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冷えた空気がピリピリと肌を刺激する。それにより、たとえ頬が切れてしまったとしても、気付きはしないだろう。流れる血も一瞬で固まるのではないかと思うほど、感覚を麻痺させるほどの冷気。
だが、そんな事では耳の機能は役目を止めはしないらしい。それを切実に願おうとも、残念ながら僕の耳は音を捉える。空を切る音でも、自身の鼓動でも何でもなく、僕の耳は耳にしたくはない音を吸い込む。いや、無理やり送り込まれているのだ。だからこその不快感が僕を襲う。
「うっ、あああぁぁぁっ!!」
…煩い。煩すぎる。
静寂が支配する夜だというのに、先程までのそんな空気はどこかへ消え去った。崖を蹴り、地上を目指す過程に置いて、いくつかの対処すべき事は考えていたが、まさか、こんな事が起こるとは。煩い悲鳴をあげられるとは思わなかった。
僕の耳元で叫ぶ青年は、ただ重力に身を任せるという状況に態々加えなくともいい、僕を疲れさせる力を発揮した。同じ力を出すのであれば、状況を改善できるように頭を使ってほしいものだ。青年の声は僕の眉を顰めさせる威力を持っていた。だが、それを甘んじて受けていられるほど、残念ながら暇ではない。
ふと、僕だけではなくこの青年もまた同じ状況にいるのだが、こうも叫んでいるのだから僕とは違い暇なのかもしれないと、逆の事を思いつく。たとえ、そこまでいかずとも、感情を声に出しているという事は少しは気持ちに余裕があるという事なのだろう。僕はそう考え、けれども、答えを導き出せたとしても、意味はないと思考を中断した。この考えで辿り着く答えなど、僕を虚しくさせるだけだろう。
青年が握りしめるにくる肩の痛みと、耳を通り過ぎる雑音に眉を顰めながらも、僕は腕に力を入れ離れ掛けた身体を引き寄せ、彼の顎をとり上を向かせた。僕のそんな動きなど、気付いているのかいないのか。自分の命がかかっている行動だというのに、なんとも無責任なものだ。
だが、議論をするほど時間もなければ、例えあったとしても面倒なのでする気もない。
叫ぶ青年の口を、有無を言わす間もなく片手で押さえ、僕は言葉を紡いだ。
「…水の精霊よ我に力を貸したまえ。我元に水流を」
闇の中で、突如僕らは水に包まれる。一瞬濡れているのかどうかもわからない、妙な感覚が僕を襲う。だが、間違いなくこれは水だ。凍りつくほどに冷たい、雪解けの水。
僕は青年の頭を胸に抱え込み、目を凝らす。僅かな星の光は役には立たない。だが、近くに光を見つける。精霊達だ。その光が横を過ぎ、上がって行く。
いや、彼らが止まり僕が落ちたのだ、川の中へ。
包み込んでいた水が解ける感じと同時に、別の力が僕達を押した。その力を利用し、水面に顔を出す。空には無数の星。そして、もっと近くには、小さな生命が光り輝いていた。
吸い込んだ空気はやはり冷たく、喉にも肺にも痛みを与えた。
けれども、光同様、僕を優しく包み込む。そう、冷たい水も、何もかもが。
僕の運はまだ、尽きてはいないらしい。
それを確かめるためにこんな事をしたのではないのだが、僕は何故か見慣れたが飽きる事などない自然に包まれ、そう思った。
だが、やはり。残念ながら、そんな思いを堪能している暇は僕にはない。
岸に辿り着くのに少し時間がかかり、予想よりもかなり流された場所で漸く僕達は冷たい川からその身を上げる事が出来た。
どうにか引っ張りあげた青年は、かなり水を飲んだのか寝転がったまま身体を丸めて何度も咳き込んだ。うつ伏せにして膝を腹に当てると少し水を吐いた。背を擦りその行為を繰り返すと、死に掛けた声で「…もういい」と呟いた。
この濡れたままの格好では、家に着くまでに体は凍ってしまうだろう。落ち着いた青年を座らせ、周りに落ちた枯れ木を少し集めながら、僕は先程一緒にいた火の精霊を呼ぶ。
「ホウ、火を点けて」
僕の声にすぐに反応し姿を現したが、ホウは顔を顰めて鼻を鳴らした。
「あいつのためにか?」
先程驚かされたことを根に持っているのだろう。丁寧にも、舌打ちまでする。
「いや、僕のためにお願いするよ。確かに彼もそうだが、この寒さは僕にも堪える」
ホウは暫く顔を顰めて考え、「…ハーブクッキー」と呟いた。それで手をうとうと言うことだ。
「オーケイ。明日のお茶の時に用意しておくよ」
