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寝室を出ると、ラリスは頼んだ通り、食事の用意をしてくれていた。朝から二人で作ったパンとスープ、あとは干し肉と香草のサラダがあるだけなので、用意らしい用意はないのだが、それでもお嬢様である彼女にとっては大役であったのだろう。
ラリスには何もかもが新鮮なようで、僕のすること全てに興味を示し、手を出してきた。知識も技術もない彼女のそれは、決して手伝いと言えるものではなかったが、幼い少女の奮闘する様子は、なかなか面白かった。その姿に、僕自身も父の手を煩わせながら、色々なことを覚えていったのだと思い出す。
別けられたスープ皿を前に僕が礼を言うと、少女は満足げに笑った。
その後、席についた青年に再び誉められると、「これ、ラリスが作ったのよ!」と兄の皿に、かなり歪な小さめのパンを少女はのせた。
「そうか、凄いな、ラリス。――うん、美味しい」
「ホント? ホントに、お兄さま」
「ああ、とても美味しいよ」
領主の生活の様子など僕は全く知らないが、それでもこんな食事が美味しいと言える暮らしをしているわけではないというのは、流石にわかる。別に、彼らが相手だからと食事を変えるわけでもなく、その必要性もないので、テーブルの上は質素なものだ。
美味しいと、見え透いた嘘を笑顔でつく青年に、僕は軽く笑う。この際本当の味は関係ないのだろうが、それをわかった上でも、少し馬鹿らしく、面白い。
「何を笑っているの?」
「いや、別に」
「ふ〜ん。あ、スープも美味しいのよ、お兄さま。沢山食べて、元気になってね」
僕の笑いに首を傾げ、直ぐに兄に食事を促す少女は、自分が丸めたパンを小さな手で千切り、大きく開けた口の中に放り込んだ。モグモグと口を動かす少女に、軽く笑いながら訊く。
「口には合うかい?」
「…? ええ、美味しいわ。ね、お兄さま」
妹の言葉に頷く青年は、それが真実だと言うように良く食べた。
体力が落ちている時に選り好みをしていられないのか、味覚が正常ではないのだろうか、粗末とさえいえる食事に、文句を言う事はない。そんな二人は、流石領主の子供だ、躾けがなっていると、そういうことなのだろう。
それとも。
それとも、僕のように、食にあまり拘りがないのだろうか。
手を止め、暫く兄妹の様子を窺っていた僕に、「食べないのか?」と青年が新たなパンに手を伸ばしながら、首を傾げて訊いて来た。
「ええ、もう充分です」
更に残っていたサラダを食べ切り、僕はそう答えを返す。その言葉に、少女は特に反応を示さなかったが、青年はきょとんとした顔をした。
「気になさらず、どうぞ」
食事を続けて下さいと言う僕に、「ラリスの方が、良く食べるんじゃないのか。どこか悪いのか?」と軽く眉を寄せて訊いてきた。そんなこと、僕の勝手だ。放っておいて欲しい。
だが、そう言うわけにもいかないのが、現状でもある。
「リュークはいつもそうなのよ。あまり食べないのよね〜」
と、何故かそれを知っている事を自慢するかのように兄である青年にいい、ラリスは微笑みかけてきた。
「まあ、そうみたいだね。別に、比べる相手もいないから、そう意識はしないんだけど。小食のようですね、僕は。いつもこんな感じです」
父も、そうガツガツ食事をする人間ではなく、食は細かった。僕は、昔は小さいなりに食べていたようにも思うが、それも父が生きていた間のことだ。一人になってからは、食事はあまり摂らなくなった。
それで特に問題はないのだが、そんな僕を心配してか、精霊達は何かと僕に物を食べさせようとする。なので、食卓は結構賑やかなものだ。彼らにせがまれ、お茶会もよくする。
彼らの話では、精霊使いは短命だというのと同じく、体が丈夫でない者が多いらし。父も例に漏れることなくそうであったように、僕もそうなのかも知れない。今のところ悪いところはないと思うが、食が細いのは何かそれに関係があるのかもしれない。だからこそ、精霊達は僕以上にそれが気になるのだろう。
しかし、彼らに進められるまま食事をしていては、僕は直ぐに太りすぎて死んでしまうだろう。それは、困る。なので、適当に流している毎日だ。
「別に倒れることはないし、これで問題ないんですよ」
暗に、大きなお世話だと、僕は肩を竦める。そして。
「それよりも。もう、大丈夫のようですね」
