって水を噴き上げてもらうんだ、それで勢いをころして川にポチャン。後は泳いで岸につけばオーケイ。って、もちろん水の精霊が引き受けてくれればの話だけど」
 そう、短時間であれば風の精霊達の力を得られる事は可能であり、同時に、川の水面がもっと近ければ水に入り込む時に体にかかる力が弱くなるので、出来る限り空中での距離を短くするため水の精霊の力も借りねばならないのだ。
 いくらなんでもそのまま飛び込めば、水面に打ち付けられて終わりだというくらい僕にもわかっている。どう考えようと人間の力で遣りきるのは無理で、精霊の力借り、尚且つ彼らの負担にならないようにと考えればここに辿り付く。これが一番なのだ。
 これでどうかな、と首を傾げた僕に先に反応したのはリクだった。
「どこがオッケイなのよ!」
 僕が出した最適だと思う結論を、あっさりと蹴り倒す。
「そ、そうだぜ。それこそ無理ってものだ、リューク」
「何故?」
 テナまでも眉を顰める発言に、僕は首を傾げた。
「何故ってな…。そりゃ、お前は大丈夫だろうよ。真冬にでも川に入る奴だからな」
「そうよ、でも、彼は怪我人よ。そんな人をこの冷たい水の中泳がせたら、死んじゃうわよ」
「そうかな?」
 と僕は答えつつも、僕自身は大丈夫だと信じ、青年を心配する彼らの姿に複雑な気分になった。確かに、僕はこの方法で大丈夫だと思ってはいるが、何故この二人は僕と青年を平等に心配しないのだろうか。僕とて人間なのだからこんな日に川で泳げば危険であるのに変わりはないというのに。
「普通はそうなのよ」
 では僕は、精霊が見えるという点以外でも普通ではないのだろうか。
「…でも、他に方法はないだろう。何かある?」
 あるのなら別の方法にしようと言う僕に、二人は口を閉じた。
 何故ここで、青年の事は諦めよう、という意見は出ないのか。それを言っても僕が聞き入れはしないとわかっているからだろうか…。
 二人に気付かれぬよう、僕はこっそりと溜息をついた。


 結局他の方法が見つからないまま、青年が落ちたという場所に着く。リクの言う通り、そこには人一人が転がったように雪が滑り落ちている箇所があった。よくもまあ、こんな所から落ちてあの洞穴に入れたものだと感心しながら崖に近付く。
 青年が落とした雪の下から湿った土が少し顔を出していた。夏に成り行きが溶けても、ここは少しの草木が生えるだけの寂しい所だ。昔はもっと木があったのだが、年々その姿を減らしていっている。いつかこの場所は完全に何も生えない岩肌になるのかもしれない。
 僕はその場で名前を知る水の精霊を呼んだ。彼らも僕の話にはじめは無理だといって反対したが、他にいい案は浮かばず、時間もないのでしぶしぶ承諾してくれた。少しでも力があったほうがいいだろうと他の精霊にも声をかけてくれると言ってくれる。
「仕方ない、なら私達もやるしかないわね」
「そうだな。リューク、少しだけ待ってくれよ」
 リクとテナが慌てて消えていった。その間に僕は辺りを調べ、薬などが入った袋を腰に結び直した。崖の下は月明かりを受けぼんやりと輝いていたが、洞窟への入口は見えない。昔の記憶を辿り、どの辺りにそれがあるのかを思い描く。
 すぐにリク達二人が戻ってきた。いや、二人だけではなく、友達の風の精霊と初めて会う精霊の三人を連れて。
「やあ、トゥル、悪いね。そちらのお二人は初めましてだね。僕の名はリューク。君達の名前を教えてもらえるかな」
「喜んで。ライだよ。君の噂は聞いているよ」
「リクにかい? なら、黒い瞳の馬鹿な奴っていうところかな?」
「リューク!!」
 眉を釣り上げ、リクが高い声で僕の名前を叫んだ。その姿に周りの者達が声を上げて笑う。
「あはは。そうじゃないよ、リューク」
「そう、僕らの名を呼べる最高の人間だというものだよ。そんなあんたからお声が掛かるとは嬉しいね、オレはディルウだ」
「よろしくね。ディルウ、ライ」