僕の答えに満足しニヤリと笑ったホウが消えると、青年の前に置いていた木に火が点いた。その火に驚いた青年が、暫し火を見つめた後、少し離れたところで立つ僕を見た。僕はその視線の意味に答えはせず、青年の側に行き、集めた木を火の中にくべた。
「腕は、痛みますか?」
「…いや」
感覚が無いから、わからない。
そう言い、震える唇で微かに笑いを作る。
「血は止まっていますし、そのままでいいでしょう」
僕は薬入れの袋を外し、小ビンの中から小さな実をひとつ取り出し、青年の震える口に持っていった。それを受け取ろうとする彼の手は寒さのため震えており、どう見ても無理であったので、そのまま実を唇に押し当てる。
「食べて、噛んで下さい」
小さく開いた口に放り込み、震える歯で言われたように実を噛もうとする青年の口を、僕は手で蓋をした。その行動に眉を寄せた青年に、もう一度言う。
「噛んで飲み込んでください」
訳はわからないが従う事にしたらしい青年は、その体勢のまま、眉を寄せて口を動かした。硬い実は捉え難いのだろう、暫く僕もそのままで待つ。冷たい手だが、それでも感覚は残っているようで、青年の口の動きが掌を微かに刺激した。
「――ウッ!!」
掌に青年の口が歪むのが伝わった。僕は少し力を加え、青年が口を開くのを阻止する。
「出しては駄目です。飲み込んでください」
青年の目に生理的な涙が浮かぶ。眉間には深い皺が何本も刻まれた。体は凍りそうな時でも、味覚は衰えないらしい。僕は青年の姿に、そんな事を実感した。尤も、判断能力はやはり鈍っているのだろう。
実を飲み込んだのを確認し、僕は手を外した。もしこれが毒薬ならばどうなっていたか。僕の言葉にあっさりと従った青年に少し呆れもする。
「…な、なん、だ…?」
僕が離した手の代わりに、自身の震える手で口元を抑えながら、青年は可笑しな声で呟いた。今夜聞いた中で、一番彼には似合わない妙な声音だ。相当なダメージを受けたらしい。もしかすれば、先程行った決死のダイブ以上なのかもしれない。そう思えるほど、青年の声は奇妙なものだった。
「気付け薬としてよく使われる実です。ですが、それは味の面でのこと。身体の熱を高めてくれる効果があります」
そう言って僕も実を取り出し口に入れる。かりっと奥歯で噛み潰すと、何とも言えない味が口に広がり、飲み込むと喉がピリリと痛みを訴えた。僕が初めてこの実を口にしたのは幼い頃のことだが、今の青年のように動揺などしなかった。
「もうひとつ、どうですか?」
僕は二つめの実を放り込みながら、同じものを青年に差し出した。確かに美味しくはないが、食べれなくもないといった程度のものだと、僕は思うのだが。
青年は、それこそ魔物でも見るような目で、僕の手の中の実と、それを食べる僕を見、頬を引き攣らせた。
「…冗談、だろう…」
こんな時に冗談を言うような人間だと、この青年は僕を見ているのだろうか…?
「二度と、食いたくない…」
「口に合いませんか?」
「当たり前だ。この世の食べ物か、それは」
会話はいまいちだが、どうやら効果はあったようだ。顔を顰めて言う青年のその表情に精気が見えはじめる。
「間違いなく、この世のものですよ、これは」
「…例え話だ」
実を食べた時とは違い、少し不思議気に眉を寄せてそう言った青年に、僕は軽く首を傾げた。何か考え事でもしているのだろうか、この微妙な間は。
震える体で、よくも他のことに思考が行くものだ。そう思いながら、僕は服を一度脱ぎ水気を絞り、それをまた来て青年に声を掛けた。状況に関係ないことでも何でも、思考が動き出したのであれば、それはそれで良い事だ。
「もう少し枯れ木を集めてきます。服を乾かしていてください」
一瞬で水分が凍るほどの寒さであれば濡れた服など直ぐ乾くが、残念ながら夜とはいえ春を迎えたこの季節ではそれは無理だ。ここは雪が残る山頂付近でもないのだから、こうして火で乾かせるしかない。
だが、僕の言葉に青年は頭を振った。
「いや、大丈夫だ。行こう」
「駄目ですよ。濡れたままだと体温を奪われ、体が凍りますよ。手足を失いたいのなら止めはしませんが、無事に帰りたいのなら乾いてから動きましょう」
「……ああ、わかったよ」