食欲があるのは、元気になった証拠だと、僕は青年のそれに少し呆れながらも、話題を変えるために笑顔でそう言葉を繋げた。
「ああ、世話になった。昼から山をおりよう」
手にしていたスプーンを置き、青年は僕に頭を下げた。その言葉に、ラリスが高い声をあげる。
「え〜っ!! もっといましょうよ、お兄さま」
「何を言っているんだ。お父様もお母様も、心配しているぞ」
「大丈夫よ、ちゃんとお手紙を書いたんだから」
「手紙?」
「そうなの。あのね、リュークがお願いするとね、お手紙がスッと消えちゃうの! すごいでしょう!?」
ねえ、と同意を求めるように首を傾け僕を見てくる少女は、やはりどこか自慢げだ。
「…精霊、か…?」
妹のように単純には受け入れられない青年の呟きに、僕は軽く肩を竦める。
手紙を運んだのは、刻(トキ)の精霊だ。同じ名前ではあるが、時の精霊と刻の精霊は、全く違う。刻の精霊達は、時間の流れに乗る者達で、その能力は運び屋である。
彼らは精霊の中で一番長命で、言霊を運ぶ事が出来るその能力ゆえ、昔は宝の守人のようなことによく使われていたらしく、地域によっては守の精霊とも呼ぶようだ。だが、今は他の精霊と同じく、その力はあまり使われなくなってきている。
刻の精霊は他にも、小さなものを運ぶ事が出来る。どの程度の大きさが可能かというと、それぞれ多少違うようではあるが、大き目のクッキー一枚というのが目安となるだろうか。高速で移動しているのか、瞬間的に時空を移動しているのかは本人達にもわからないようだが、重いものはそれをするのに無理があるらしい。
以前、クッキーを二枚同時に運ぼうとした刻の精霊がいたが、重いそれによろめきながら運ぼうとしてテーブルから落ち、慌てて下を見ると草むらの上に一枚のクッキーだけが落ちていた。
直ぐに戻ってきた精霊は、他の精霊達から笑われながらも、再び一枚のクッキーをもって帰った。それで漸く、彼らの限界がどの程度なのか、わかったというわけだ。その後何度か、競うように刻の精霊達がクッキー二枚運びにチャレンジしていたが、残念ながら成功者はいなかった。
なので、ラリスに書かせた手紙も、小さな紙切れと言う方が正しいものだった。それを、置手紙のように彼女の部屋に届けて欲しいと刻の精霊に頼んだ僕は、けれどもその時は、気付かれないだろうと諦めてもいた。もし見つけられても、あまり意味はないかもしれないと思っていた。
だが、様子を見に行った精霊達の話では、それを読んだ領主は、あっさりと納得したそうだ。わかったと、数日様子をみようと、騒ぎ始めていた者達を心配はないと止めたらしい。そして。
――困った子供達だ。迷惑をかけているようだな。…すまないと、君達の主人に伝えてくれ。
そう言い、領主は軽く目を伏せたらしい。
驚いたよと騒ぐ精霊達以上に、それは僕にとっても衝撃的な事だった。手紙を精霊が届けたのだと、領主は本当に思ったのだろうか。だが、そうでなければ、あんな言葉など言わないだろう。
精霊が近くにいると信じて、彼らに向けて紡がれた言葉が、僕のところへ届いた。それは、何だかと手も不思議な気がした。
領主ともなれば、精霊の知識を持っていてもおかしくはないのだろう。だが、それでも、それを当然のように信じている人間がいるとは…。
嬉しいのかどうなのか、正直わからない。複雑なこの気持ちは、単なる戸惑いだけでは決してないだろう。だが、それが何なのかまではわからず、僕はただ、精霊達の話に耳を傾けるだけだった。
成果はあったが、自分のとった行動が軽はずみだったのではないかと、少し後悔した。
「精霊! そうなのよ、お兄さま。私も精霊使いなのよ。私がお願いしてもね、ポッて火が点いたのよ!」
無邪気な声で、ラリスが話す。
そう、「凄いな」とそれを笑う青年も、僕と同じ世代で、精霊使いという者を詳しく知りはしないだろうし、この妹思いの青年が何かを企みそうにも思えない。だが、領主となれば、話は別だ。
その存在が忘れ去られようとしているとはいえ、精霊使いは貴重であるという考えは消えてはいない。何処にも属さない精霊使いがあるとなれば、それは魅力的な鉱物であるのだろう。力を持つがゆえに敬いはしても、手に入れられるものなら入れたいと思うのが人間だ。
僕はあまり軽率にこの姿を人目に晒してはならないのだ。