「リューク、ここから飛び下りるんだって?」
 トゥルが崖を覗き込んで聞いてきた。少し太めの彼が顔を顰めると顎は二重になる。普段はそれを気にするのだが、今はそちらに気が回らないらしい。
「今はそこの洞窟までね。落ちるのは後でだよ」
 崖の端に立つと、下から吹き上げてきた風が僕の髪を掻き乱した。
「怖くないの?」
 心配げに訊いてくるトゥルに僕は微笑んだ。
 その言葉はここにいる皆が言いたかったことなのかもしれない。全員が小さな不安を抱えている。そう、精霊達は自分の力をよく知っている。それをおごることなど殆どない。自分は何が出来、何が出来ないのかを良く知っている。
 その点、力を借りる僕はそれをはかる事は出来ない。僕が信じるのは納得してくれた彼らの気持ちだ。それなら、どこまでも信じられる。
「ああ、怖くはないよ。
 よし、じゃあ、悪いけどお願いするね」
 何の努力も要らず、普段通りの声が出る。そこには今言ったように恐怖心など全くない。だが、僕の心には別のものがあるのも確かな事実。
「まるで簡単な用事をするみたいな言い方だな」
 ライの笑いに、リクが僕に釘を刺した。
「リューク、真面目にしてよね」
 僕はいつでも真面目だよ、と言い返そうとしたが意味はないので彼女が喜ぶよう素直に返事を返した。
「もちろんだよ。頼むね、リク。皆も」
 五人が頷いたのを確認し、背を向ける。僕が踏み荒らした雪の上に落ちている影を見、目を瞑り、一呼吸の間を置いて声をかけた。
「…行くよ」
 目を開き、何の迷いもなく、縁にかけていた足を後ろに引く。
 一瞬空を踏んだ足が直ぐに岩肌に叩きつけられるようにつく。殆ど垂直といえる斜面を、駆け足程度の速さで僕は滑り降りた。岩肌に身体をむけ、両足をそこに擦りつけるようにして下りていく。後ろからは強い風が吹く。僕に向かって吹き付けることで、重力による落下を抑えているのだ。
 普通の者ならいきなりこんな事をしろと言われようと、いくら力を借りられても出来はしないだろう。パニックになり風を上手く受けきれず、一瞬でバランスを崩して終わりだ。
 そう、子供の頃から彼らの力に慣れ親しんでいるから出来ること。
 精霊の力におごってはならないと理解しているのに忘れそうになる僕は、ふと思い知らされる事がある。正に今のように、もし僕が彼らの力を上手く使えなければ、青年は助かる望もないのだ。ならば、いい事なのだろうか、こうして力を使うのは。
 だが、それは天に逆らうことであるのかもしれない。そもそも、僕はやはりただの人間で偉くも何ともないのだ。ただ精霊達から力を借りられるというだけ。それだけで、普通の何も知らない人間にその影響を与えていいのかすらわからない。
 父は何故、人から離れてこの山で暮らしていたのだろうか。一度も聞いた事はなかったが、父もまたその立場に思うところが沢山あったのかもしれない。
 人の死は変えられない。やり直しなど出来ない。
 それをわかっていての願いなら、ただの戯言だと赦されるだろうか。
 僕はもっと父と、色んな話をしたかった。幼かった僕には思いもよらなかった感情が今心にあるのだ。それをどうすれば良いのか、聞いてみたかった。
 もう少し、一人で答えを見つけられる大人になるまで、側にいて欲しかった。
 僕は、その時から、沢山の感情を心に溜めていっているような気がする。精霊達がくれた答えだけでは、満足出来ないのだ…。
 強い風を受け確かに彼らの存在を感じている中で、僕は一瞬孤独に包まれた。だが、次の瞬間には現実に引き戻される。本当にとてもとても短い孤独。
 タイミングよく岩を蹴り、危なげなく少しだけ飛び出た洞窟の入口に降り立った時には、強い風を受けていた耳が小さな悲鳴をあげていた。手を貸してくれた彼らに、礼を言う自分の声が耳の奥でボーと響いた。
「ありがとう、皆。この後も頼むね」

2002/10/25