青年は溜息を付きそう言った。再び落とされた微妙な間が少し気になった。青年は言われた言葉を直ぐ理解するのも、判断してから返答をするのにも時間がかかるようだ。先程洞窟の中で交わした会話を考えれば、苦手と言うわけではなく、寒さのせいでやはりまだ思考が鈍いのであろう。それでも、早く妹に会いたいという思いは強いようだ。
だが、その兄の想いとは違い、あの少女は今頃青年の事など忘れ、幸せな夢を見ているだろう。兄を心配して眠れないわけでも、熱に苦しんでいるわけでもない。夢の精霊に頼んだのだ、現実では味わえないほどの幸福に浸っているはずだ。
それを口にしようとし、僕は止めた。この青年を安心させることも出来るのだろうが、同時に不安にさせる事にもなりかねないと気付いたからだ。
自分の大切な者に精霊使いが呪いを掛けたと聞き、冷静でいられる人間はどれくらいいるだろうか。
少なくとも、僕にはそんな人間の知り合いはいない。
「…精霊使いを見るのは、初めてだ」
目の前の炎を見つめたまま、青年は静寂を破りぽつりと言った。
湿っていない枯れ枝を集めている間に力を借りた精霊達と話し、僕が青年のところへ戻ると、彼は火の子が飛んでくるほどの場所に腰を下ろし、絞った上着を火に翳していた。青年は側に寄った僕をちらりと見たが何も言わず、手の中の服を乾すためにそれを動かした。妹同様、彼の服もまた、上質の物。
時折、濡れた地面から腰をあげ、青年は焚き火の周りを回るように場所を移動した。その都度、濡れた時に服に付き乾いた土を掃う。そんな青年を、僕は火の熱を目の前にしながら眺めた。
今までは気付かなかったというか、気にしている間などない状況だったので仕方がないが、確かに青年はラリスが自慢に思うのも、リクが気に入るのも少しは頷ける整った顔立ちの男だった。尤も、僕の美的感覚が正しいのかどうなのかはわからないのだが。リクや他の精霊に育まれたそれは、人間社会では通用しないのかもしれない。主観的なものなので、接した数少ない人間に注意を受けたわけではないが、その可能性は捨てきれないと言うもの。
どこがと言えるほど顔が似ているわけではないが、横顔を眺めながら、青年は間違いなくあの少女の兄だと実感する。雰囲気がとても良く似ているのだ。ラリスのあの状況での勝気さはとても微笑ましく、精霊達と変わらず接する事が出来た。それはまだ幼い少女だからだろうと思っていたが、そうでもないようだ。僕より年上の、大人の男を前にして思うのは失礼なのかもしれないが、少女と同じ柔らかさを青年は持っていた。
僕はこの雰囲気が嫌いではない。
それは少し、父を思い出させた。父の周りはいつも、もっと強いそんな空気で包まれていた。そして、その柔らかな優しさに隠れるように、小さな陰も持っていた。切なく寂しい、暗い影を。
青年の寄せられた眉間に、父の面影を見た気がした時、静寂は破られた。
「目の前にしても、少し信じられないな…」
青年は、乾いたのだろうか手にしていた服を肩にかけながら、僕を見た。
「そうですね。少なくなってきているそうですからね、精霊使いは」
「若いな、いくつだ?」
「17です」
「ここには、修行にか?」
その言葉に、僕は少し意表を突かれ、軽く眉を上げた。魔物が住む迷いの森と言われる場所で、何故精霊使いが修業をすると考えるのだろうか。精霊の力を借りるために必要なものは、何かを極めて得られるものなどではなく、言うなれば運命みたいなものだから。
「まさか。ここに住んでいるだけですよ」
修業ではありませんよ、極普通に暮らしています。
そう言った僕の言葉に、今度は青年が驚いた。
「住んでいる? ここに!? イエリに住む者がいるなど、聞いたことがない…」
「いい山ですよ。言い伝えのせいで皆は怖がっていますけどね」
青年の反応に肩を竦めた僕に、彼は濃い金色の髪をかきあげながら、今は黒に近い、深い青い瞳で僕を見つめた。
「…いつからここに?」
「多分、生まれた時から。正確に言えば、物心ついた頃から、ですか。それ以前の記憶はありませんからね」
僕の答えに、「信じられない…」と彼は息を吐く。だが、嘘だとは思っていないのだろう、納得しようとするかのように、数度首を振った。
「…いつも、ああなのか?」
「何がです?」
「精霊を呼ぶ時だ。まるで友達に話し掛けるように言っているな」
やはり、幼い子供とは同じにはいかないようだ。僕は心の中で小さく溜息を吐き、青年に向かって肩を竦めた。