そこまで大袈裟に考えなくともいいのかもしれない。だが、相手が大きな権力を持った者となると、そうも言っていられない。
ある程度の知識をもっている領主は、一体、精霊使いという者をどう考えたのだろう。
僕は今まで人間と深く関わらず、その様子を精霊達から訊きはしても、実際に精霊使いがどのように扱われるのか、わかってはいない。予想も出来ない。尊敬される要素もあるのだろうが、畏怖されるものだと考えるのも簡単なことだ。人間の心理など、決まりきった答えはない。その時の雰囲気で全てが決まる、そんな曖昧なものだ。
目の前の兄妹もそう。手を貸したからこそ、彼らは僕を恐れてはいない。だが、もし彼らに関係なく、ただこの力を使っていただけならば、僕を異質とみなし嫌悪したかもしれない。
未だ人々に恐れられる、魔物が住む迷いの森に好んで住んでいるというだけで、僕は他の人間からの理解は得られないだろう。
父が何故ここで暮らしたのか。人の姿を僕に説きながら、僕を人間とあまり関わらせなかったのか。多分、何らかの意味があるのだろう。訊きはしなかったが、僕はそう思い、父の死後もここで暮らしている。だが、しかし。
避けきるには、あまりにも情報が少な過ぎると言うのも事実で。
僕は時々、自分がとるべき道を見失いそうにもなる。
「なら、リュークも一緒にお城に行きましょう」
「ああそうだ、それがいい。礼をしなければ」
大人の男とまだ小さな少女だが、それでもやはり兄妹であるので、向けてくる笑顔はとても良く似ている。その微笑みに、僕は軽く口元で笑いながら席をたった。
冗談じゃない。
一瞬前に思い浮かべた彼らの父、領主・サンテュの事を知りたいという気持ちは、やはりこの心の中に少しあるのだろうが、それは穏やかな日常以上に心を占めるものではない。折角彼らが帰り、漸く落ち着きを取り戻すというのに、何故彼らに同行しなければならないのか。僕は、ご免だ。
「折角ですが、ご遠慮しますよ」
別に礼などいりませんよ、と背中を見せ、眩しい光が差し込んでくる窓の外を眺める。
僕が一番、何よりも守らなければならないのは、この身体でもこの生活でもない。
ここから見える、全てなのだ。
緑の森が広がり、青い空がとても近くに感じる、大きな自然。風が吹き、春の匂いが駆け巡っているだろう外に、何処かへ飛んでいく精霊達を見つけ、目を細める。誰かまではわからないが、小さくなっていく彼らは、きっとまた、ここにくるだろう。
彼らにとって安らげる自然はもちろんの事、この穏やかな空間を、僕は守らなければならない。もし、僕が消えたとしても、ここに彼らが集まれるよう、この森に残れるように。父が守ったように、僕も、この場所を。
「…綺麗だな」
聞こえた呟きに振り返ると、青年が少し目を細めてこちらを見ていた。
「あぁ、そうですね。雪が解け、春が顔を覗かせる季節は、とても力強くて正にそんな感じですよね」
迷いの森で死を味わいかけていたのだ、やってきた春に目を向ける余裕などなかっただろうと、僕は再び窓の外に目を向けた。
だが。
「お前のことだよ」
「えっ?」
青年を見ると、彼はニヤリと言ったような、少しやんちゃな笑顔を向けてきていた。
「僕が…?」
「そうだ、お前だよ。助けてもらった時は夜だったし、お前の姿なんてきちんと見てなかったからな。こうして日の光の下で見て、驚いている」
綺麗だなと、照れる事もなくそんな言葉を吐く青年に、少女が少し呆れたように言った。
「あら、お兄さま、気付いていなかったの? 私は初めて会った時から、リュークがとってもキレイだって知っていたわよ」
「…よく言うよ。魔物だと言っていたのは、誰だったかな」
肩を竦めて言った僕に、少し不満げにラリスは頬を膨らませた。
「だって、それは…とってもキレイで、ビックリしたのよ。キレイな姿でだますマモノもいるもの」
「魔物か。そう言えばそんな本を読んでやったことがあったな。黒い髪に黒い瞳。本の通りの姿だな」
「そう、それよ! そしてね、とってもキレイなの」
「そう、綺麗だ。確かに、ラリスが間違うのも、無理はないかな」
「ね、そうでしょう!」
何の本かは知らないが、少々矛盾している話に、僕は馬鹿馬鹿しくて軽く頭を振る。
「兄妹そろってそんなことを言っても、何も出ないよ」
「あら、お兄さま。リュークは自分のキレイさに気付かないみたいね」
「そうだな。勿体無い」
「何を言っているんだか。残念ながらこの黒い髪も黒い瞳も綺麗だと言わない事を、こんな山の中に住んでいてもそれくらいは知っているんですよ。煽てても、何も出ないですよ。無駄です。
綺麗と言うのは、君達みたいなことを言うんでしょう。明るい髪と瞳を持っている人の事をね」
「…どこで憶えたんだか、そんなこと」
「リュークって、変」
そう言って二人が笑い出した。変なのはこの二人の方だろうに、こうなっては反論も出来ない。何を言っても、兄妹で団結して、丸め込まれそうだ。
いつの間に来ていたのか、リクが食器を置いた棚の上に座っていた。彼女もまた、兄妹と同じように、お腹を抱えて笑っている。
何だかわからないが、当分はこの事で精霊達にからかわれるのだろう。
僕の溜息を耳にし気にする者は、幸か不幸か、今この場所にはいない。
「そういえば、カイトさん。この森に来たのは薬草を探してだと、ラリスに聞きましたが」
笑い続ける二人に落とした溜息の代わりに、僕の頭の中に別の事が浮かび上がる。
「ん? あぁ、そうだが…」
わずかに浮かんだ涙を指先で擦る青年の行動を無視し、僕は詳しく尋ねる。いい加減、わけのわからない笑いを聞くのも、不快になってくるというものだ。
「ラリスが言う薬草の名に聞き覚えがないんです。憶え間違ったのかもしれない。わかりますか?」
「あぁ、あれはな…」
「カキテルクニよ! カキテルクニ!」
「…それであってるんですか?」
少女の口から威勢良く発せられる、妖しげな呪文のようなその名前に、僕は僅かに眉を寄せる。そんな薬草、聞いた事がないのだが。しかも、それは黄金色だという。
僕の問いに、申し訳なさげに少し眉を下げ、青年は乾いた笑を落とした。
「いや、実は…。それは、絵本にあったものなんだ。どんな病気でも治す薬草だと、その話に出てくるんだ」
ラリスが絶対あるのだと言い張ったものは、どうも本の話の中のものらしい。探しに行くのだときかない妹に手をやき、仕方なしに青年はこの森に連れて来た。そんなところなのだろう。
「少し探してなければ諦めるかと思っていたんだが、こんなことになってしまった」
そう話す兄を見て、妹は僕に視線を移し、「…あるよね?」と先程までの勢いを消して不安げに見上げてきた。
さて、どうしたものか。
「無いという事実は、知らないからね。どうなんだろう。でも、少なくとも、どんな病気でも治す薬草なんて聞いたことはないし、この山にはそれらしい金色に輝く薬草はないね」
僕が言うと、ラリスはしょんぼりと項垂れた。隣に座る青年が、妹の頭をくしゃくしゃと撫でる。
…仕方ない。
「母親の病気は何かわかっているんですか?」
「いや、詳しくは。珍しい病気みたいで…」
青年から話を聞き、僕は少し考えて、いくつかの薬草を入れた子ビンを取り出した。
「僕の薬は父に教えられたのと、独学とで、きちんと勉強したわけではない。何より、実際に症状を見たわけではないから、効くかどうかの保障は出来ない。ま、毒にはならないだろうから、試してみるのも悪くはないだろう。そんな程度のものと思ってよ」
「お薬を作ってくれるの?」
沈んだ所から急浮上し、パット顔を輝かせた少女に、僕は首を振る。
「だから、薬になるかどうかはわからない。効き目がなくても、僕には関係ないからね。使うかどうかは、本人に聞いてからにしてよ」
尤も、領主の妻が得体の知れない者の薬を使うなど、ほんの少しの可能性もありそうにないのだが。城には専門の薬師がいるだろう。なので、毒ではないかと調べられるだろうが、それをクリアしたとしても、飲まれることもないだろう。
なのに、この場を手っ取り早く済ませるためだとはいえ、僕も相当物好きだ。
自分を軽く笑った僕に、ラリスが根拠のない言葉を繋ぐ。
「リュークのお薬なら、絶対効くにきまっているわ! だって、私もお兄様も元気になったもの」
君達の症状と一緒にするのはどうかと思うのだが。幼い少女には、そんな事はわからないのだろう。
「だと良いんだけどね。風邪や怪我は自分で薬を試せるけれど、病気ばかりはそうもいかないから、実験のしようもない。効くと言われているものをベースに、少しアレンジする程度しか出来ないよ」
だから。
「ありがとう、リューク」
と、満面の笑みでの礼の言葉にも、軽く肩を竦めるしかない。