「そうですね、普通はもっときちんと言うんでしょうね。僕の父もそうでした。…もう亡くなったのですが、彼もまた精霊使いでした。
火の精霊よ、我は汝の力を願う、我望みを叶えたまえ。とかなんとか言っていました。だけど、僕は不肖の息子、いや、弟子かな。そう言った堅苦しい言葉を嫌ったんですよ」
「…それで、いいのか?」
「さぁ? でもあなたの見たように精霊は僕に応えてくれるので、いいんだと思ってやっています」
「…適当だな」
「そうですか?」
僕が首を傾げると、青年は真面目な顔で頷き、直ぐにそれを崩して笑った。
「精霊使いは、もっと気難しい奴だと思っていた」
「偏見ですよ」
多分、と僕は心で付け加える。僕も、そして父も、気難しいといわれるような性格ではなかったが、そう言う人間がいないとも言い切れない。
僕は青年から視線を外し、月が浮かぶ川面を見た。暗い川で躍る光は、精霊のよう。
僕は父以外の精霊使いに会った事はない。精霊達に時折他の精霊使いの話を聞く事もあるが、大抵は、その者はもうこの世にはいない。だから、聞いてもそれだけの事でしかない。彼らの思い出に少し触れるだけのもの。
僕の精霊使いとしての師は、父であり、精霊達本人である。
だが、父はどうだったのだろうか。僕は時々考える。父はどうして精霊使いになったのだろうかと。
その答えはもう知る事は出来ない。父を知る精霊達も知らない。彼らは父とは幼い僕を連れてこの山に来た頃からの付き合いなので、それ以前の事は何も知らないらしい。いつから、精霊使いなのかも、それ以前にどこで暮らしていたのかも。
それをどうしても知りたいというほど強い思いはないが、それでも、どうしてだろうかと僕は思う。
そして、父は何故、僕とこの山で暮らしていたのだろうかとも。
疑問も不安も何もなく、僕は一度も父にその事を尋ねた事はなかったが、少しは成長した僕は、僕と同じ年頃だった時の父の姿を時折想像する。
知る事は出来ないものに、思いを馳せる。
それは、切なくも虚しくもない、心地良い感覚だ。何でも良いが、知り得ないものが、見えないものがあるというのは、良い事だ。
だから、僕は、人々が精霊を夢のもののように思い始めているのは、悪くはないのかもしれないとも思う。精霊達にすれば忘れられるのはとても悲しい事なのだろう。だが、彼らがその存在を信じても、決して精霊達は幸せにはなりはしないだろうと僕は思う。だからこそ、父は幼い僕を諭したのだ。
精霊の姿が見える事は、他人に言っては駄目だ、と。
「あの言葉は、呪文か何かか? まるで名前を呼んでいるように聞こえる」
青年が、肩にかけていた服に袖を通しながら言った。僕よりも幾分か背は高いが、体付きは比べ物にならないだろう。綺麗に付いた筋肉は、街に行った時に会う、小太りのおじさんとは違う厚みであり、布で覆われてもその動きはとてもしなやかだ。
逞しい体には似合わない腕の包帯を見ながら、僕は軽く笑った。
「そうですね、僕の呪文は砕けすぎているので、話をしているみたいですよね。でも、実際はそんなものなんですよ。彼らが反応してくれなければ沢山お願いをして、きいてくれたら礼を言う。
まあ、他人から見れば、一人で会話をしている変わった奴でしかないんでしょうね」
「あぁ、変な奴だな。あの会話を見なくても、お前は十分変わっているようだ」
「それが助けた相手に言う言葉ですか?」
青年の言葉に僕は肩を竦めてそう言ったが、別に腹立たしさなど起こらない。特に下される評価に興味はない。
「悪い。だが、森で出会った妹はともかく、自分も危険なのに俺を助けに来た。変わってないなんて言えないだろう。下手したら本当に死んでいたかもしれないんだ」
言葉を紡ぐうちに、青年の目は真剣になっていく。
「放っておくべきでしたか?」
「いや、感謝している」
「そう。でも、確かに結果的にはあなたを助けたが、僕は僕のために動いただけですよ」
言われないと欲しくなったのかもしれないが、こう真剣に礼を言われると、逆に持て余してしまう。僕はそれほど真面目に、善意を持って彼を助けたわけではないから。ただ、成り行きでこうなってしまっただけだ。
「どういう意味だ?」
「あなたが領主の息子だから、僕は寒い夜に川に飛び込もうと思った」
「…褒美が貰えると、そういうことか?」
僅かに顔を顰めたが、それも当然の事だと思ったのか、青年は頷く。だが、僕はそんな事は考えてはおらず、「褒美?」と思わず聞き返してしまった。
「なるほど、そういうのも可能なんですね。残念ながら、僕には思いつかなかった。違いますよ。
僕はこの山の中でずっと静かに暮らしてきた。月に一度は街に下りますが、それ以外人との関係は殆どもっていない。必要ないからです。このままこうして暮らしていきたいと思っています。
ラリスからあなた達のことを聞いた時、考えたのは山を荒らされるのではないかという事です。領主の子供が二人行方不明になったとなれば、いくら恐れられているとはいえ探さないわけがない。そうでしょう?」
もう、麓では騒ぎになっているかもしれない、そう言った僕に、青年は軽く首を横に振った。
「…いや、まだそこまでいっていないだろう。ここに来る事は誰にも言っていない。
それに、時々だが、星を見に行きそのまま夜を明かすこともあるから、明日の朝までは父上も騒ぎにはしないだろう」
「そうですか。なら、朝になればラリスの熱も引いているでしょうから、すぐにでも山をおりて下さい」
「あぁ。そうしよう」
青年は真剣な顔で頷き、「だが…」と呟いた。
「それにしても、可笑しな奴だな、お前は」
僕はただ肩を竦めておいた。反論や同意をするほど、僕はお人好しではない。勝手に言っていればいいのだ。
家に着いたのは真夜中だった。
ベッドの上で眠る妹を見て青年は安心したようで、何度も僕に礼を言った。腕の傷を治療している間も、じっと少女の寝顔を見つめ、「本当に良かった」と呟く。どちらかといえば危なかったのは自分だというのに、それを棚に上げての発言は少しおかしい気がしたが、指摘するほどのものではない。そんな彼に僕は温かいお茶を入れたカップを渡した。
「ハーブティーです、落ち着きますよ」
「ああ、すまない。頂くよ」
「もう、呼吸も落ち着いてきていますし、彼女は大丈夫ですよ。それを飲んだら、あなたもそちらのベッドで寝て下さい」
僕は青年に空いているベッドを示した。
父のベッドは、いつも手入れをしているので青年が寝るのに問題はない。あるのは、僕の感情だけだ。
「…いや、俺はいい。君が寝てくれ」
そのベッドが誰のものであるのか、先程交わした会話で気付き気遣うのか、ただこれ以上の迷惑は避けようとするだけなのか。それとも、僕のベッドに向けた視線の中で何かを感じたのだろうか…。
青年は僕を見つめ、小さく首を振ってそう言った。
「いえ、僕は向こうで居ますから」
僕は小さな笑いを落とす。
「妹さんについていたいでしょうが、眠ることをお勧めしますよ。あなたが倒れたら帰ることが出来ないのでね」
「えっ?」
「熱が出ていますね、息が荒い。怪我をして熱を出して、ホント、似ていますね。兄妹とはそういうものなんでしょうか」
「……」
「お茶には薬を入れていましたから、後はゆっくりと休めばいい」
「だが…」
「お休みなさい」
それでも抵抗を見せる青年の手から飲み干したカップをとり、僕は挨拶を落とすと、ベッドに腰掛けていたトウに青年の事を頼み部屋を出た。
寝室を出ると、部屋の中にはリクがいた。その姿を確認しながらも、僕は暫くドアに凭れ目を閉じていた。
考える事は、ない。頭の中は真っ暗だった。きっと機能を使いすぎてしまったのだろう。体同様脳も疲れている。
溜息をひとつ落とし、瞼をあげ、ドアから体を起こす。
「リューク…」
「うん」
「…大丈夫?」
「…ああ、もちろん」
歩く僕に並んで浮かぶリクに、小さく笑いかける。
「……でも、さすがに疲れたかな」
問い掛けをはぐらかせ、僕は椅子に座ると、コトンとテーブルに頭を横たえた。そんな僕の目を覗くかのように、リクが視線の先に座り込む。
「…ソルかヴァン…呼ぶ…?」
彼女が気遣わしげに言った夢の精霊の名に、僕は首を振る代わりに目を閉じた。
「…ううん、いいよ。…リクが居てくれるんだろう…?」
口元に落とした笑みに答えは返らなかったが、彼女が頷いたのだろうことはわかった。
「…お休み、リューク」
「ああ、…お休み」
いつもの元気な声とは違う、慈悲にみちたその優しいリクの声を耳にし、僕は闇に落ちていく。
心配してくれるリクには悪いが、幸せな夢を見る気分ではない。
ただ、何もない闇に身を委ねる眠りが、今の僕には必要なのだ。
2003/02/20