兄に抱き上げられて山をおりる少女の手には、僕が作った薬のビンが大事そうに握られている。紐を通しその手首に巻きつけているとはいえ、何らかの弾みで割れでもしたら、大変な事になるだろう。
青年が転ばない事を、僕は願う。尤も、森の中ではその心配は杞憂に終わったので、ここからの道ならば、更に安心出来るものなのだろう。少女が自力で走らない限り、薬は無事に城まで着きそうだ。その後は、僕の預かり知らぬこと。
「もうここまで来ればわかるね。身体は大丈夫ですか?」
「ああ。平気だ」
怪我をした腕は軽く曲げ、ほんの少し少女の足に添えるだけで、片腕で妹を抱き上げた青年は、言葉通り疲れた様子はなくそう頷いた。
「では、気を付けてお帰りください」
「リューク、もう会えないの?」
「ライカルの街にはおりてきているんだろう? その時にでも城に寄れよ」
ふらりと立ち寄れる場所ではないのに、気軽にそんな事を言う青年に、僕は軽い笑いを落とす。
「そうですね。気が向いたならば、是非」
断り以外の何ものでもない言葉に、「絶対だぞ、約束だ」とずれた返事を真剣な顔でする青年に、僕は再び笑う。
「また、遊びに来てもいい?」
「道を覚えたかい?」
僕の言葉に、ラリスは首を振り兄を見上げた。その兄は、降参だというように、肩を竦める。
「憶えようとしたが、すぐにわからなくなった。よく迷わないな」
「生まれ育った場所ですからね。僕にとっては、迷う事の方が不思議です。目で憶えこもうとするからですよ、感覚で憶えなければ」
「…わからん」
「わからないわ」
二人揃って辺りを見回し、そんな呟きを溜息とともに落とす。
「そうですか? 僕は街中の方がわからない。あそこでは一歩でも知らない道に踏み込んでしまうと、自分が何処にいるのかわからなくなってしまう」
そう、幼い頃迷い込んで父とはぐれてしまったことがあった。僕には精霊達がいたので、すぐに元の場所に戻れ父とも会うことが出来たのだが、残念ながら今はそうもいかない。精霊達は迷子になった僕をからかって遊ぶのだ。
子供の頃のように泣けばすぐに道を教えてくれるだろうが、そういう訳にもいかない。迷ったら、自力で戻るしかない。とても面倒な場所だ。
「街の方が色々あるわ、ここみたいに、木ばかりじゃないわよ」
「目印になるものが色々あるだろ。そうそう迷うところじゃないだろう?」
「言ったでしょう。目で憶えるのではなく、感覚だって。街の中はその感覚が捉えにくい」
「…目で憶えろよ」
「ホント、リュークって変」
だから、君達の方が変なのだと、いい加減気付いて欲しい。
だが、それでも一対ニであるのだから、僕に勝ち目はなく、呆れる彼らにただ溜息を落とすだけにしておく。そもそも、彼らの勘違いを、親切にも訂正してやる必要は僕にはないのだ。
「ねえ。じゃあ、リュークに会いたくなったら、どうしたらいいの? 迷子になったら来てくれる?」
首を傾ける少女に、僕は頭を振る。
「それは無理だよ。この山は大きいからね。ラリスを見つけられたのは偶然だよ」
この二日は、偶然の出会いと、気紛れな付き合いによって成り立ったものだ。日常に戻った僕はきっともう、この二人に会うことはないだろう。
だが、未来というものは、どうなるのかがわからないものだ。
もしまた、偶然二人に出会えたならば、それは何か意味のある再会になるのかもしれない。
ラリスは歩く兄にしがみ付き、後ろを向いて、見えなくなるまで僕に向かって手を振っていた。その姿が消えると、ザワザワと少し強い春の風が森を駆け抜けた。
いつの間にか現れたテナが、僕の肩に乗っていた。
「さて。皆を呼んで、お茶会を開こうか」
本当は昨日開く予定だったそれに、テナは喜びの声を上げ、他の者にも知らせてくると言うと、フッ消えた。素早いというか、現金なその行動に僕は苦笑しながら、再び森の中に足を踏み入れる。
ホウと約束したのは、ハーブクッキー。あとは、皆が好きなふわふわのケーキも焼こうか。
精霊達は、僕のお菓子作りをああだこうだと言いながら眺めるのが大好きだ。彼らの方が一足早く家に着いているだろう。呼べば直ぐに飛んで来るのは、いつものこと。
遅いよと言う迎えの言葉を想像しながら、僕は一人、木漏れ日が描く模様を踏みしめ、温かな我が家を目指す。
ただいまと、遅くなって悪かったねと、伝える言葉を胸で繰り返しながら。
迷いの森を、真っ直ぐと進む。
END
2003/05/01